コンプレックスバースト
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七月七日。織姫と彦星が一年に一度会うことが許されたというロマンティックなこの日も、私は変わらず大学だ。
三限目の現代文学の講義。二五〇名収容可能なアーチ型大講義室のドア側エリア、前から三列目に友達と並んで座る。六、七割の学生は机の下に隠しながらスマホをいじったり肘をつき顔を乗せて居眠りしたりと勉強以外に勤しむため後列に着席している。
この前列の辺りは不人気で人がまばらだ。少しでも集中して講義を受けたい私は最前列でも良かったが、多少はサボりたい友人から猛反対を受け今の位置に収まっていた。
筆箱、ルーズリーフ、前回の配布資料を机に置いてスマホの電源は落としてしまう。微かなバイブ音でも自分のスマホから鳴れば気になってしまう。
「#玄七__くろな__#さん、今日も徹底してるね~」
隣で肩肘をつきながら準備の様子を眺めていた旧友の#青丹__あおに__#さんが笑う。
「青丹さんも電源落としてね。君のスマホの音も聞きすぎて自分のスマホと同様に気になるから」
「えー……今日はこっそりマンガ読もうと思ってたのに」
「じゃあ一切音が鳴らないようにして。クスッとも笑わないでね。笑ったら尻バットよ」
「そんな年末恒例番組みたいな」
ぶつぶつ文句を言いながらもポケットからスマホを取り出して通知をOFFにするあたり、青丹さんとの付き合いの長さを感じる。
青丹さんは知っているのだ。
私はやるといったらやるタイプだということを。
お昼を外食で済ませた友人が駆け足で合流して二分後、ベルと同時に#有働__うどう__#教授が入ってきて今日の出席カードを律儀に人数分配布する。
基本的に優しい教授ではあるが、教授より後に来た学生には出席カードを渡さない適度に厳しい面もある。
有働教授が演壇の前に立ちファイルから一枚の紙を取り出し、マイクを構える。
数ある講義の中でも特に楽しみにしている私は体がうずうずして軽く前のめりになる。
「えー、みなさん。こんにちは。お昼過ぎには地獄のように眠くなることで有名な現代文学の講義です。早くも俯せになって寝ようとしている方もちらほら見受けられますので、早速皆さんが大好きな『みんなのお悩み相談』から入りましょう」
講義室内に好奇を含んだざわつきはじめる。先程まで俯いていた人もスマホをいじっていた人も隣と話しつつ前を向いている。
第一回目の講義から欠かさず『みんなのお悩み相談』コーナーが最初に入るのだが、これがなかなか個性的で個人的、赤裸々な悩みで面白い。有働教授の研究室前に可愛らしい河童のぬいぐるみがついたポストがあり、そこに誰でも自由に投書することができる。匿名での投書が可能なものだから、質問以外のあまりよろしくないような内容の手紙やゴミを入れられることも度々あるようだけれど、有働教授は「それでこそ人間ですねぇ」と笑っていた。
「えー、今日は夏らしい熱くて胃もたれしそうなご相談をいただきましたのでご紹介します。例によって原文ママに読み上げますので僕の言葉じゃありません。そこのところよろしく」
教室内に笑いが起こる。
有働教授は文体を見て、それっぽく読み上げる天才だ。読み方が自然すぎて『お悩みは有働教授の自作自演、作り話なのではないか』という非難めいた投書があったと先月の講義の際に言っていた。
有働教授は気にしていないようだが、証拠がなくても非難出来て言った本人は特定されないーー匿名の怖いところだ。
「えー、読みます。『いつも楽しくお悩み相談聞いてます!』ありがとうございます是非現代文学も同じくらい楽しく聞いてくれれば嬉しいですね。『早速相談なのですがもうすぐ夏休みになるので、いつメンで海に遊びに行こうと思っているので、水着を新しくしたいなって思って』句点がなくて一文が長いですね。『大好きな彼ピと買い物に行ったんですが、まったく真剣に選んでくれません! どんな水着がいいか聞いても「なんでも似合うんじゃない?」と決めてくれません! どうしたらいいでしょうか?』という、恐らく女性からの投書ですね」
