人としての確信
この家にお世話になった時と同じ部屋に向かう。違うのはあれを見たということだ。もはや篠崎の中でカノのことは記憶から搔き消え、この世界が篠崎が最初に目覚めた影のような存在のいる世界にどこか通じるものがあるように感じた。
「お疲れ様でした。意外と篠崎さんは平常心を保てていたようですが、私は始めてあれと対面したときは夢か幻かと疑ったものです。しかしそのせいで私は右足を失いました。今はどこにあれが潜んでいるかもわからないのでメンテナンスにも行けず、すこし左右のバランスが悪くて困っている状態です。」
と篠崎が気にしていたことを見透かしたように足のバランスの悪さのことを話した。しかし首に残っている縫い跡については触れなかった。
「では、私の知る限りをお話します。あれは、少ないようで実は多いのです。ですがそれが問題となっていないのは、奴らがその家族単位で汚染、感染、ともかく同種に変貌させているため、大きく気付かられない。むしろ気づいたらすでに地域単位、村単位で奴らのものに変化している。それは一見しただけではわからない。だが彼らは人が食べるような食事をとらない。だから食品店に人がいなかったりファミレスや飲食店に人が入っていなかったりするともうそこに人はほとんど残っていない。たまに君と同じように幸か不幸か飲まれるタイミングにいない人物がいる。そんな人は後から今回の奥さんのように家族のみを標的に動き始める。しかし奴らは集団を離れられないのか、地域内の人間を徐々に引き入れるのに、学校や社会で活動もしている。しかしそれはもうこれまでの人とは違う。だから周りの人間も最初はおかしいと思う。しかしそれもこのご時世、他人不干渉の精神なのか、解答をしないと距離を置かれるが、ただそれだけだ。そうなるともう溶け込んだのと同じになる。今のこの国はこのことを知っているのかどうかわからないが、他人と関わらないこの国の人間の生活は奴らにとって好都合だったのだろう。」
というと絶望感に襲われた様子で、言葉が詰まる。しかし彼も話を続ける。
「昨日君に睡眠薬を飲ませた。それは君も気づいていると思う。とある研究機関のもつ病院で薬剤師をしていた。これが真実だ。君が思っている以上に薬物は手に入れやすく、人かヒトでないかを見る目も残念ながら養われてしまう。それが唯一わからないのがあなたのような、世に不信感を漂わせた人間や酒や薬物で目が虚ろになっていると判別がつかない。ちなみにあなたは後者の方だ。」
といい、すこし重い雰囲気を軽くしようとしてくれたのだろう。だが、篠崎はそんな気遣いは無用である。妻という存在が何に変貌していようとそれに対する想いが強くなかったことに気づいたからだ。篠崎は穂香さえ元気でいればそれでいい。それ以外の問題因子は如何なる手を使っても振り払うつもりでいることも訳の分からない世界を体験するようになって気づいたことだ。今の篠崎は自らの欲求を満たすこと、子どもの安全と幸せを願い実現すること。そしてそれらを邪魔するものは如何なる方法でも取るということ。つまり、今回のことで穂香がどうなっているのか心配でたまらないのだ。
「家に帰ることは危険なのかはわかりますか」
と篠崎はミオンに聞いた。ミオンはそれに対し冷淡とも道場ともとれる表情で言葉を口にする。
「篠崎さんのお子さんは何歳くらいですか?」
「2歳ですけど。それが何か」
ミオンはそれを聞いて顔を曇らせる。それを見て篠崎は家に向かって駆け出した。
「ちょっと」
というミオンの言葉は聞こえているがその先は聞こえない。篠崎は家までを走った。そういえばこの昼間にここまで車の交通量が少ないのはおかしいな。と思いながらも自宅にたどり着いた。そこは以前全く知らない男と女がわが子を抱いて出てきた家である。この鍵で開くのかと思いながら開錠を試みる。息を飲みカギを回す手に力を入れた。すると扉は開き、人の気配はない。部屋の家具や仕様は自分たちが住んでいたものと同じだ。篠崎は子供部屋へ向かう。子どもは起きてはいるが泣きもせず、瞬きもしない。それはこちらの存在に気づき直立する。たどたどしいなどではない直立し悠然と歩行してくる。「穂香?」
