意思持つ虫たちの社会 前編
いつもと変わらない草原、いつもと変わらない天気、いつもと変わらないテーブル、椅子にパラソル。しかしその椅子の上には生きているのか死んでいるのかもわからない幼女の姿がそこにはあった。よく見ると服にはおそらくお茶のものと思われるシミができている。久しぶりに外へ出てきたユナはそのピクリとも動かないカノを発見して、走り出す。
「カノ!どうしたの!カノ!!」
と体を揺する。しかしカノの意識は戻ってこない。どうしたんだろう。服のシミの色を確認すると緑色ではない、つまりあの時のやり取りからは時間が経過した後にそうなったのだろう。とりあえずカノを背負ってベッドに寝かせないといけない。と背負おうとする。
「お、重い。カノ、あなたなんでこんなに重いの」
という声もカノには届いていないようだ。こんな重いのは運べない。どうしよう。ここでマットを広げて寝かすしかないと部屋から分厚いマットを取りに急ぐユナはすでにもう冷や汗と運動による汗が交じり合い、信じられない量の汗をかいている。部屋に備え付けていたベッドの上布団を力任せに放り出して下布団も同様にはぎ取るとシーツがかかったままのマットを引きずり出してカノのいる横に広げた。そして
「カノ、ちょっとごめんね」
といいながら、カノがマットの上にズレ落ちるように椅子を傾けていく。いくらか楽ではあるが、やはりあり得ないほど重い。やっとのことでマットに横にしたカノの顔色を見る。顔色は悪いが心拍はしっかりしている。熱もないようだ。しかし意識が戻らない。
「何があったのよ。カノ、私を独りにしないっていってくれたじゃない!」
と汗で肌に張り付いた髪の間を縫うようにして涙が流れていく。
「何だ、あれは」
カノの意識はその生物に注ぎ込まれていた。そうなのだ。篠崎の見たものをカノは知らない。その長く生きてきた中での初めてのイレギュラーの存在。カノはそもそも生物のいる世界に篠崎を送り込んだのではなかった。視覚を突然奪われ、方向感覚がマヒすることから生じる恐怖、不安を感じる世界。それが彼女が送ったつもりの世界。しかし今篠崎の目の前には篠崎が虫のようなと表現する何かがいる。そしてなぜか意思伝達をしている。一定の知能を有した認識されていなかった生物の存在。カノのいる世界の主はこの世界の生物の存在を許容したのか?それとも同じく観測できていなかったのかどっちなんだ。何よりカノが過剰反応をしているのは、無理やりにあの世界から篠崎を戻すためのカバンを篠崎が所有していないことだ。今のカノは篠崎を救えない。本当に見ているしかできない。
「契約して最初の世界でこんなことがあっては洒落にもならんぞ。強引にカバンからゲートを開いて干渉するか。いやそんなことをしてはユナも無事では済まないかもしれない。そうなれば、彼にも会わせる顔がない。そもそも私自身がどう処理されるかもわからない。」
完全なお手上げ状態に自分が死ぬわけでもないのに走馬灯を見るかのようにこれまでの記憶が一気にあふれ出し、カノは自己意識の処理で外側の刺激に反応できない。その余裕がないのだ。カノの記憶は膨大過ぎてカノの高い処理能力をもってしてもショートしてしまうほどの情報量が止まることなく規則性もなく流れていく。その時、温かく包み込む感覚がその勢いを緩めていく。答えが出ないことには変わりはないが、心に浸透していく、もたれ掛かれるという安心感がカノの意識を外側にも向ける余裕を与える。人形が動き始めるようにカノは閉じられた瞼をゆっくりと開いていく。徐々に焦点が合っていく。
そこには汗と涙でまるで水を被ったような姿で自分を抱きしめ呼びかけるユナの姿があり、そのぬくもりの先がユナであることにも気づく。カノはまずユナに感謝した。そして手を動かし、ユナの背中をさすった。ユナもそれに気づき、顔を見せる。その顔は見れるものではないほど、涙と汗でぐちゃぐちゃになったユナの顔を見て、すまないことをしたな。私は死なないのにこんなにも泣いてくれるのか。カノにはその顔が本当にいとおしく思えた。
「ユナ、汚い。悪いがどいてくれないか。」
というカノに心の中も見抜いているかのようにカノの照れ隠しでついた悪態は素通りした。
「いや、もう離さない。どこにも行かせないから」
と力を強めるユナに
「ありがとう。」
とささやく。