読み終わった有働教授は読んでいる自分が可笑しかったのか、口の端が上がりっぱなしになっていた。
「いやー、僕はこういう投書好きなんですよね。今の時代だなって感じがしますし、こんな悩み相談の皮を被った最上級の惚気話と自慢なんてなかなか聞く機会もないですからね」
有働教授は右から左へ講義室全体を見渡すとさらにその笑みを深くする。
「あとね、こういう恋愛の話が出てくると、教室内に半分ちょっとくらいかな? それとはあまり縁のない方々の苦虫を噛み潰したような、嫌悪と羨望が混じったなんともいえない表情が見えて、楽しい。そういうのが文学になるからね」
無意識に青丹さんの顔を見ると青丹さんもこちらを向いていて、思わず吹き出す。更に友人を順々見てみればみんな同じような表情をしていて、お腹が痛くなった。類は友を呼ぶのだ。
「ね、みんなそれぞれの顔を見てみるとこれだけでその人がどんな人かわかるね。ーーええと、なんだっけ。ああ、彼氏が水着を選んでくれないってご相談ね。これはね、なかなか男にもプライドがあるから素直に、例えばちょっと際どいセクシーな水着とかね、言い辛いよね。もしかしたらスクール水着とか貝殻とか好きな場合もあるからますます女性には言いづらいかもしれない。無難を選んで言えば嘘つきになっちゃうかもしれないし」
有働教授の言葉に講義室の女性陣から「えー!」「やだぁ」と軽く悲鳴が上がる。
「ね。こういう反応されたら傷ついちゃうから。男もガラスのハートなの。女の子側から好みを聞いてきたのに正直に言ったら引かれるって、よくあるけど結構理不尽だよね。僕からすれば全然好きである分には無害だから良いと思うんだけど。ただ、もしかしたらその彼氏は恥ずかしいかもしれないから、遠回しに聞いた方が彼氏も言いやすいかもしれない。大丈夫、みんな少し変わった趣味を持っているものだよ、ね」
有働教授が男性陣に視線を送るとニヤニヤしながら頷く人、困ったように首を傾げる人、自分には関係ないと微動だにしない人など様々だ。
中には「俺はセクシーなのが好きです!」なんて聞かれてもいないのに挙手して答える目立ちたがり屋もいる。
「うんうん、若いっていいね。さて、じゃあ十分経っちゃったからね、このワイワイした雰囲気の中で現代文学の講義を始めようね」
一瞬で静まり返る。それすらも可笑しい、と有働教授は大笑いしていた。
ベルと同時に授業は終わり、演壇の上に出席カードを提出して学生が退室していく。
「いやー、今日の講義も面白かったー」
「お悩み相談が? 講義が?」
「私は現代文学好きだからどっちも。でもさ」
「玄七ちゃーん!」
今日はもう講義のない私と青丹さんが昇降口を出ると後ろから高めの声がした。
立ち止まって振り返るとクラスで五番目くらいに可愛い#朱莉__あかり__#ちゃんがそこにいた。
「朱莉ちゃんお疲れ様」
「玄七ちゃんも青丹ちゃんもおつかれさまっ。前々回の講義のノートありがとう! 暫く借りてごめんねー……」
「いえいえ。朱莉ちゃん具合悪かったんだから困ったときはお互いさまよ」
「なんてお優しい……!」
朱莉ちゃんは拝むような仕草をする。こういう茶目っ気があるところも彼女の魅力だ。
「それにしても玄七ちゃんのノートちょうカラフルで見易かった! むしろ黒が全然なかったからびっくりしたよ!」
なんてことないその一言に体がピシリと固まる。
「あー、うん……カラフルな方が見やすいかなって、さ」
「そっかぁ、そうだよね! なんか黒アレルギーなのかなーなんて思っちゃった!」
「ーーあはは。もう、なにそれー」
一瞬顔が引きつりそうになるのをなんとか抑えて、無邪気な朱莉ちゃんの笑顔に同じように笑ってみせる。
「あたしもよくわかんないんだけどねっ! でも排水溝に詰まった毛とか見るだけで気持ち悪くてゾワゾワしちゃうから、そういうアレルギーがあってもおかしくないかなって」
