秩序崩壊
気持ちが落ち着くまでにどれほどの時間がたったのだろうか。篠崎の中では様々ことが脳内で再生され、膨大な時間が流れたような実感があるが、実際には数分のことである。切断したおかげでバランスを崩した腹部分が隙間を広げ外の様子がうかがえるようになっている。思いのほかボスは高く投げなかったようだ。始める前の様子と外観はほとんど変わっていない。ボスは非道なことを言いながらも他の種の住む場所も守ろうとしたのだろう。対等に会話ができる状態を得るために自らを犠牲にし、篠崎さえも守ろうとした。全てを知った上でそれでも実行に移したボスの強い想いがこの景色に表れている。
「お前の頼みを実現するには亡骸はここに放置するしかない。なくなってしまったら責任の所在さえ明確ではなくなってしまう。もはやお前をばらそうとは思えない。葬ってやれないことをすまなく思う。」
そして穴から体を何とか抜き出し、ボスを見る。言葉が全くでてこない。胸の世の部分は焼け焦げ腹の部分は岩石がぶつかったようにえぐられ、中身が露出している。頭部も多くの飛散物に襲われたのだろう。顎は片方は筋肉によって何とかぶら下がっている。眼球にも直撃したのだろう。そこに目があったのか、むしろそこが顔であったのかさえ疑いたくなるような変形した歪な形状に変化している。
「こんな状態で話していたのか。身を呈して守ってくれたのか。」
自分の私利私欲にまみれた考えが何と幼いものであったか実感する。そして他の生き残りが行動を始める前に篠崎は元居た牢のところに戻り、あらかじめ用意してもらっていた食料で数日をそこで過ごした。
その間、たまに聞こえる足音や風を切るような音が聞こえていたが、それもいつの間にか止んでいった。
篠崎はあのアリが約束を守ってくれたことに感謝し、外に出ようとする。しかし出入り口には無数の蟻の死骸が積まれている。篠崎はこの状況がすぐには理解できなかった。そんな篠崎の後ろからあのアリが武器を杖代わりにしながら近づいてきていることに気づく。
「これはどうしたんだ。」
と篠崎はアリに問いただす。するとアリは
「上層の奴らからの報復さ。奴らはボスがやったことは我ら全員の罪だと主張して。対等な話し合いをするどころか、一気に戦争状態に突入した。そして我々は籠城戦を迫られ、すでに食料もなく、時がこれば我らは滅ぶだろう。」
「なぜそうなったんだ。ボス一人が世界の全ての憎悪の対象になったのではないのか。」
「はじめはそうだった。君がボスを置いて行ってくれたから犯人は明確だった。しかし既得権益層の存在が我々すべてに同じ行動をする恐れがある。だからそうならないうちにすべて葬ろうと仲間を集め種族狩りを始めたのだ。俺は甘かったんだろうか。話し合いにすらならないとは予想すらできなかった。」
というアリに対して篠崎は答える
「既得権益層は自らの地位や権力が維持できさすればいい。つまりは他人がどうなろうと元の状態に戻し、今回と同じことが二度と起こらないように行動するのは当然のことだ。運よく生き残ったやつがどれほどいたのかわからないが、今はそいつらは顔を突き合わせて今後のこの世界の運営について話しているんじゃないか。君らがいなくなることを前提とした世界の話を。」
「俺らは絶えるしかないのか。ボスも死に。あんな仕打ちをうけてさらに種も根絶されるのか。救いはないなぁ。ボスの気持ちが揺らぐようなことを言わなければよかった。」
「何か言ったのか」
「全滅させるのは良くない。威嚇して平等に話ができる状態になればそれで世界はきっと変わると幾度となく進言したんだ。」
そうか。だから敢えて爆薬は上層近くまで打ち上げなかったのか。他者に期待したせいで何も変わらなかった、むしろ状況はもっと悪くなったということか。
「どうするんだ。どうしたいんだ。今でも話し合いを望むのか。」
「我らの同胞は殆どが殺され、飢え死にするまで待つつもりなのだろう。このままでは滅びてしまう。それにボスにあのような仕打ちをしたものに一矢報いたい。戦えるものは皆そう思っている。」
「その争いのせいで話し合いも何もできなくなったとしてもか」
「そうだ。もう我らには後がない。このままでは幼子までも殺されてしまう。それは何としても避けねばならない。」