ユナは何も言わず、カノから離れようとしない。その安心感はカノにも同様に余裕を与えていた。篠崎をどう助けるかが問題ではない。今は向こうが何をどうしようと篠崎を拘束したのかわからない。そしてこの世界もこの生物の存在を観測した今、処分するのか、静観するのかを決めかねているのだろう。つまり、その間であれば、篠崎はどうにかできる可能性がある。この世界が介入する場合には異物である篠崎は安全だ。しかし許容してしまった場合、危険度が測れない分篠崎の安否はまさにカノが最初に期待した不安要素と同様に闇の中にある。今は見守るしかない。
「ユナ、もう大丈夫だから。おかげでゆっくりと考えることができたよ。さぁ風呂にでも入ってくると良い。マットは戻しておくから」
とカノは優しくユナに告げて、カノが体を起こす。ユナはわかったと恥ずかしそうに顔を袖で拭きながら
「じゃあちょっと流してくるね。カノも服にシミがついているから着替えた方が良いよ」
といいながら、部屋に向かっていく。その後ろ姿は最後に見たそれとは全く違う。本当に人間とは優しい性質も持っているんだな。
「ありがとう、ユナ、篠崎君。君らの幸せになれる世界を私は探そう。きっと篠崎君もその方が幸せだろう。」
と独り言を言いながら、ふっと右手を衣服の上で滑らせる。すると来ていた服も変わり、浴衣のような服をまとった。
見た目からも大きくなった蟻、その篠崎を視界にとらえるそれは
「すまねぇな。慣れてないんだよ。音を出す仲間はいるんだが、あのバカでかい音を出したのもお前だろ?あれで聴覚の敏感な仲間は殆どが死ぬだろう事態になった。まぁ俺たちこの力により引かれる領域で働く側からしたら上でふわふわといい生活をしているんだ。突然大半が死んで正直いい気分だ。でもここではやめてくれよ。ここはこもっているからおそらく同じ大きさで音を出されたら多分、死ぬ。それも奴らとは違うもっとむごい姿でな」
というその虫に向かって篠崎は言葉で答える。
「これくらいの音量なら大丈夫か」
「オンリョウ?」
「声の大きさはこれくらいで聞こえるか」
「あぁ、ちゃんと聞こえるぞ」
「この場所について教えてほしい。それと俺がここに入れられている理由も」
というとその蟻は悩むことも疑うこともなく
「ここは引き付ける石のある最も近い層だ。最も引き付けられる力が強いからふわふわした奴らはここに来たら動けないんだ。だから拘束場所は動きが抑制されるところに作られている。そこから渦巻き状に上に層が重なった造りになっているんだ。上にいる奴らは上にしか入れないくせに上にいること上位種と勘違いしやがって、俺たちを見下してやがるんだ。だから、あんたがあれをやったんなら、開放してもう一度上層種をぶち殺してほしいんだがな」
「いろいろな種類がいるのか」
「あぁ、下層から上層に向かってふわふわっとした感じが強くなる傾向があるが、とりあえずその中には食用の奴らのいる食堂もあれば、草ばかりの土地の食堂もある。ただ上の方で誰も手を出せないことをいいことにこの世界の神のようなふるまいをしているいけすかねぇ種がいるんだよ。そいつらの言うことは絶対という構造ができている。だが、その構造を誰も認めたくねぇんだ。ただあいつらをとらえて数を減らすことができる種がいなかった。そこにお前だ。上はお前のことを処分するつもりでここに拘束し、殺して餌場に回すように指示も来ている。だがお前はまだ生かされている。なぜだかわかるか」
とぺらぺらと何の思慮も隠さず話すそれに危険感受性が意外に低いのかと思ったが、それを察せられないように、言葉を重ねながら話をする篠崎は自分の状況はよく理解できた。
「お前らに協力して上の方の奴らを殺してほしい、今のお前たちの居場所を上に移動させたいということか」
「そうだ、お前賢いな。俺はボスに言われるまでそのままお前をこの顎で砕くことしか考えていなかった。さすがはボスだな。」
「ボスがいるのか」
「あぁ、俺たちの親だ。俺たちは皆同じ親から生まれた子なんだ。」
「そうなのか、協力するのはいいが詳しい話はボスと話してそれをした後の俺の扱いについても聞いておきたいんだが、話すことはできるのか。」
「できるんじゃねぇか、珍しいから食ってみたい気持ちもあるだろうが、生かすことで新世界を見せようとするボスだからあって話くらいは聞いてくれるだろう。」
「じゃあ悪いがちょっと聞いてきてもらえるか。」
