第五話
大学でフランス語のレポートの評価を聞いた星次は胸を撫で下ろした。
とりあえずフランス語が原因で留年という事はなさそうだ。
とはいえ……。
「どうしたの?」
部屋に泊まりに来た星次が浮かない顔をしているのに気付いた歌夜が訊ねてきた。
「いや、フランス語の成績、ぎりぎりでさ」
「フランス語が出来ないと困るの? フランスに留学したいとか」
「そうじゃなくて……」
外国語の履修は必須だから取っているだけだ。
だから高校の時やっていたから、とか、漢字が読めるから楽そう、とか、そんな理由で選んだのだ。
しかし友人達は違った。
いつか本場のイタリアの舞台に立ちたいからとか、入りたい楽団がドイツにあるからとか、皆目的があって外国語を選択している。
元々世界で活躍できるような音楽家を育成するための大学だから、そこへ行く者もそれを目標にしている人間ばかりだ。
星次も音楽家になりたいと思っていたとはいえ他の皆は心構えからして全く違っていた。
卒業さえ出来ればいいとか、音楽家と言っても国内の楽団には入れればいいとか最初からそんな志の低い人間はいなかった。
外国語の選択一つとっても将来を見据えている。
そんな友人達の前では恥ずかしくて音楽家になりたいなどとは口が裂けても言えそうにない。
「音楽のことは分からないけど……皆が皆、そんな高いところを目指さないといけないの?」
「え、だって……」
「日本で演奏してる人達だって同じ音楽家でしょ。私がオーケストラを聴いてみたいって思ったのは世界で活躍してる人の演奏を聴いたからじゃないよ。星次さんのクラリネットを聴いたからだよ」
「…………」
確かに世界を目指す義務があるわけではない。
国内での演奏活動だって音楽家の立派な仕事だ。
ただ……。
正直、星次の場合、それすら叶うか怪しい。
星次はいつか家族を養えるようになったら歌夜にプロポーズしようと思っている。
しかし音楽家を目指していたらいつになるか分からない。
もしかしたら一生無理かもしれない。
音楽家にはなりたいが、その反面、早く歌夜と家族になりたいとも思っている。
歌夜の娘はきっと歌夜に似て可愛いだろうし、息子でもそれは同じだ。
歌夜が産んだ子供ならきっと目の中に入れても痛くないほど可愛いに違いない。
女性が出産出来る年齢には限界があるし、そうでなくても子供が大学を出るまで現役で働けなければ学校へも行かせてやれないし、行かせてやれたとしても卒業と同時に介護を始めなければならないような年だったら子供は結婚も出来ないかもしれないし、当然何人も作るのは無理だ。
それを考えるとあまり時間はないし、中途半端な年になってからではあまり良い就職先は見付からないだろう。
星次は教員免許を取っていなかった。
そこも何も考えずに科目履修をしてしまったツケと言える。
音楽家になりたいと言いつつ皆と比べると努力が足りず、その割には音楽家になれなかったときに備えてもいなかったから今頃になって焦る羽目になった。
それなら最初から諦めて就職した方がいいのではないだろうか。
就職したからと言ってクラリネットが吹けなくなるわけではない。
趣味で続けていけるのだ。
父から就職先を紹介すると言われている。
諦めて就職して、歌夜と結婚して休みの日にクラリネットを吹く。
それで十分ではないのか。
音楽は学校のテストと違って小手先の技術でなんとかなる世界ではない。
それでも……。
〝私がオーケストラを聴いてみたいって思ったのは星次さんの演奏を聴いたからだよ〟
自分の演奏を聴いて音楽に興味を持った人がいる。
あの日、星次はあの人の演奏に衝撃を受けた。
それと同じ事が自分にも出来た。
もしかしたら可能性はゼロではないかもしれない。
諦めさえしなければもしかしたら……。
悩んでいる星次を歌夜は黙って見詰めていた。
「ごめん!」
卒業式の日、大学に卒業祝いを言いにきた歌夜に星次が謝った。
「やっぱり、どうしても音楽家への道は諦められない。だから就職はしないでバイトしながら楽団に欠員が出るの待つ事にした」
星次が頭を下げたまま言った。
歌夜も数日前、高校を卒業した。
経済的な理由で進学出来ない歌夜は既に就職先が決まっている。
「いつになるのか分からないから待っててとは頼めない……」
歌夜に両親がいない事もあり以前から結婚の話はしていた。
歌代は進学しないから卒業後すぐに結婚しても問題ない。
だが不安定なバイト暮らしで結婚してくれと言う訳にはいかないと思ったのだ。
「そうだね。私も待ってるのは嫌だな」
星次が肩を落とした。
「だから一緒に暮らそ。一人より二人の方が生活費も安上がりだって言うし」
「いいの!?」
「うん」
「やった! ありがとう!」
星次が歌夜を抱き締めた。
「その代わり、私の夢も叶えて」
「いいよ、何?」
「プロポーズされる事。今のは結婚の申込じゃないからね」
「分かった! 結婚して!」
「もう。全然ムードないんだから」
「あ、ごめん」
「……いいよ」
「やった!……で、いいんだよね?」
星次が心許なさそうに歌夜の顔を覗き込んだ。
歌夜が頬を染めて頷いた。
「やった!」
星次が再び歌夜を抱き締めた。
「君の為にセレナーデ弾くよ」
「それは止めて」
歌夜が即答した。
「え、なんで?」
「恥ずかしいからに決まってるでしょ」
「そ、そっか……」
星次は残念そうな表情を浮かべた。
「明日、バイト休みになっちゃった」
歌夜が夕食の支度をしながら言った。
就職先が決まっているとは言え給料は実際に働き始めるまで貰えないのだから三月いっぱいはバイトで生活費を稼がなければならない。
卒業前は放課後だけだったが、卒業して登校する必要がなくなったので今は朝から夕方まで働いて夜は家に帰ってきている。
星次は音楽家になると言って父の勧めた就職先を断ったので勘当されたし、どうせ歌夜と結婚するのだからと言うことで彼女のアパートに転がり込んでいた。
星次は楽団の欠員を探したり、いつでもオーディションを受けられるようにバイトは夜勤で昼間は臨時の仕事だけをして稼いでいる。
ただ工事現場など手にケガをするような仕事は出来ない。
そうなるとバイト料の安いところくらいしかない。
「じゃあ、明日は時間あるの?」
星次が訊ねた。
「うん」
「なら明日、届け出しに行かない?」
二人で行こうにも歌夜は毎日昼間働いているからまだ婚姻届けを出していなかった。
歌夜は気にしてないようだが星次としては早く届けを出したい。
無いとは思うが婚姻届を出してないと他の男と結婚出来てしまうのだ。
今更他の男に横取りされるのは嫌だった。