「そうか、わかった。俺はボスとある約束をした。それを守るために少し一人で上の種と交渉したいが俺一人なら問題ないか」
「おそらくはないだろう、奴らは我々にも飢餓で餓死するのを待つことしかできないのだから。」
篠崎はボスの考えこそが最も現実的だったのだと理解すると同時にそれでも同種の願う姿が叶うのならばその方がこの世界のための思ってしたことが、結局はボスの想定した最悪の状態を引き起こしたことになる。気は進まないがとりあえず、自ら歩いてあの現場に向かう。この重力に耐えられることを敢えて隠すこともないと考えたためだ。歩みを進め現場が少しずつ見えてくる。そして篠崎は絶句する。
歩みを進めることができない。ボスの思いを知った篠崎には到底認められないほどの仕打ちである。
全ての関節を切断され、頭部は割られ、それぞれが長槍の様なもので多くの目線にさらされている。
「憎しみを一身に背負った結果がこれか。これには同胞もあのような対応になるのも仕方がない。」
つまり状況はボスが懸念していた通りになっているようだ。むしろそれよりも悪いかもしれない。上層の既得権益層の生き残りがあの世界のありように疑問を持たない他の生き物を扇動し、蟻という種族そのものを処分するように動いているのだ。しかもそのやり方は干上がるまで待つという悪趣味な対応である。飢餓で死んでいく生物の姿ほど見るに堪えないものはない。しかし上層の奴らはそれを選んだのだ。
「この状況で俺に何ができるのか。」
アリはその言葉を聞いてなぜ、ボスをそのままにしておいたのか尋ねてきた。そこでアリにはあの時の会話を包み隠さず伝えた。君らの考えも知り、憎悪の対象になるべくしてあのような態度をとっていたこと、そして上層の奴らの憎しみを一手に引き受けるためにあえて上層のものがボスが見える場所に身をさらして行動を実行したのか。そのためには遺体を残すことが必要だと篠崎自身が考えたこと。そして同法の願う世界が実現することを心から祈って命を懸けたことを伝えた。
「ボスの行き過ぎた考えは間違いだと思っていたのに、実際は俺らが望んだ世界になるように加減したせいでボスが最も望まない世界になってしまったわけか。俺たちは考えが甘かったのか。」
篠崎に応える言葉は浮かばない。何を言ってもどうしようもないのだ。上層の存在を詳しく知らなかった篠崎にとってどの可能性が高かったのかは知る由もなかった。しかし篠崎の後悔はそこにはなかった。後悔の根源は自身の知的好奇心で自分本位に自らの行動を決めたことだ。この間ずっとボスとの会話を繰り返し思い出す。しかしボスに同法の望む世界を実現することを約束した身として最低限そこの土台は整えようと考えた。
「今の君らと上層の様子をもっと詳しく聞かせてもらえるか。」
「まず俺らの方だが、3割程度しか残っていない。他は全て中層にいる大型に殺された。大型は上層に俺らを下から出すなと言われているようだ。
「というのは?やりたくてやっているわけではないと」
「確認は必要だろうが、中層の大型は食事に上層の死骸や幼虫をもらっているらしい。つまりはその食部分を上層に握られているんだ。だから上層には逆らえない。」
「なるほど。納得のいくやりかただな。」
「上層だが、ここまでの状態を強制しているのは既得権益の生き残りの4匹だそうだ。そいつらはほぼその会議室のような部屋に閉じこもっていて岩石の分厚い部屋の奥でこの騒動が住むまで出てこないつもりだそうだ。だがこの対応に上層の権力者はこの世界に秩序を取り戻すのが先だと主張しているものがいるらしい。しかし、事実確認はできていないがその一部を一族もろとも殺害したという話も耳にしている。」
「その権力者とやらは他にもいるのか。そしてそいつらは信用できるのか。」
「殺された一族は俺らにも親切にしてくれていた当主がいたんだが、今の反発派はそこの遠い親戚になるらしい。とはいえ、ここでは皆がそのような関係だから判断がつかないな。」
つまり殺された一族は見せしめだろう。しかし反発派も既得権益の転覆を狙っているなら既得権益が同じ行動を取らないのはなぜなのか。実際には傍観者として今回の主犯が現れるまで動くつもりはないのかもしれないな。頭の回る存在を全て刈り取っては統率を取るのが難しい。それで残されている可能性もあるのか。