「ーーーーそうだよね! あれは気持ち悪いもんね!」
「あー……、うちもワカルナァ」
隣で笑いながらもちら、ちら、とこちらを見る青丹さんの背中を、朱莉ちゃんに見えないようにそっと抓った。
「あ、いっけない! あたし次も講義入ってるから行くね! またねー!」
「そっか。がんばってねー!」
「またねー!」
手を振りながら次の講義に向かう朱莉ちゃんを見送って、見えなくなった瞬間に顔の力を抜く。
「玄七さん、顔、顔」
「バレなかったかな……バレなかったかな⁉︎ 黒を使いたくない理由バレなかったかな⁉︎」
通気性の良い長袖カーディガンの上から腕を摩る。
「落ち着いて、玄七さん。朱莉ちゃん絶対気付いてない。というかそれで気付く人はいない」
「でも、ノートに黒がないなんて不自然だよね⁉︎」
「いやまあ黒で書くのが一般的だけれども」
「迂闊だった……人に貸すことによる影響は失念していた……」
駐車場に停めてある車にそそくさと乗り込み、ハンドルに項垂れる。車内は熱気がこもって蒸し暑いのに嫌な寒さを感じていた。
助手席に青丹さんが乗り込む。
「ほんとに気付くわけないって!」
青丹さんが身を乗り出す。
「玄七さんが毛深いのを気にしているから密集した黒いものが苦手だなんて」
「うぐうううう」
言葉にされると何倍も傷付く。
痛む胸を押さえた瞬間に袖がめくれて腕が覗く。今朝剃ったばかりだというのにもう、点々と毛が主張し始めていた。
それは体質というほかなく、幼い頃から私を苦しめていたものだった。
産毛、などといった可愛らしいものではなくがっちりと根の張った太めの毛が主に手足に蔓延り一時期猿なのではないかと仮説が立ったほどだった。
しかしながら親の愛情は流石で、いくら毛深かろうと気にせず育ててくれたお陰でそれらを気にすることもなく育つことが出来た。
ーー小学五年生までは。
事件が起こったのも夏の日だった。休み時間、みんなでかくれんぼをしていると、一人の男子と偶然にも隠れた場所が被ってしまった。いらぬ噂が立っては困ると場所を変えようとしたが無情にも鬼のカウントが終わってしまう。仕方なく二人で生垣の陰にしゃがみながら隠れているとその男子はじぃっとこちらを見つめてくる。
この男子に恋心をいだいていたわけではないが、少女漫画読み盛りの当時は残念なことに、このシチュエーションにときめいていたのだ。
向こうの方でみんなが騒ぐ声がしているのをどこか遠くに聞いていると男子が口を開いた。
「お前、ちょう毛深いな。ゴリラみてぇ」
自分で言って面白かったのか、その猿みたいな顔をニヤつかせながら、日に焼けた綺麗なままの自分の腕と比べて見せたのだ。
それは短い人生の中で初めて味わう衝撃だった。
一度気になりだすと止まらないもので、友達のつるつるとした肌を見る度に自分が人間ではないような気がして、周りの目を気にしながら肩身の狭い思いで静かに目立たず過ごしていた。
そう、それこそが私のコンプレックスの始まりだった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
なんとか安全運転を励行し青丹さんを送り届けて自宅に帰った。今日もまた忌々しい毛の処理をしなくてはならない。
『~、~、』
お風呂場に諸々の道具を用意しているとスマホが震える。
通知を見れば先程別れたばかりの青丹さんだった。
スピーカーに切り替えて風呂場の蓋へ立てかける。
『もっしもぉし』
「あらやだ青丹さん先程会ったばかりなのにすぐに電話をかけてくるなんてどんだけ私のこと好きなのかしら」
『うへへ……ストーキングしてや「切るわ」ああ嘘です嘘です! というかなんかめっちゃ声響いてない?』
「今はお風呂場で戦争中なので」
『え? ーーーーーーーーああ、そういうこと。相変わらず熱心だね』
棚の上からブラジリアンワックスを取り出す。この蜂蜜のように綺麗な液体に毛が大量に絡まるのを思い出すだけでなんともいえない気持ちになる。