とやはりこいつらの知能は昆虫に毛の生えたレベルだ。外骨格の硬いこいつらをやりあうのは振りかもしれないが、幼稚園児ほどの大きさだ、顎で挟まれてもちぎれることはないだろう。そして俺の荷物に対しても好奇心はあっても、何かを理解することはできないだろうと考え
「あとさ、持っていた荷物がないんだが、その中には君らの求める音を出すためにいつようなものも入っているんだ。だから、返してもらえないか。壊れていたら協力することもできないかもしれない。」
というとやはり疑いもせず
「そうなのか、それは早く確認しないとな」
というと荷物を取りに行って中身もそのまま渡された。
「ありがとう。確かめておくよ。じゃあボスに聞いてきてもらえるか」
「おう、ちょっと待っててくれ」
といい、その蟻はその場を去っていった。
篠崎は姿が見えなくなるのを見送り、荷物の内容を確認する。中身を確認された様子もない。なくなっているものもない。しかも不審がられないよう行動も思考もせずにいたがどうやら装備品に関しても一切触れられた形跡はない。
「思った通り、ここの連中はこの存在を何も理解しようとしていない。そういえばこのすぐ下にこの引力を発生させているものがあると言っていたな。」
それがどういうものか興味が沸き、腰のナイフで土の足場を掘り返していく。キーンという透明感のある音がナイフを突き刺した瞬間に放たれる。同時にカノに教えられていた価値あるものの気配があふれ出す。
「これを取り出すか、切り出せば、最悪カノに掬い上げてもらえる。」
篠崎はその何かの輪郭を探ろうとするがその素材はどこまでも広がっているかのように端にたどり着くことができない。仕方なく叩き割ることを考え、ナイフを力の限り叩きつける。全く刃が入らない。しかしナイフの刃もかけていない。そこでナイフを突き立てた状態で手ごろな石を手に持つとその石をナイフの柄に叩きつける。すると、一点に集中した力がその何かにナイフを侵入させる。するとその割れた部分から剥離していくようにナイフを使って回収し、30mlのガラス瓶に詰めていく。最終的に5本がいっぱいになる程度の量を確保し、それを隠すために砂をかき集めて無造作に埋めていく。こちらに近づいてくる足音に気が付いたからだ。
「ボス、あそこです。」
とさっきの蟻のものかと思われる声が脳に響く。その音の後には返答の音は聞こえず、何かが近づいてくる音だけが聞こえる。そしてその音は篠崎の前で止まり、声が聞こえてくる。
「初めまして、私はこの層の管理者をやっているものだ。労働者を増やすために他のものより見苦しい姿で申し訳ないが、我慢してくれると助かる。」
という。篠崎はその姿を見て絶句する。知っている女王蟻の形状とは似ても似つかない。蟻としての顎や触覚はそのままであるモノの、それ以外は産卵のために特化したような形状、いつか篠崎がSF映画で見たような異質な存在を彷彿とさせる印象を与える。しかし不思議なことにその異形の存在を前にしても篠崎には恐怖という感情は沸いては来なかった。篠崎をしつつある感情は恐怖とはかけ離れたものであったからだ。
「こちらこそ、初めまして、私は篠崎といいます。まずは指揮系統に反し生かし残していただけたことに感謝申し上げる。」
と互いの挨拶が交わされ、論点を共有することに移行する。
「さっきの蟻にここでの確立された階層社会を壊してほしいと伺いましたが、あなたはどのようにお考えなのでしょうか。」
「この階層社会の破壊、これについてはその認識で構わないだろう。しかし私はここより低い重力下では、体を固定することすらままならなくなるだろう。聞いていないようだから伝えておくがこの構造物は下に行くほど荷重がかかり、私たちのような存在のみが十分な力を発揮させることができる層でもある。それゆえにここにおいてわれらはこの構造物内で生きる頂点に君臨できるのだ。しかし労働因子はそれを理解できない。我らが上層に攻め込むことでは我らの立ち位置を反転させることはできないだろう。しかし今回君が行った行為のおかげでこの組織構造を逆転させることができる可能性を見出したのだよ。ここに住んでいる生き物のほとんどが知っている上層部の生き物ほど大量に死んだことをな。」