「お前らはどうしたいと思っているんだ」
アリは少し考えた後で話し始めた。
「ボスがそんな思いで行動したのなら、俺らはその世界を現実にしたい。いやしないといけないと思う。そのための手段を俺らは持っていない。またあんたに頼むことになってしまう。」
「それは構わない。約束は守る方だから、ボスが命と引き換えに託した願いは叶えよう。しかしその方法は一任してほしい。数日かそこらで状況が変わるだろう。そしたら話をするといい。これらはここに置いておく。これが君らの切り札だからずっと守り続けるんだ。ただし絶対に使うな。あくまで脅しの道具だ。」
「わかった。終わった後に会えるのか。」
「いや、もう会うことはないだろう。むしろ会わない方が良い。」
「そうか。面倒をかけて申し訳ない。きっとうまく世界をまとめるよ。」
と答える。篠崎は玩具の手りゅう弾や手投げ型のものを置いていった。玩具を渡したのは今後もし使用するようなことが無いことを願ったからだ。この世界には本物はいらない、ブラフさえはれればいいのだ。そしてボスが言っていたように極端な考えを推し進めている存在は排除するしかない。篠崎はここに決めた。それは当然アリにもそれは伝達され、それを知った上でアリは
「全てを異界から来たあなたにお願いすることは都合の良いことだとは理解している。しかし、我々も多くの同胞が死に戦力も戦意もないに等しい。この世界における神のような存在を演じてもらえるのが最もいいのかもしれないと考えている。」
「私がこの世界を統治する姿を見せると」
「そうだ。あんたが多くの前で平和な生活を望むと話してくれれば、互いに話す機会も増えると思うんだ。」
正直、甘いと思った。ボスの思いを直接聞いたからというのもあるだろう。他者に期待しすぎなのだ。他者は自分以外を利用することしか考えていない。ごくまれに真の善意のみで行動する人に出会うことはあるがそれは本当に奇跡的なものであると経験上知っている。腐っているものは優しさを見せるよりも排除するのが正しい。
「真の脅威は敵ではなく、足を引っ張る身内だったか。」
かといってそれを切り捨てる必要もないだろう。
「これは俺の単独で行う、だから誰ともいっしょにいることはできない。それはわかってくれるよね。」
「あぁ、今をもって俺は同胞のもとへ戻る。面倒ばかりかけてすまない。」
とアリは言うとふらふらとした足取りで消えていった。
ボスの切り刻まれた体を隅々まで観察する。篠崎ができなかったことをできる環境にした何者かに感謝することはないが、亡骸がさらされているなら、知識として理解を深めておきたい。そしてもう一つの目的に近づくために長時間、それぞれの部分を観察した。
「脳が複数個あるのか、それで個体としての動きをどのように制御していたのだろうか。いや違うのか切断面がぐちゃぐちゃになっているせいでそう見えるだけなのか。すまない。解剖させてもらうよ。」
というと篠崎はボスの頭部だった部分を集め、それぞれの外骨格を外して中身を観察する。あまりにも損傷が激しい。しかしこれをやったやつらは切り刻んだだけだ。解剖するものがいるなど考えていない。「大脳に対して下垂体部分が割合的に大きいな。」
下垂体は制御ホルモンを調整する部分だ。もしかして脳に響くあの意志はそういうことなのか。こっちの言葉も向こうの脳内で変換されて理解されるということか。面白い。
「ありがとう。次は俺が君らに返す番だな。」
それからもボスの断片を見て回る。そうしていると突然背後から声が聞こえた。
「お前、さっきから何をしている。」
振り返るとそこにはムカデのような生き物がいた。
「迷い込んでしまって、気づいてやっと出てきたんですが、そしたらこんなのが見えたので何かなと思いまして、色々見ていました。」
「そうなのか、確かにこの世界では見たことのない生き物だな。」
「他に私と似た生物を見たことはないんですか。」
「ねぇな。」
「あなたはこのあたりに住んでいるんですか。」
「いやいや、本当は中層なんだが、少し前に原因不明の爆発があってな。それで上はパニックで下の連中を皆殺しにするという極論に支配されている。そこまでする必要があるのかねぇ」