という篠崎にそれは何も言わず、どんどん近づいてくる。これは穂香ではない。それは認めざるを得ない。しかし穂香の顔形をしている。にもかかわらず、行動は異常だ。認めざるを得ない。妻の時のように潔く、認めるべきだ。といいながらも穂香の皮をかぶった何かでも穂香であるという気持ちを消すことができない。ほのか、穂香、ホノカ。どうして、どうしてなんだ。わたしが何をしたというのか。なぜこんな不合理なことを見せるのか。どうしてこうなったんだ。篠崎が考えているうちにそれは目の前まで来た。そして、両手を伸ばしてだっこをせがむようにする。すると自然と手が穂香の両脇に伸ばしていた。温かい。穂香の温かさである。しかし穂香はだっこされることはあまり好きではなく玩具と戯れる方が好きな娘だ。篠崎にとって抱きしめられるわが子は何日かぶりであることもあり、本当にわが子をだっこしている気分になった。望んでいた幸せ。やっと娘に会えた。そんな気さえしていた。だっこをしても何もされない。少なくともミオンが言うような危険性を感じない。大丈夫なんじゃないのか。ミオンのところに連れていこう。彼なら相談に乗ってくれるだろう。そう思って、穂香用のおむつやら下着を袋に詰めて加えて、自分が持っていた短刀を腰と靴に忍ばせ、小刀を手首に固定した。そして外に出ようとしたとき粉ミルクを準備することを忘れていたことに気づいた。玄関に荷物を置き粉ミルクと容器を取り出しバックパックに詰め、穂香を前に抱く。荷物を持って再度外に出ようとしたとき、外から声が聞こえた。それは隣のいつもヒステリー気味に声を荒げるおばさんだ。感情に流されるだけの人間を心底嫌う篠崎にとってこのおばさんはまさにそれだった。しかし今のそのおばさんは人が変わったように淡々と、むしろ感情の抑揚もなく言葉を発している。逆に気持ち悪い。そして普通の人の会話としても違和感がある。人はどうしても会話をするとその言葉に自然と抑揚をつけるが、その会話にはそれがない。ずっと同じ音程で話しをしているような気味悪さ。玄関のドアに耳をあててその話を聞いていると、インターホンが鳴らされる。
バレた!?しかしなぜ。どうしたらいい。とりあえず平然を装うことにし、屋内のインターホンカメラを見て、返事をする。
「はい」
「宅急便です」
と言われ、どっと安心する。
「ちょっとまっててな、穂香」と穂香をリビングに残し、玄関に荷物を受け取りに出た。するとそこには宅配業者を装ったミオンが立っていた。子ども一人が入りそうな大きな段ボールをもっている。
「集荷依頼に参りました。箱も伝票もないとのことでお持ちいたしました。」
というと玄関に入って扉を閉めた。玄関の外で話しをしているおばさんたちの視線をうまくかわしてくれた。
「どうしてここが」
「申し訳ないですが昨日のうちに住所は調べさせてもらっています。このあたりはかなりの部分が奴らのものになっています。だから車でここまで迎えに来ました。子どもを連れて出ることは自分が人間であることを露見させてしまいます。しかしあなた一人と宅配業者が子どもを入れた段ボールをもって出れば不審には思われません。だから私があなたの子どもを運びますのであなたは普通に何食わぬ顔で平然と出かけてください。」
というとミオンは奥に入っていく。穂香を見たミオンは苦虫を嚙み潰したような顔をして、それを隠すように帽子を深くかぶりなおす。そして何も言わずブランケットで段ボールを包むと穂香を入れ、さらに掛け布団を上にかけて段ボールをガムテープでとめた。
「それでは、後ほど」
というと先と変わらに様子で