「はーもう毎度毎度嫌になる」
『今なにやってんの?』
「君から教えてもらったらブラジリアンワックスを塗りたくってる」
『うちもやろっかな』
「嫌だよなんで君と電話越しに脱毛し合わなきゃならないの!」
『固まるまで時間かかるんだから話し相手いるときにやっちゃえば一石二鳥でしょ⁉︎ はいもうやりますから!』
制止の声も聞かずにバタバタと足音が遠ざかってガサガサ音が帰ってくる。
「君はこの間夜中に電話をかけて来たときにもブラジリアンワックスを使って脱毛してたと言ってたけど、何故毎度私と話すときにするのか。まさか、そういう性癖もしくは毛深い私への嫌がらせ⁉︎」
『めっちゃ拗らせてるとこ悪いんだけど実は玄七さんを恨んでいた的なドラマティックな展開ないからね⁉︎』
「じゃあやっぱりそういう性癖なのね」
『違うし! もっとポジティブで感動的な理由ーーそう、玄七さんの前ではどんな姿も見せられちゃう、そんな感じかな』
「あ、そろそろ剥がせるかな」
『人がキメてるんだから無視しないで⁉︎ 寂しいから!』
「キマってないんだよ全然」
電話の向こうでキャンキャン騒ぐ青丹さんを他所に、右足の適度に固まったワックスに手をかける。
「ふーっ、ふーっ」
『え、何その荒い呼吸? 今からお産でもするの?』
私はこの剥がす瞬間が、どうしても、慣れない。
一気に剥がすというのはわかるのだが、初めて挑戦した時から一気に剥がしたところで身悶えるほど痛かった記憶が勢いを削いでしまう。
けれど、剃るよりも一気に抜いてしまった方が次に群生するまでの期間が長くなる。とはいうものの先日処理したばかりの両腕には毎日根強い固めの毛がひょっこり現れるのだから気休め程度ではあるが。
本当はこんなにお金と時間がかかる上に痛くて辛いことはしたくない。
「う、う……」
躊躇い、恐怖に手を離しそうになった瞬間。
ふと電話の向こうから厳かでそれでいて気分を高揚させる曲が流れてくる。
はっとしてスマホを見る。
「青丹さん、この曲……」
『戦う玄七さんへ贈ります。『情熱大陸』』
軽快なバイオリンと優雅なピアノのメロディに背中を押され私は覚悟を決めた。
「いや、ミスマッチ過ぎでしょ」
『えー? でもテンション上がるっしょ?』
「まあね。でも脱毛は決してテンション上げてやることじゃないよね」
無事に両足の脱毛が済み、保湿液を塗りアフターケアをしていると頭が冷静になる。
結論として、やはり痛くて盛大な呻き声を青丹さんに晒してしまった。暫く再起不能になった私を他所に青丹さんも両足の脱毛を済ませたようで「いてっ」と小さな声が聞こえていた。
『でもテンション上げないと玄七さん思いきれなさそうだったし』
「お気遣いありがとうね! 今は反動でテンション下がってるけど」
『脱毛したらテンション上がんないかな? 一気に抜けた毛を見ると感動するけど』
「私は絶望するね。こんなに毛深いのかって。あんなに素晴らしい曲流しながら脱毛してしまって曲を汚した気分だよ」
その一言がツボにはまったのか音割れするほどの笑い声がスマホから聞こえる。
『はあー……玄七さんはコンプレックスが過ぎるから逆に面白くて好き。うちも毛深いの気にしてる方だけど玄七さんと話してると可愛く見えてくる』
「なにその悲しい共存関係」
一度ツボに入るとだいたい何を言ってもおかしいようで声にならない笑いが聞こえる。
「笑い事じゃないのよ! ただでさえ世の中の金髪オフショルミニスカ高ヒール恋愛依存症パリピリア中に人生エンジョイランキング勝てないというのに毛深いだなんてハンデを追ってたら人生どん底よ⁉︎」
授業をあれだけ真剣に受けている訳がここにある。わからないことはその場で解決し成績くらいは自信を持てるようにすること。そしてその場で授業内容をしっかり把握することにより復習の時間を脱毛時間に充てることだ。
脱毛には液を塗ってからの待機時間があるのだから時間がかかる。手軽に、剃るという手段を用いる場合もあるが、剃ればますます毛深くなると聞いてから使い過ぎないように心がけていた。