なるほど、アリのいうこともあながち間違ってはいないのかもしれないな。
「下層に住む生き物を殺す必要はないと思うってことですか。」
「そりゃそうだ、最下層で最も仕事をこなせる存在を消すのはここのシステムに破綻をきたすだろう。」
「それは君らのボスも同じ考えなのか。」
「どうだろうな。正直俺らは動くことはあまり好きではない。だから今の上には皆不満があるだろうな。働いたところで、提供される飯の量は同じなんだからな。」
「ボスに会えるか」
篠崎の目には曇りはない。目的のためなら手段を考えないというのが伝わっていく。
「お。おぉ。ついてきな」
というと動き出したそれについて上へと上がっていく。数分だろうか上に上がったところにひときわ大きな扉がある。
「ボス、面会に来ているものがいます。」
「通せ」
とボスであろう声が聞こえる。もはや悟りでも開いているかのような風のような声だ。
扉が開かれ、奥に体を幾重にも重ねているムカデがいた。
「珍客が来たな。他のものは下がっていいぞ。こやつにわしを殺す気はないようだ。」
違和感を感じる対応だ。こちらの目的を知っているかのような態度だ。
「初めまして、私は篠崎と言います。ここには迷い込んできてしまったのです。最上階まで登れば帰れるかと思いまして、登っています。」
「記憶がないのか、とぼけているのかどっちなのかな。」
「何をおっしゃっているのかわかりませんが。」
「君を下層のアリに渡したのは私だ。だからここ最近の騒ぎは君が協力したんだろう。だからと言って別に君を縛ってまた下層に戻すつもりはない。心配するな。」
と目の前の巨体は全てを察しているかのように言葉を伝えてくる。篠崎ももう気を張る必要もないかと考え、本音で話すことにした。
「いろいろとご存知のようですね。協力させられたのは事実です。アリのボスはこの世界の変革を強く望んでいて、上層の生き物を殺そうとしていました。私はそのために利用されました。」
とアリに話した内容とは少し異なる話をした。すると
「そういうことで理解しておこう。で君はこれからどうするんだ。」
「あなた方は下層の生き物のことをどう見ていますか。」
覚悟を確認するための質問であることがボスにも伝わった。
「なるほど、そういうことか。私たちは下層の生き物特に蟻たちとは共存共栄の関係にあると思う。だから上層の指示はかなりきついものだが、ここである程度止めているからまだ残っているだろう。しかし今以上に減らすともう統率を取れる種も繁殖する種も生まれなくなってしまう。だから今は上にはもういないし、いるとしてもわれわれが進めるところにはいないと伝えてある。しかし、それを納得させるためとはいえ彼らのボスをあのような無残な姿で晒すことしかできなかったことは申し訳なく思うが、我らも生き残るために必死なのだ。」
「その言葉を信じる証拠はありますか」
「未だにアリが生き残っていて、巣を埋めていないことくらいでしか信じるに足るものはないだろう。しかし繰り返すが上層のご機嫌取りに殺しまくったことにはやりきれないことだった。おそらく我らはあれを気持ちよくやったものはいないはずだ。現に今停止命令を出しているがそれを皆が守っている。それが証拠だ。」
「協力してもらえるのか。」
「残念ながら答えはノーだ。我らができることは君がやろうとすることを知りながら何もせずに上層に行かせることだけだ。」
「そうか。それだけでも感謝すべきだろう。上層で扇動しているのは何人いるんだ。」
「アリから聞いていないのか。」
「いや、一応は聞いているが、所詮は憶測。でも君らは指示を受ける立場にいるのならより確実な対象数を知ることができる。さらにそこに連なる数も含めて教えてもらえないか。」
「怪しいものを含めてか。それだと最上階にいるものすべてだろうな。」
「あなたに指示を出している奴らはどこにいますか。」
「最上階にある会議室で縮こまっているらしい。そこで意思決定に関与しているのは4人と聞いている。」
「ここであったことを上に伝えるつもりはあるのか。」
「ないな。われらの生活には上よりも下に住む生物の存在が必要だ。それに君は上の全てを消そうとは思っていないのだろ。」