「ありがとうございました。」
といい、出ていった。少し時間がたったのを見計らって篠崎もミオンのところへ出かけた。不思議と誰にも不審がられていない。家を離れると走ってミオンの家に向かう。
到着するとインターホンはあるが、それに加えて監視カメラがあることに気づく。そして表札である。どう読もうにもミオンとは読めない。ここは他人の家なのか。と思いながら、インターホンを押した。
すると返事もなくミオンが戸を開け、迎え入れてくれた。
「だいぶ急がれたようですね。」
と多少の怒りが感じられる口調に危険な行為だったかもしれないと謝罪した。
「まぁ、済んだことを言っても仕方がないです。あきらめも時には必要ですよ。」
という。その時は変な言い回しをするなと思ったが、それ以上に穂香のことが心配で
「娘はどこに」
と聞くと
「案内します」
と歩き始め、地下へ続く階段へ案内され、そのまま追従した。奥にはかぎの掛かった扉があり、それをあけると天井から吹き抜けになって太陽光が入るように作られていることが分かる。意外にも面白い造りをした家屋だと思った。しかし今はそれよりも穂香だ。
「穂香はどこに?」
というと、ミオンは言葉を発せず、指さすだけにとどめた。そこには妻の時と同様のガラスに覆われた空間に入れられた穂香であった。
「きさま、俺の娘に何をする」
と胸ぐらをつかむと。
「あなたは心の底ではわかっているはずだ、これはあなたのほのかちゃんではないということを。」
もう自分を騙していても先に進めない。
「どうにかならないか」
「どうにかなると思いますか。」
と間髪入れずに答えるミオンに憎しみさえ覚えそうだ。しかしミオンはすがるように言葉を重ねる。
「どうにか戻す方法は思いつきませんか。あなたは私よりライフサイエンスの知識が深いようです。何か知恵があれば試してみたい。」
これが本当のミオンの願いなのだろう。大切なものを奪われそれを戻したい。そんなところだろう。
このような現象は人食いバクテリアに似ている。しかし現状の医学ではそれを完治させることはできない。侵された部分は切除することが通例である。しかしそれにしては進行が速すぎる。何がきっかけでこんなことになっているのか。それが分からなければ穂香も元には戻らないということだろう。
「教えてほしいんですが、このような現象に気づいたのはいつ頃できっかけを教えてもらえますか。」
するとミオンはあまりにもつらいのか、申し訳ないが酒を飲みながらでもいいかという。悪酔いしなければいいだろうと考え、
「お酒はほどほどに。」
というと日本酒を持ってくる。おちょこは二つ持ってくるが
「私は車を運転するかもしれないから飲みません。気にせず、話をはじめてください。」
そういうと、ミオンは3杯ほど飲んでから、それでも重々しい口調で話し始めた。
「あれはもう半年前くらいになるでしょうか。飲み会で終電がなくなり、いつもはバスで帰るのですがその日は歩きで帰ることにしました。最初は何を大声を張り上げているのわかりませんでした。酔っていたので猫の喧嘩かとも思うような状態でした。しかしその声がその地域から聞こえてくるのです。男性の声、女性の声、子どもの声。さすがにおかしいと思いましました。警察に住所を言い状況を伝えたくらいです。それから、その叫び声みたいなのを聞きながら、家路についていました。すると家の隣の家から奥さんが泣きながら飛び出してきたのです。私には何が何やらと言った感じでした。旦那さんは温厚な方でこのあたりでは珍しくご近所にも挨拶をしてくるくらいの方でした。その旦那さんはいつもと変わらない様子に見えましたが、その時は私が奥さんの前に立っているのに私が目に入っていないようでした。その時の私にはその旦那さんが多少変に思えただけでしたので、背中に隠れた奥さんを旦那さんに渡したのです。