第七話
数ヶ月後、狭いアパートの一室で星次がクラリネットで『愛の夢』を吹いていた。
歌夜が困ったような笑みを浮かべながら、
「また近所の人から苦情が来るよ」
と言った。
「今日は、お隣も下の階も留守だから大丈夫だよ」
吹き終えた星次が答えた。
「そうやって恋人に演奏するの、なんて言ったっけ」
「セレナーデ。日本語で小夜曲。小さい夜の曲って書いて小夜曲って言うんだ」
星次の言葉に、
「小夜曲……じゃあ、もし女の子なら『小夜』っていうのは?」
歌夜が言った。
「え、もしかして……」
驚いた表情の星次に歌夜が照れたような笑みを浮かべた。
「前に『愛の挨拶』を吹いてくれたでしょ。多分、あの日の……」
「やった! じゃあ、次は小夜のためにシューベルトの『子守唄』を……」
「まだ女の子かどうか分からないのに」
「子守唄なんだからどっちでも……」
星次の言葉は大きなノックの音で遮られた。
「部屋で楽器の演奏しないでって何度言ったら分かるんですか!」
外から大家さんの怒鳴り声がして二人は首を竦めた。
星次は大家さんに謝るために玄関に向かった。
「これが小夜か」
星次は白黒の超音波検査の写真を見ながら嬉しそうに言った。
二人で病院に行って帰ってきたところだった。
「星次さん、それ上下逆だよ。それにまだ女の子かどうか……」
「先生が女の子じゃないかって言ってたじゃん」
「多分、だよ。男の子だったときの名前も考えておかないと」
歌夜はそう答えながら、帰りに買ってきた写真立ての包装を剥がしている星次を見ていた。
星次は超音波検査の写真を写真立てに入れている。
「それ、飾るの!?」
「だって小夜の初めての写真だし」
星次はそう言って写真立てを棚の上に飾った。
歌夜は病院のベッドの上で溜息を吐いた。
つわりが酷くてもう一ヶ月以上入院していた。
十二月になるとどこも第九の演奏会をする。
演奏会の数が多いため、楽団に所属していない演奏家も臨時で呼ばれる機会が増える。
ただ第九の演奏会は数が多すぎるので有名な楽団でも空席が出る事があるくらいだ。
まして普段でもチケットが売り切れないような楽団では小さなホールでもチケットを捌ききれない。
その為、楽団によっては出演者にチケットの割り当てがあった。
ノルマが捌けなければ自腹を切らなければならない。
それでも演奏会に出れば関係者に顔つなぎが出来るので本来なら生活を切り詰めてでも引き受けるところなのだが今は歌夜の入院費で余裕がないのでノルマがあるところは全て断った。
歌夜の入院代は高額療養費制度を利用しても二人にはかなりの負担だった。
星次は今日、唯一ノルマが無かった演奏会に出演している。
「折角の演奏会、聴きに行きたかったな」
歌夜が呟いた時、微かにクラリネットの音が聴こえてきた。
窓辺に立って外を見ると星次が病院の門の前でクリスマス・ソングを吹いている。
時計を見ると、もう演奏会は終わっている時間だ。
病院の建物と門の間は広いロータリーになっているし、門の前は大通りだから苦情は来ない。
「この寒いのに。バカ……」
歌夜は溢れてきた涙を拭った。
星次は門の前でクリスマス・ソングを吹き続けた。
「やっぱり女の子だった」
病室で星次が得意気に言った。
「名前、小夜でいいよね?」
星次が確認するように訊ねた。
元々歌夜が言い出したのだが気が変わったかもしれないと思って確かめたのだ。
「いいよ」
歌夜が小夜をあやしながら言った。
星次は携帯で小夜の写真を撮りまくった。
「どれがいいかな」
「え?」
「携帯の待ち受け」
星次がそう言って歌夜に写真を見せる。
「小夜を携帯の待ち受けにするの?」
「そうだよ」
「親バカ」
「いいじゃん、別に」
嬉しそうに写真を選んでいる星次を歌夜は苦笑いして見ていた。
歌夜は手紙を見て溜息を吐いた。
保育園に入れないという通知だ。
これで何度目になるか分からない。
今は星次のバイト代だけで暮らしているからただでさえ家計が苦しいのだ。
妊娠中の長期入院で仕事を辞めざるを得なかった。
働いていないとなると専業主婦と見做されて保育園の入園の優先度は低くなってしまう。
しかし子供を預けられないと仕事も探せないという悪循環に陥るのだ。
シングルマザーは優先的に入れるからペーパー離婚をしている夫婦もいる。
歌夜がペーパー離婚の話を持ち出したとき星次は断固として拒否した。
普段、歌夜の頼みなら何でも聞いてくれる星次がそれだけは強硬に反対した。
それくらいなら音楽家を諦めて就職するとまで言われてしまうと歌夜もそれ以上は主張出来なかった。
歌夜としても書類上だけとは言え離婚などしたくない。
人に言ったことはないものの本当は何よりも欲しかったのは家族だ。
書類だけだとしても手放すのは嫌だ。
とはいえ星次のバイト代だけでは食べていけない。
この状態が続いたら家賃も払えなくなって親子三人で路頭に迷うことになる。
待機児童が少なく子育て支援の手厚いところに引っ越そうにも、もうその金すら無い。
完全な手詰まり状態だった。