「そりゃそうです。それが蟻のボスと交わした約束ですから。」
「ならば、われらは傍観するのみだ。」
と告げるとさっきのムカデに上層へ案内するように伝え、別れを告げた。少し引っかかるところはあったが今は信用するしかないだろう。篠崎は割り切ることにして上層の対象を消すことを第一に考えることにした。アリのボスの真意を唯一知っている篠崎はボスを見世物にするように指示した、ボス自身も危惧していた存在を無き者にすることは絶対必須と感じていたのだ。おそらくその点においてはこの世界の誰よりもその存在を憎んでいるのは篠崎以外にはいないのだった。
上層に続く道すがらその通りに全く死骸が転がっていないことに気が付いた。あり得ないことだ。なぜなら、ボスが上層に投げるのをためらったために通りの損傷が下層よりもひどい状態だったからだ。つまりすべての影響を最も受けたのはこの層のはずなのだ。にもかかわらず、死骸がない。
「この階層では被害は出なかったのですか」
と不思議に思ったことをそのまま口にする篠崎の問いに対して先導するムカデは
「事前にボスから知らされていたし、最初の騒ぎの時もこの層のものは誰も何も感じなかったんだ。だから今回のことも爆風の方が凄かったくらいの印象だ。といってもこの住居の損傷は酷いんだが俺らは体の造りがこんな薄っぺらだから飛んでくる小石も風もほとんど影響を受けなかったんだ。」
「君らのボスはなぜ知っていたのかわかりますか。」
「アリの主から聞いていたのではないか。我らとアリたちはどっちが消えても困るから、情報の共有は密だと聞いているし、上層にそれなりの理不尽さに不満を持っていたのも変わらないからな。」
あのボスが中層なら最も生物に被害が少ないことも見越し、さらに事前に情報を伝えていたとは本当にこの世界のことを考えていたのだろう。下から見続けたこの階層で仕切られた世界をもっと開けた世界に、まさにこの土地の形状通りに自然と広がりつながる世界を願っていたのだとあらためて気づかされる。
「もっともこの世界の先を考えて苦しんできたのは彼女だったのだろうな。」
篠崎は周りの廃墟化した道を歩きながら、昆虫扱いしたことを後悔する。そしてその後悔に応えるために上層の整理を行うことに強い責務を感じるのだった。
明らかに空気が変わり、体が異様なほどに軽くなる。それがここからが上層であることを感じさせる。
「ここからが上層だ。すまないが俺はここまでしか行けない。見ての通り、ここでは体が固定できず、気が狂いそうになるんだ。だからここから先は踏み込めない。」
と予想通り案内役からも声がかけられた。篠崎は案内役に礼を言い、ムカデのボスに言われた部屋を目指していく。
「この感覚は意外と面白いな。月面というのはこんな感覚なのかな。」
力強く踏み込み、思い切り真後ろに蹴りだすと驚くような距離を移動していく。しかし、その後着地の仕方がかなり難しい。いつも通りに足を着こうとすると跳ね上がる。そして天井に体当たりするような状態が続く。その中でどんどん視線にさらされている感覚が強まっていく。
「これ以上は武装していくか。痛いがしかたない。」
と天井にはねた体をされるがまま床と天井を行き来し勢いがなくなってゆっくりと床に落ち着く。続いてあぐらをかいてカバンからナイフ、刀、手投げ弾の類を選び出し、上着で見えないようにし、最後にズボンのベルトの部分に2丁のグロッグ19を配する。おそらくは過剰準備だろうが、篠崎には使命感に駆り立てられていたこともあり、この装備でも足りないと思うほどであった。準備が終わって体が浮かないようにゆっくりと立ち上がる。そして浮かないように歩き始める。ゆっくりと最奥部に向かう篠崎に視線の一つが対面から空を飛んで声をかけてくる。
「そこのお前、なぜまだ生きている。貴様には殺害命令が出ていたはずだが。」
明らかに見たことのない生物。異様な存在に映るその生物はトンボのような翅をもっているが、その4枚の羽の中心にいる存在は腹から飛び出したエイリアンの頭部、そして退化したであろう4本の足に対して異様なほど発達し人のような拳、よく見ると指の本数は3本であるようだが、その手に握られた石器は下層、中層の者とは明らかに違う知能の高さがうかがえる。
