冬3 前
橙の陽が薄い雲に反射する、ある夕暮れのことだった。
見慣れた気配に気づいて、私は目を開けた。
彼女が、今度は娘に車椅子を押されて橋にやってきた。
彼女も娘も無口で、山へ沈んでいく夕日を眺めていた。
しわがれて、力の入っていない四肢は、彼女の時がもうほとんどないことを、氷のように示していた。
「…ここでいいよ」
彼女が絞り出すように言い、車椅子が停まる。
娘は静かに、彼女を見つめている。
「…もし、この川に、神様が、いるんならさ」
一言一言、区切るようにハッキリと、虚空に語りかける。
落ちる前の椿のように静かな声で。
「お礼を、言わせておくれ。もう、みんなには、言ったからさ」
娘が涙目になる。
家族や友人には、もう済ませてきたのだろう。
別れのための挨拶ではなく、感謝のためのお礼を。
「私が、此処を最初に渡ったのは、まだ母さんの、腹の中だったけど」
人の寄り付かぬ橋を、何度も渡る人間に興味を持ったのは、いつぶりだっただろうか。
「ここまでこれたのは、この橋のおかげでも、あるのさ」
そして人の赤子と目が合い、悪戯にこれを書き始めた。
「いろいろ、失敗したし、夢も、満足に叶えられてない」
あれから、ひとりの人が老いるまでの時間が経ってしまった。
「悔いが全くない、なんてワケないし、間違ったことも、多分してる」
どうして興味を持ったのかは、分からない。
本当に、理由などないのかもしれない。
「でもさ、これだけはハッキリ言える」
胸に手を当てて。
包み込むように。
解き放つように。
「ワタシの人生は、少なくとも私は、いい物だった。そう思っているよ」
傲慢だとも思われるような宣言だ。
けれど、それで良いのだと言うように、彼女の瞳の光が瞬いている。
「…神さまは、見てたかい?」
一呼吸置いて、語りかける。
私に、語りかける。
「私の人生を、見ていてくれたかい?」
もしかしたら、理由なんて無くても良いのだろうか。何故か気になったで、良いのだろうか。
「私の人生は、良い物だったかい?」
そうだとするなら、八十七年の彼女の生涯を共に歩んだことは、ただの戯れでは無かったのだろうか。
いや、ただの戯れであったとしても、そこには命が、意義が、あったのだろうか。




