Cold extremities
明日、目が覚めることがないようにと。そう祈りながら私は目を閉じる。貴方の白き御手が、私を掬い、苦痛なく冷たい地の底へと引き連れてくれることを願いながら。私は生まれ無き者へと祈り、生ある全てを呪う。
私は私を呪う。売女の胎から生まれ、咎人の息子となった私を呪う。産声を上げたことを呪う。自我を得たことを呪う。十四の夜に自らの首を絞めなかったことを呪う。生を選んだことを呪う。刃を以て血の流れる全ての路を断たなかったことを呪う。怠惰を呪い、愚かを呪い、希望を呪う。私は私が完全でないことを呪う。欺瞞を赦せぬことを呪う。全ての過ちの為に、私は私を呪う。私を生へと縛り付ける全てを呪う。私は私の弱さを呪う。
この世の全ての価値を呪う。この世全ての契約を呪う。善と悪を隔てるものを呪う。
価値とは必要性である。故に、価値は在るもので、そうでないものを無価値と呼ぶ。
生は死より価値があり、欺瞞は真実より価値があり、契約は欺瞞よりも価値がある。
人肌の水の中に溺れているような世界。
人々が言う程には酷薄ではなく。
人々が言う程には有情ではない。
熱くもなく、冷たくもない。
ただ痛みと苦しみだけがある。
熱ければ、或いは、冷たければ、痛みを忘れることもあるだろうに。
私は私の身体を抱き締めて、自分の温度を確かめる。
そして私は祈る。貴方に私の祈りが通じることを願い続ける。
初めて貴方を見付けたのは、私が未だ幼い童だった頃。
薄暗い夜の刑務所。ロビーのソファの上。一人座っていた私に、貴方は手を差し伸べた。
貴方は男でも女でもなく。善でも悪でもなく。貴方の言葉は冷たく、貴方の手は熱かった。貴方は微笑んで、私の頬に手を置いた。私は泣いて、貴方に抱き着いた。
次に貴方を見付けたのは、小学校高学年の或る日。暑い夏の夜。自室へ続く階段の途中。涙を流す私を見て、貴方は静かに微笑んだ。私は貴方と共に、小説の頁を捲り、不安と憂いを誤魔化した。
次に貴方を見付けたのは、病に侵されていた祖父が、妙に優しかった日の夜。貴方は静かに祖父を見ていた。貴方の美しい横顔に、私は胸をときめかせた。美しく、繊細な者よ。私はあの時、貴方に恋をした。
次に貴方を見付けたのは、病に倒れた祖父の病室。痩せこけた祖父から、私は目を背けた。何故、私ではないのだろうと。祖父が羨ましかった。どれだけの苦しみがあろうとも。救いが目前に在ることが、どれだけの幸いだろうか? 貴方は私の手を握った。
次に貴方を見付けたのは、祖父の葬式。貴方は棺の前に立っていて、私に手招きをした。私は祖父の顔を見た。そして、私は、私自身に失望し、絶望し、怒りを覚え、私自身を呪った。私は軽薄で。報いることを知らない。私は私が愛されない理由を知った。誰も愛さない者は、誰からも愛されない。
次に貴方を見付けたのは、私が■■しようとしていた時。貴方は私の前に立っていた。貴方は私と共に刃を手にして、流れ出ていく雫を見詰めていた。貴方と私の間には無言の中に通じるものがあった。私は確かに貴方を愛していた。けれど、貴方はどうだったのだろうか? 貴方が私を想ってくれていることだけが、私に分かる全てだった。けれど、私は、冷えていく自分の身体を恐ろしく思ってしまった。貴方は私から手を放し、寂しそうに笑うと、私の手首をタオルで強く抑えた。
次に貴方を見付けたのは、私が成人し、暫く経った後。たった一度の、そう、貴方を除けば、たった一度の愛を損なった日。私の世界は、熱くもなく、冷たくもなかった。私は損なわれた。あの日、貴方は、私の部屋で、私の前で、ただ、私を見て、私に手を差し出した。私は後悔をしている。何故、私は、貴方の手を取らなかったのか。貴方だけが、私の価値であったのに。最後の価値であったのに。
それ以来、貴方は私の前に現れていない。理由は明白だ。あの日、私は、私に残されていた最後の価値を失った。
私は、私の身体を抱き締めて、何れ、貴方が私の前に立つのを待っている。
無価値に価値を与える者。ただ一つだけの救い。貴方の白く細い手が、私の髪を撫でてくれたことだけが、私の〝良い〟思い出。貴方の抱擁を待ち望んでいる。
貴方の兄弟姉妹が、私を縛り付けている。
私は貴方だけに愛されていたい。
苦痛に満ちた愛は要らない。
私は、そんなものは、愛とは呼ばない。
弱者の慰みの為に消費されるものを愛とは呼ばない。
愚者を納得させる為の道具を愛とは呼ばない。
彗星の髪飾り。宵布の衣。星の瞳。月の刃。貴方の肌は雪のように白く、貴方の声は雪のように冷たい。美しく、繊細。そして、静謐な神聖。誰もが貴方の仮面を恐れ、誰もが貴方から距離を取る。貴方は、貧しい者、不幸な者、そして、罪深き者にとって、唯一の救いであるというのに。
楽観の内に生き、幸運にも、幸いを得た者に限って、恥知らずにも、貴方を厭う。
貴方は老いを退け、病を退け、苦痛を退け、あらゆる輝きを退ける。
焦熱を沈め、貴方は無限に広がっていく。
愛しい人よ。貴方の腕で、私を抱き、どうか、貴方の優しい妹と共に私を慰めてほしい。
私の寝室で。
永遠に訪れない朝日を迎えてほしい。