すると、人目もはばからず、口づけをされました。そんなところ見たこともなかったので、驚いてしまいました。しかしあまりにも長い、酔っていたためそう感じたのかもしれません。しかし、旦那さんの前身の皮がたるむようになるに従い、奥さんの身体が膨らんでいき、奥さんがけいれんし始めたのです。それでさすがに変だと思い、ちょっと場所を気にしてくださいと言って二人を引き離したのです。ですが、二人の身体は離れているのに二人の口には何かしらぬるぬるしたものがつながっていて奥さんはそれが突き刺さっているせいで立っているように見えるような印象でした。正直何が起こっているのか全く理解できませんでした。あっけにとられていると、そのぬるぬるしたものは途中でぷつんと切れ旦那さんと奥さんの中に納まり、旦那さんはそのまま奥さんを置いて家に戻っていきました。奥さんに目をやるとさっきまで叫んでいたのがウソのように痙攣もなかったかのように何事もなかったように立ち上がっていました。ただ、さっきまでとは明らかに体形が変わっていて、正直同一人物とは思えない変貌ぶりでした。そして奥さんもそのまま何も言わず家に戻られました。」
「普通に聞いていればただの酔っぱらいの浮世話ですね」
「そうです。それは私も認めます。しかし明らかにその日からその夫婦は様子が変わりました。旦那さんは愛想が悪くなり、奥さんも口数が減りました。そんな日から何日かたった日です。家には残業で遅くなると連絡を入れたのですが思いのほか早く終わって、早く帰れたんです。いつも通りただいまと家に入りました。しかし妻は出てこず寝ているのかと寝室にいくと寝室にも妻の姿はありませんでした。まぁいいか、子どもの顔に癒されようと子ども部屋に行くと妻が長女にキスしていたのです。いえ、もう飾っても仕方がないですね。あのぬるぬるのものを長女に移しているように見えました。さすがに電気をつけて確かめようとしました。妻はそんなことには気づいた様子はなくその行為を続けていました。私は我に返り妻を長女から引きはがしました。するとやはり長女の口にはそれが残ってうねうねとのたうっていました。私は必死にそれを引き出そうとしました。するとそれは娘の身体とともに引きずり出されていき、娘の身体は抜け殻のようになり、引き出したものは最初は人の形をとどめていたのですが時間とともに形状を失い、スライムのような固まりになり、見えていた娘の身体と思われるものはどんどん見えなくなっていきました。食われているのか?と思いました。その様子に恐怖し、妻に目線を移しました。すると妻は何事もなかったかのように作り笑いを浮かべていたんです。そのときもう、妻はダメで、長女もダメだと思いました。そこで長男と二女を両脇に抱えて急いで家を離れたよ。そして親戚のちょっと昔色々あった家に転がり込んだんです。もうそのころには爺さんしか住んでいなかったんで、さっきの話をしても笑い飛ばされてしまいましてまともに受け取ってもらえませんでした。しかし昔からの付き合いもあり、すこしそこにおいてもらうことになりました。」
「それがここなんですね」
「さすがですね。そうです。この家は私の家ではありません。その爺さんの家です。まぁその爺さんについては後ほど話すとして。連れ込んだ子どもはすでに手遅れでした。なぜわかったかというと泣かない、怒らない、かんしゃくをおこさない、食事ととらない、トイレをしない、挙句には寝ないというまさに異常な状態でした。そんなとき爺さんが子どもに果実酒を飲ませたんだ。すると子どもはその形態を保てなくなって大きな服をかぶった赤ん坊のようになった。これには爺さんも寝させるためにと思った行動の結果としては心臓が止まるような思いをしたのでしょう。長男と二女はその皮の中からスライムが出てきて爺さんを襲ったんだ。今まで人の形をした状態だとそんなことしなかったのに皮を破って出てきたそれは獰猛以外の何物でもなかった。目の前で爺さんはそれに包まれてみるみる姿を消した。そして、そのスライムは二つはもとの皮の中で動かなくなった。それを目にした私は恐ろしさのあまりそこから逃げ出し、倉に逃げ込んだ。震えながら気づけば、私は寝てしまっていて、家に戻ると子どもは二人とも元通りの人型になっていた。だから根本原因はわからない、ただ感染経路というか伝搬経路は濃厚接触感染であると思います。治す方法があると思いますか。」