「今日のお悩み相談だって羨ましくてしょうがなかったよ。彼氏どうこうより水着という惜しみなく肌を晒すチョイスが出来ることにね!」
『まあね……この間そのグループが水着の話してるの聞いたけど殆ど生えてこないらしいよ? そういう体質で』
「神様まじ不公平やめて。世の中につるんつるんな女子ばっかりにするのやめて。せめて美の価値観を変えて。毛深い女性は美しいってことになればこんな苦労しなくて済むのにぃぃぃ」
『みんな猿人になるバイオテロするしかないんじゃない?』
「やるか。いやでも今から研究者の道を目指すよりだったら全身脱毛一年通う方が早くて現実的な気がするんだけど」
『じゃあ全身脱毛すればーーなんてみんなは言って来るんだよね!』
「そうそう、でも言いたいのはそういうことじゃないしって感じ!」
見えない何かに不平不満を言い始めると自然にどこかのオバチャンのような口調になり、「あらやだ」なんて気取り始める。
「脱毛サロンなんて贅沢は夢のまた夢! バイトしたところで生活あるから金がないし、そもそもこんな交通の便が悪い大学の近くにそんなオシャレ~なものあるわけもない。つまり移動費もかかる」
指折り数えれば出来ない理由などいくらでも挙げられるのだからため息が深くなる。
『実際見せたい相手もいないしね』
青丹さんの一言で沈黙が訪れる。
「ーーお風呂場は寒いなぁ」
保湿とマッサージでポカポカの足を引き摺りながらリビングへと逃避した。
リビングのラックに置かれたパソコンを開く。青丹さんも部屋に戻ったのか先程までドタドタと歩き回る音がしていた。
「そもそも青丹さんなんで電話かけてきたの? さっき毛の話しかしてないけど」
『んー? あ、いや大したことじゃないんだけど玄七さん毛にまつわる話には神経質だから、さっきのノートの件とかで動揺してたりしないか気になっちゃっただけー』
「え、青丹さん……私のために……?」
キーボードを打ち込む手が止まる。
「へへっ……」
スマホの向こうで青丹さんが照れ臭そうに鼻をかいている様子が浮かぶ。
「さっきまで散々自虐めいた毛の話してたのに?」
『それはそれ』
再び沈黙が流れる。
『いやほんとコンプレックスって他人が想像しているよりずっと本人を苦しめている場合があるからさっき心配だったのは嘘ではないんだけどむしろ笑い話になるならそれも悪くないかと思いまして。毛の話ってなんか面白くない?』
青丹さんは興奮気味に一気に言い切った。
青丹さんに同意するのはなんだか癪ではあったが、先程までなんだかんだ乗り気で話していた自分を思い出すと否定もし切れない。
「まあ、人によっては面白いのかもね」
『うちは玄七さんと話す分にはネタにできるよ。玄七さんは馬鹿にしたりしないし』
「そりゃそうだよ! 自分が毛深いのに相手の毛深さをいじったら自分のこと棚に上げて何言ってんだって言われるわ!」
『もー! 拗らせてるんだからー! 信頼してるからありのままを見せてるのに! 彼氏にも見せたことのないありのままを!』
「それは彼氏がいないからでしょ!」
怒っているようで笑いを堪えているのか上擦っている声にこちらもつい笑ってしまう。
ネットを開きSNSを見てみる。『ムダ毛』と検索してみればいくらでも出て来る。脱毛器の広告、女性らの憂鬱、はたまた脱毛完了報告。
「すごい時代になったね」
『ん?』
「女性だからってムダ毛を気にするのはおかしいって論争があるよ」
『ほうほう』
「女だって毛が生えるのは自然なことなんだからと毛をそのままにするらしい」
『性的役割からの脱却的な?』
「うーんと」
様々な意見を読み漁る。いまだ天使を表すかのような理想の女性像に捉われている人は確かに老若男女(実年齢はわからないが)問わずいるようで「女はかくあるべき」という話は尽きない。それを「おかしいこと」とし、変えていこうという主張のようだ。