なるほど、こいつは多少悪知恵が働くようだと篠崎は感じる。つまり、こいつは下層に住む者ほど安全な場所に住んでいる有能種であると他種に認めさせることなのだろう。そこで俺を懐柔するのか従属させるのか隷属させるべきかを見に来たというところか。
「俺に何を期待しているんだ。上層に連れて行って同じことをさせるのか。」
と篠崎はそれに聞く。するとボスは
「君はなかなかに賢いのだな。まぁいかなる形であろうと協力的なのはいいことだ。こちらも楽でいい。正直君がどうあの大量殺戮を達成したのかを知らない。それが我らの近くに置いた状態でも可能なら、その方が安心だ。しかし今初めて君らみたいな音を発してコミュニケーションを取る種と接したが、今回確信した。我らは君らの思念が聞こえる。君は我らの前では隠し事はできない。それが我らの君たちの上に立てる武器になるな。」
スッと動いたそれの顎は石の扉を砕いた。個体の力を誇示するようにいともあっさりと何の負担もなく砕く姿を見せた。武力と情報収集力としての有意を示すようなこの行為は篠崎が最も嫌う人種と同じ行為だった。
「いい反応だ。君は賢い。では連れていこう。どこならできるんだ。」
ボスはそう言うとあのアリが寄ってきた。この行動に違和感を感じつつ篠崎はボスに答える。
「音が必要なんだろ、ならひらけたところがあればいい。ここの構造を教えてくれればより効率よく君らの期待に応えられるだろう。」
「なるほど、構造か、ここは層状に成っていることは伝えたな。しかし中心は空洞でここから少し出れば、あのくらい霧に覆われた空間が見えてくる。そしてここは上層に向かって広がるように形作られている。ここのそこに存在する引き付ける力は最上層ではほとんど届かない。」
「なるほど、上に行くほどどういう種がいるんだ」
と篠崎がボスに聞いている間にもあのアリは篠崎の腕を持ち上げ担ごうとしてくる。
「何をしているんだ、あんた。」
「ボスが君を運べと仰られるので、この加重下ではあんたも動けないだろう。だから俺が君を運ぶんだ。」
と返ってきたので
「ちょっと待ってくれ、まだ、状況が分からない。今の話だけだと君らの望むことは達成できないかもしれない。だからもう少し情報をもらわないと。」
と篠崎は安堵し、横のアリに伝える。するとそのアリはボスに顔を向けて伺うようにする。しかしこの会話は篠崎にも聞こえていた。内容は『どうしますか?』、『我らもあの武器の仕組みを知るべきだ』というものだ。一通りのやり取りが終わり、アリは離れて隅に待機する。そしてボスは腹ばいに倒れこむようにして
「なにが必要なのだ。」
「どのような生物が上層に向かって生息しているのか、どのあたりまでの死亡個体数が多いのか、
層でいうならどこに辺りに相当して、その分け目の部分にはいったい何が生息していたのか、教えて盛られるか。」
「そうだな、君は気づいているんだろうが、下は我々のような外骨格で覆われたものが多い。それが上に向かってどんどん外骨格の薄いモノ、特に環境の変化を素早く感じる触覚を持つ蛾や蝶のような感覚器の優れたものがいる。そのため、今回のような外界からの異変をいち早く察知できる奴らは見張りからこの社会の優位に立つことは自然に思われた。少なくとも最初にここに腰を下ろした祖先らは適材適所でそれぞれの住みよいところを話し合いで決めて今の形になっていったと聞く。しかしその中では種の差別などはなかったのだよ。しかしここ上層の奴らが下の層に生きる種を下に見るようになっていったのだよ。すると自然に互いに不信感と不満と優越感を得て現在では一色触発の状態にまで不満は高まっているんだ。すこし昔話が過ぎたな。先も言った通り、基本的には下は外骨格に覆われた生物種が多く上に連れてその傾向は薄れ、外骨格もなく、臓器も柔らかい皮で覆われた種に変わっていく。これで十分かな?」
とボスは伝えてくる。
「その時の死骸を見ることはできますか。」
という篠崎に対して、違和感を感じたように動くボスの触覚をみて篠崎は続ける。
「詳しい死因が分からないと、君らの望んでいることをしても成果は得られないと言っているだろう。手伝いが欲しいなら、君らもそのために私に協力してもいいのではないか。」
というと、相手は所詮大きなアリにすぎないことに気づかされる。