「そうなんですか。何かの騒ぎと振動で牢に亀裂が入って出ることができたんですが、あなたは何ですか」
多少失礼な聞き方になったが、余り近づきたくない気持ちと相手の出方によってはここからいきなりアクション映画張りの状態になることも視野に入れているため、少し警戒した対応になってしまった。しかし返事はとても穏やかなものだった。
「私はここの近衛師団長だ。上の命令で下層の者に命令を伝えたので、お前のことは覚えている。しかしこれまでに君のような存在がここに来たことはない。私個人としては君から様々な情報を聞くべきだと思っていた。だから生きていたのはありがたいと本心では思っている。だが、ここの連中は君に恐怖心を抱いている。だからすまないが、連行される振りをしてくれないか。そうでなければ周りに示しがつかんのだ。」
篠崎は言われるまま手を拘束され、そのモノの後ろについていく。
「部屋に入るまでは何も思うな。声にもするな。」
とだけ言われていたが、篠崎は考える癖がついている。それをなくすためにどうするのが良いのか。思案を巡らせた結果、回廊から見える階下の姿を見て、本心を見せないようにだけ対応する。
「しかし上層の方は本当に損傷が少ないな。影響はほとんどなかったのではないか。にも拘らず蟻のボスに対する対応は過剰ではないか。」
「建物自体にはほとんど損傷はない。だが、最初の頭が狂い、体を中から爆発させるような音のせいで多くが重態で対応が間に合わないんだ。あの存在に「この状況を起こした大罪人」という認識を状況確認もせずに命令を出したのが奥に引きこもっている老いぼれどもだ。我らは訳も分からず、中層の管理者にこのことを伝えた。そしてもうすでに腹を切られた彼の死体があったので、上が満足するようにそのような対応をした。命令は達成したと報告を受け上に報告したのだ。」
「君はどんな存在なんだ。」
その返答は返ってこない。答えは歩行速度が上がるという形でなされた。どうにも重々しい岩盤で作られた扉の前で、門番が両脇に立っているのに気づいた。門番は団長とは全く異なる容姿をしている。決して異様な雰囲気を受けない。下肢だけが発達したモンシロチョウのような容姿だ。正直この門番と団長が全く別の生き物にしか見えない篠崎には上層は下層や中層のような一種繁栄の世界ではなく、もっと複雑なのかと感じる。
「下層から登ってきたものを捕らえた。最奥の牢に繋いでおく。このことは他言無用だ。他の者は皆避難は済んだか。」
と団長が聞くと門番の一人が
「団長のおっしゃったとおり、われらの親族、信頼できるもののみを探し、ほぼ集まっております。ただ、会議室付近の兵などにはなかなか伝えることができず、遅れが出ております。」
「そろそろ兵の交代時間だと言っても不審がられないだろう。向こうの連中に行かせ、休憩で離れたところで話を伝えろ。決して気取られるな。」
「承知しております。では。」
そういうと門番はいそいそとその場を去っていく。そしてもう一人は重そうな扉を必死に押してゆっくりと扉をずらしていく。開けるというにはあまりにも遅い。この行動が篠崎には不可思議に見える。慣れていないようにしか見えない。臨時の配置になっているのか。今の会話も気になる。災害を受けた地域の人間の動きと比較するとあまりにも冷静に見え、人員不足であるものの略奪行為などは行われていないようだ。そんな思考が頭を埋めていると団長が扉に手をあて、歩みとともに扉は開いていく。
「個体によって力がそんなに違うのか。」
と唖然とした篠崎に団長は
「私はユニークなんだよ。」
と平然と言う。見た目は確かにユニークだ。いうなればキメラという言葉が似つかわしい。決して進化の果てとは思えない自身の容姿のことをユニークと言ったのか、自分だけが力が強いという意味で差別化されるという意味なのかわからない。なぜなら篠崎が上層の生物として目にしたのはこの団長と門番だけだからだ。しかし考え方には上層の生物は各個体で多角的に考える能力がある可能性が高いと考えていた。
「早く、内側に。直ぐに扉を閉めます。」
と篠崎に中に入るように催促する。団長に言われるまま篠崎は内なる闇に足を踏み入れる。