だがネット上の発言など知り合いでない限り曖昧で、そこで述べられる『みんな』とか『世間』とかいう得体の知れない存在の発言に対して一喜一憂していてはキリがない。
『玄七さんは、どう思う?』
意見を読み上げていると、不意に青丹さんが尋ねる。
「私は、女性どうこうよりも自分を客観的に見た時に毛深いことで嫌悪感を抱くのが嫌なんだよね」
『ほう』
「顔の造形もスタイルも良いわけじゃないし特別オシャレのセンスがあるわけでもないんだけど、案外それは自分が納得して気に入っていればいいの。世間一般の美女と似ても似つかなくたって私が好きだから。ーーでもね、毛深いのだけは私に対する私の美学に反するの」
マウスを動かす右手の薬指にひょろっとした毛を数本見つけてピンセットで抜き取る。
「まあきっかけは昔あの猿に毛深いことを揶揄われたことだけど」
『あの猿?』
「ほら隣の町内にいた猿顔の」
『あー! 木沼だ! 色んな子に『ブス』だの『デブ』だの言ってたコンプレックスメーカーの異名を持つ猿顔男子!』
「そんな異名あったの⁉︎」
青丹さんは鮮明に思い出してきたのか被害に遭った子の名前とエピソードを次々に挙げていく。被害の多さに、ため息がでる。私と同じように今もまだ悩み苦しんでいる人がいるのではないかと考えると木沼の罪深さを実感する。
何かしらで断罪されぬものかと考えていると
『あいつ今おでこ後退してハゲてるらしいよ』
「マジで⁉︎」
青丹さんからの衝撃の情報に思わず大きな声が出てしまう。
私と違い交友関係の広い青丹さんには様々なルートから色々な情報が入ってくる。
『マジマジ。木沼と大学一緒の友達に今の写真見せてもらったけど後退してた。本人も気にしてるのか
、よく帽子被ってるって』
「おお……」
気持ちが鬩ぎ合ってうまく言葉が出てこない。
今までコンプレックスに悩んだ私は木沼の心中を察すると同情してしまうのだが、同時に色々な人を傷つけた報復を受けているのだと思えばガッツポーズの一つもしたくなる。
SNSの検索画面に新着の投稿が上がる。彼女のムダ毛に幻滅した男のツイートのようで「ゴリラかよwww」と草を生やしている。アイコンをクリックしてみれば個人情報など意識をしていないようで本人と思われる写真が載っている。更に拡大してみれば、手で隠してはいるが広めのおでこが見えた。
「木沼に、そっくり」
そっと呟く。
それが本当に本人かどうか定かではないが、かつて木沼に言われた言葉と同じ発言、後退したおでこに、木沼の陰をみて「お前はカッパかよwww」と心の中で毒づいた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
七月の後半にもなると暑さが厳しさを増し、いよいよ薄手とはいえ長袖長ズボンでは耐え難い。
夏休みも近くなると周りは露出度が上がり否が応でもつるんつるんの肌が目に入り、コンプレックスを疼かせる。
気の所為だとは思うが、夏はいつも以上に毛が伸びる速度が速い気がする。植物と同様に太陽に向かって伸びる習性があるのではないかと疑った程だ。
だが今日は挫けていられない。
一週間の楽しみである現代文学の講義があるのだ。
「ふうー、漸く涼める~」
「暑かったねぇ」
お昼を早々に済ませて大講義室のいつもの席へ座る。小さな教室では暑さ対策など窓を全開にするくらいしか出来ない上に時折蜂が乱入して大騒ぎになる。一方、大講義室はクーラーが付いているため、いつも快適に過ごすことが出来る。
筆箱、ルーズリーフ、前回の配布資料。いつも通り机に並べてスタンバイする。
「ばっちりやる気満々」
「うちも!」
隣では青丹さんがスマホアプリのゲームをしている。画面を覗き込むと動物が戦っているのだが、時折ドラゴンや鳳凰など架空の生き物もいる。
「くそっ巨大ゴリラが倒せない! 尻尾切られたゴクウかよ!」
「あれ猿じゃないっけ」
その姿を思い出しノートにイラストを描く。うろ覚えで描いたところではどちらともとれない曖昧な生物となった。
「似たようなもんだよ」