「死骸の確認に時間を割くわけにもいかない。君を生かしていることを知られるまでに実行に移す必要があるのだ。しかし一日目で情報を与えられすぎて処理できないのかもしれないな。一日だけ待ってやろう。手に入れることができる死骸が残っていれば届けさせよう。食事と飲み物を与えてやれ。それではまた明日な。」
と告げるとズルズルと音を立ててその音は離れていった。そして部屋にいたあのアリが食べ物を取ってくるといい牢を出ていった。しかし、ボスが壊したおかげで篠崎は容易に外に出ることができたが、そんなことは気にもされず、放置されている。これで確信を得た。
「このアリどもは俺がこの重力下で動けないと思い込んでいる。知られないように思考をうまく隠さないとな。しかしあの大きさで地球と同じ昆虫の構造をしているとは思えないな、外骨格とは別に内部にも骨格が存在するんだろうか。」
相手が知略で劣ることを知り、恐怖心はなくなった。代わりに脇建て来たのは好奇心だった。
死骸と食料を届けられ、手持ちのナイフで死骸を解体し、構造も明らかにできた。上層にいるこの死骸は蝶のような形状で篠崎が知る知識の構造そのものであった。予想と異なった理由が重力のかかり方も軽く、上層はおそらく、慣性運動が可能な空間だったことからして、地球の常識が該当しないのだろう。そして下層の生物も地球とは異なる構造なのか否かを確認したくてたまらない篠崎がいた。そしてその解体対象はすでに決まっている。あのボスと呼ばれていた存在だ。なぜなら、他人の力で現在の構造を破壊することで上に立つことを良しとするアリどもの考えに対して、憤りを感じていたためだ。そのような生物は篠崎にとっては実験検体でしかない。なんせ、バカで、しなくていいことをしようとしてそのために自分の血を流すのではなく、他人の力に依存する人物に見え、そんなものの同類になるのも片棒を担がされるのも嫌だった。標本を作って、これまで見てきたものとどう違うのか比較しようと考えた。
「ボスには止められたんだが、比較的新鮮で原形をとどめた死骸を持ってきた。ボスは怒るかもしれないが、あんたは嘘をついてないと思うんだ。俺は可能な限り協力するのが義務だと思っているんだ。ボスには内緒にしてもらえると助かる。」
その驚きの行動を目にして先ほどまでの考えが揺れる。
「あ、ありがとう。」
水と思われるものは何となく甘く感じる。食べるものはキノコや草、おそらくはトカゲなどの爬虫類と思われるものの素揚げが並べられる。篠崎は何かの強壮剤かとも思いながらも口に運び、意外とおいしいと感じ、空腹も相まって完食してしまった。
「ご馳走様。さてと。」
と目線を死骸に移す。
新たな死骸は二体、一体は前回の蝶とは違う種の蝶、もう一つはおそらくクモ類であろう形状のものが転がっている。二匹ともうつ伏せだが体液が流れ出た形跡もない。一匹目と同じく各器官をサンプルとして切り分け、知識の中のものと一匹目のものと比較する。すると羽の構造が多少異なり、今回のものの方が、鳥のものとは言えないものの軟骨に近い素材が通っている。そして蜘蛛のようなものを同様に調べる。外観は地球で見るそれと酷似している。中身もクモ類特有の肺器官をもっていて、大きな差がないことが確認できた。結論はこの蜘蛛のような生き物は音で死んだわけではないということだ。おそらくたまたま同時期に死んだものを勘違いしているのだろうと考えた。
その作業を見ていたあのアリに対して
「珍しいかな。あと教えてほしいんだが、一匹目とこの羽の付いた種は生息域が違うのかわかれば教えてほしい。」
と言うと、
「珍しいというより、不思議な感覚だな。俺らにとっちゃこれは上等な食事だ。それを食べるわけでもなく、切り刻むだけというのはもったいないと感じるな。で生息域か、ちょっと一匹目を見せてもらえねぇか。」
と言うと中に入ってきて触覚の形状を確認している。そして
「一匹目は最上層の種だな、俺が持ってきたこっちはもう少し下の層の種になる。」
「なるほど、そうなんだ。」
と礼を言うと、アリは会釈をしたように見えた。先ほどまで抱いていた考えに彼は別としたいという気持ちがわき始める。篠崎が動物を研究のために殺した数は数え切れない。しかしそれが当たり前のように作業するまでには篠崎はかなりの時間を要したことを思い出した。一切の世話もせず、実験の際以外は視界にさえ入れないようにしてきたのだ。篠崎はもともとは生物を殺すことに大きな抵抗を感じていた。それを抑制するために篠崎は疑似人格と言っても過言ではないほどの人間味のないロボットがただ作業するような切り替えをするようになっていた。だから、研究対象として生き物を見るとき必然的にこの切り替えが行われる状態であったところに、世話を焼く姿を投影したあのアリに対してはこの切り替えができなくなったのだ。