「なんですかそれ。SFですか。」
「本当にそんな話です。でもあなたも見た通りその存在はいるんです。そしてあなたの家族もそのそんざいになってしまったことは事実です。奥さんだけでなく娘さんも。ざんねんですが。。。」
と篠崎の希望をあっさりと打ち砕く言葉を放った。
「なぜ、そんな言い方ができる!貴様には人間らしさはないのか!家族は誰にとっても大せつなものではないのか!そんなこともあんたにはわからないのか!」
「いえ、わかりますよ。痛いほどに。いいえ嫌というほどに自分自身を殺したいほどに」
その言葉には絵にも言えない重みがあり、多くを語らずに何とかひねり出したやっとの言葉であることを感じさせる。
「それを経験されてからは長いんですか。」
「そうですね、もう五年近くになるでしょうか。誰も信じられないのです。会社の人間も本当に人間なのかあれなのか。原因が分からないので食事も恐ろしくて最初は缶詰なのでそれも製造日が古いモノばかりを集めていました。水も凍らせて何時間もかけて4℃の部屋で限界濾過をしたものしか使っていません。あのころは、家族が急になくなり、何もかもが疑わしい状態で、でも相談できる人間も半月がつかなくて。」
当時を思い出すのがあまりにもつらいのだろう。時折天井を見ては眉間に手をやるミオンの姿はさっきまでのこの世界に慣れた頼れる存在のイメージとはあまりにも違っていた。
「とりあえず、そこまでやった結果あなたはあれには変容していないと。しかし今はそこまで気を使っていないようにも思いますが。」
「はい、あれを知ってから人間の中に人ならざるモノが巣くっている。そう思うと周囲の人の行動にこれまで以上に注意を払うようになるんです。そして初めに気づいたのが食でした。スーパーの総菜売り場の品が閉店間際にも関わらずあふれていたんです。スーパーの人に聞くとここ最近この状態が続いていて生鮮食品は変わらないのですが、品ごしらえしたものは全くになってしまったというんです。飛ぶように売れるようになったのが牛や豚を問わず、内臓系の食材ですね。このままでは総菜部門は閉めるかもしれないとも言っていました。つまりあれは素材を糧にはできても加工されるとそれは食べ物として認識しない。だから加工食品、総菜などは問題ないだろうと思いました。次に水ですが、これも市販飲料は炭酸、水、酒のほとんどが売れないのだとか。つまり奴らは液体にも興味を示すことはないと、まぁよく考えれば、食べることも飲むこともしないのだからそこには興味がないと思いいたりました。」
「まぁそうかもしれないが・・・」
と言いながら篠崎は自分の腕に忍ばせた小刀をとりだし、おもむろに指先を切ろうとする。
「ちょっと何をするつもりですか」
ミオンはあまりの光景に急いで制止する。しかし篠崎は確認のためですというと、との刃を指に刺し肉を切る。するとぽたぽたと篠崎の血が滴る。それをしばらく見たあと
「どうやら私はまだ無事のようですね。安心しました。」
といいつつ、ティッシュでナイフに付着した血液をきれいに拭き上げ、指の傷を両手でつまんで止血する。とはいえ、どういうわけかその傷口はなかったように消え、鮮血だけが残っている。それを拭きあげるとミオンに目をやり、ナイフを渡した。
「どうぞ」
という篠崎にミオンは動揺を隠せない。自傷を何とも思わないこの人物は何なのか。しかし篠崎の目は真剣そのものである。