画面にloseの文字が表示された瞬間にまた友人達が他の学生に紛れて駆け足でやってきて、その二分後に有働教授が入ってくる。
出席カードを配り、演壇に立つ。
「えー、みなさんこんにちは。暑さが増してきてだだらけてしまいそうですね。ここは涼しいので快適で寝やすいかもしれませんが夏休みまでもう少し頑張りましょうね。さて、みなさん大好きな『みんなのお悩み相談』コーナーからいきます」
有働教授はファイルから一枚の紙を取り出しマイクを構える。
「今回は非常にシンプルで、だからこそ深いお悩みです。読みます『有働教授こんにちは。詳しくはいえないのですが、昔からコンプレックスがあり、何事も消極的になってしまいます。コンプレックス克服の方法があったら教えてください』です」
有働教授は人差し指で頭をかりかり掻くと首を傾げた。
隣から視線を感じて見ると青丹さんがこちらを凝視している。どうやら私が投書したのではないかと疑っているようだが、残念ながら私ではない。
小さく首を横に振ると青丹さんは納得したようで首を縦に振った。
「えー、コンプレックス克服の方法、これはなかなかに難しい問題ですね。言ってしまえばその人自身の感覚によるものなので。参考になるかはわかりませんが僕の実体験で良ければお話しましょう」
議題が議題なだけにいつもよりはざわめきが少ない。いつも騒いでいる、コンプレックスなどなさそうなパリピグループが興味なさそうに寝たりスマホをいじったりし始める。
「えー、僕は皆さん見てすぐにわかるように、頭の天辺が非常に薄い……というか天辺は生えておらず、近隣の髪達にお願いして拝借しているだけなんですね。なのでいわばハゲです。皆さんも僕に初めて会った時の印象もきっとそうだったかと思います」
笑いながら話す有働教授につられて教室に笑いが起きる。
確かに有働教授は天辺が薄く、横の髪を流すようにして肌色を隠している。
「皆さん見てすぐに思うくらいですからもう見ぬフリも出来ないほど、結構これは僕にとってのコンプレックスでした。男というのは歳をとってもカッコをつけたいものなのですが、いくらばっちりスーツを着てポーズを決めたところで、頭の天辺がハゲていると一種の滑稽さみたいなのが出てきてしまうんですね。悲しいことに。ーーもしこれがイケメンだったら反応は違うかもしれませんが、残念ながら補えるだけの顔面偏差値もないし整形するお金もないのでね、悲しい運命を僕は背負って生きてきました。ここは笑うところです」
他人のコンプレックスにはなんとも言い難い。面白いのだが同じくコンプレックスを持つ者として、その悲しさがよくわかってしまう。
共感できる喜びで笑うよりも興奮が勝る。
流石この先生は悩みを正しく理解してくれているのだと、身を乗り出して話を聞いている。私の腕を青丹さんが掴んでくれていなかったら立ち上がって声を上げていたかもしれない。
「自分の感覚次第とはいってもなかなかコンプレックスをなくすのは難しい。そんな時に僕はとある記事と出会いました」
黒板に、白いチョークで書かれていく文字を目で追う。
「『ハゲの進化論』です」
今日一番、教室が騒めく。
「猿人類が進化して人類になった時に比べると毛が無くなりましたね」
展開が見えなくなった私はピタリと動きを止めた。
「火を起こすようになり、道具も使いどんどん進化して今の僕たちになっています。進化した結果、毛がなくなったということです。つまりハゲて体毛が薄いということはそれだけ僕が進化した存在だと証明しているわけです。すごいでしょう。つまりは捉え方なのです」
有働教授が自慢げに学生たちに頭の天辺を見せびらかすと悲鳴やら簡単の声やらで賑やかになる。
違う。
違う違う。
そんな結論に着地してほしいんじゃない。だってその結論になったらーー。
空調が効き過ぎたかのように体が冷えていく。
授業が本題に変わったが頭に一切入ってこない。
講義終了のベルが鳴ると各々が動き出す。
手元には真っ白なページと先程描いた一匹の動物が愉快にわらっていた。