「怖ければ、外でも向いていてください。麻酔はしませんが痛みはありません。しかしお互いに人間であることを証明する必要があると思うんです。あれは見た限り血液を持たないので皮に穴をあけると中身がすべて出てしまうたぐいのものと思います。それを確認すればお互いに安心でしょう。」
と淡々と述べる篠崎にミオンは了解して目をぎゅっと閉じて右手を篠崎に預ける。
「5年間もお一人でさぞやつらかったでしょう。そのすべてを理解はできませんが、その辛さがあまりにも強烈であったことは理解できます。私も似たようなものです。まだ日が経っていないので実感ないだけで日が経てばあなたと同じ気持ちになるかもしれません。」
「ありがとう・・・」
ミオンが小刻みに震えているのが手に伝わってくる。
「終わりました。もう大丈夫です。傷も残っていませんよ。」
と言われミオンは傷みすら感じなかったのに篠崎の前にはお猪口いっぱい分程度の血だまりができている。指を見ても切られた後も血もついていない。どうして。
「もう終わったんですか、痛みも全く感じなかったんですが」
というミオンに篠崎は
「これは私が市販のものを研ぎなおしたもので、刃には凹凸一つないのです。なので切れ味もそこら辺の者とはくらべものにはなりません。おそらくは医療用のメスよりも鋭利です。ですから、切断部分ももとに戻し少し圧をかけると、その生物の治癒力で一瞬でなかったもののようになります。初めてこれを見た方からはさすがに奇異な目で見られますけど、今はそんなこと言っている場合ではないので。」
というと篠崎はわが子に近づいていき、幼児の血液検査のように足にさっきのナイフで傷口をつけた。すると傷口から赤いものが塊としてとめどなく流れ出て、子どもだった方は形を失い皮だけになっていく。赤い塊が出ると急にそれは暴れだした。それでも篠崎はその皮を取り出し、ミオンに蓋をしろと指示する。中身はガラスを破壊しようと、外に出ようと暴れているようにも見えるが、何か指示体を求めているようにも思えた。そこで、篠崎はミオンに
「ナイロン製か陶器など、布で作られたもの以外の人形やぬいぐるみはあるか。あればその中に入れてみてくれ。」
というと部屋を出て、とてもかわいい西洋人形を持ってきた。
「これでいいかな。」
というミオンに
「それはどこか関節を外せるか、外せるなら外して、両方を中に入れてくれ。」
という。ミオンは言われるがまま、篠崎に従った。その間の篠崎の様子を見ることはできなかった。あまりにも残酷な事実を自らの手で明らかにし、その抜け殻、娘の皮であろうものを抱きしめ涙をこらえられずにいる。そんな姿を当時の自分も倉の中でしていたのであろうかとミオンは昨日のことのように鮮明に思い出す。その時の爺さんの断末魔とともに。それをミオンはぐっと飲みこみ、篠崎に聞く。
「どうしてこんなことを」
というミオンに
「真実を受け止めるために。いや受け入れるために。かな。」
なぜ言い直したのかミオンにはわからなかったが、それを気にしている余裕はない様子で篠崎はミオンにあれを見るようにとガラスの方を指さした。そこにはさっきまで暴れていたあれはいなくなり、二足で歩く西洋人形がいた。
ミオンは何が起こっているのかわからない様子でいたが篠崎は無視して言葉を発した。
「これはおそらく治らない。すまない。」
篠崎はわが子でそれを確かめたのだ。その辛さは自分が傷つく以上に想像もできない苦痛だろう。しかし彼はそれを実行し、自分の子どもが助からないこと、ミオンの救いに応えることができないことを意を決して確かめたのだ。それを知ったミオンは
「すまない。一人につらい思いをしょい込ませてしまった。本当に申し訳ない。」
救えない家族、救われない自分、これからどうするかもわからない。急に目の前が暗黒に満たされたようにミオンは意識を失った。