「しかしどうしたものか。おそらく音で死んだ種はショック死に近いのだろうが、外骨格をもつ大型生物はどうなんだろうか。大きい声はやめろと言っていたが、その反応はショック死しない可能性があるとも考えられるが・・・」
とブツブツつぶやいているのに気づいたのか、あのアリがやってくる。
「どうかしたんか。そろそろ寝ないと明日がつらくなるんじゃねぇか。それともまだ何か必要なものがあるのか。できることは手を貸すぜ。」
と友達であるかのような親しみをもった言葉が篠崎の頭に届く。
「じゃあお言葉に甘えて、君らはその大量死が起こった時に被害はなかったのか。」
と聞くと
「実はそんなことはないんだ、上層に出ていた奴らが数匹被害が出ているんだ。俺らの全体から見れば本当に少ないんだが、やっぱ仲間が死んでるからあんたには俺らには被害が出ないようにしてもらいてぇと思ってる。だが、ボスはその犠牲が半数になろうが構やしねぇだろう。あんたを脅してでもやらせるつもりなんだから、俺らみたいな従事者は減っても補充すればいいくらいの認識なんだろうぜ。」
「その死骸はもうないのか。あれば防げるかもしれない。」
「本当か、すぐ持ってくる」
というとすぐに姿が見えなくなる。
篠崎は待つ間に、どうするのが最も良いのか、カノ達の言っていた負の感情というのは俺以外のものでも代替できるなら、全滅させるのではなく、ある程度残して互いに憎悪の感情を持たせた方がより大きな負の感情になるのではないか。そうすれば期待以上にあの世界が求めるものをここで稼げるのではないかと考えた。加えてボスの考え方が篠崎の逆鱗に触れていたために篠崎は如何にあのボスだけを処分するかを考えていた。
「おまたせ、原形を留めてるのはこいつだった。」
と知り合いであるかのようなニュアンスがまた伝わってくる。
「ありがとう。すぐに確かめるから向こうにいてくれるか。」
というとアリは言われた通りにその場を離れていった。
「これの死因が音によるものでも、その詳細が違えば対象は絞れるな」
と早速腹にナイフを突き刺す。すると中身がぐちゃぐちゃで形状を維持している臓器はなかった。それだけで篠崎は対象を絞れることを確信した。一安心である。そして足や胸部、頭部も解体し中身の構造を確認していく。やはりこいつらは地球とは異なる構造をしている。とても細いものではあるが、おそらくは外骨格と同じものが無作為に交差している構造を持っている。
「あの大きさになるとやはり外骨格が重すぎて生存できない結果に勝ち取ったものなのだろう。やはり生物は面白いな。お~い、終わったぞ。」
とアリを呼ぶと、心底心配しているのが耳鳴りのように頭に響いてくる。そこで篠崎は心の中で幼少時に買っていた猫が死んだときの悲しい思い出を強く思い出そうとした。
「そうか、やはり無差別なんだな。」
とアリがいうと、篠崎は納得した上で真実を伝える。
「すまん、それは嘘だ。君らを救うことは可能だ。」
「あんた性格わりいな。でも確認して被害は抑えられることは分かったんだな。ありがとう。」
と地面に近い頭が地面にこすりつけられる。
「あのさぁ、君はボスのことはどう思ってるんだ」
と聞くと
「一応親だからそれなりに敬ってはいる。けどよ、今回はさすがに兄弟の半分以上が死んでもお構いなしというのはおらぁついてけねえな。」
「もしかしたらの話だが、君らはボスが死んだらどうするんだ。」
「別のボスが今いる兄弟の中から産まれる。他に変化はねえんじゃねぇかな。」
「悲しいとかないのか」
「そりゃ多少はあるだろうが、どれも替わりがいるのが俺らの生き抜いてこれた理由だろうな。今は兄弟の大半を犠牲にしてもいいって考えるのはついてけねぇ。もう世代交代してもいいんじゃねぇかとさえ思うんだ。」
「そうか、あのボスがどうなっても特に主としては大きな痛手にはならないんだな。」
「まぁ、そこはそうだな。」
「わかった、ボスは俺がきちんと作業をするかを確認するために明日は近くにいるだろう。そうなるとおそらく最も危険なのはボスなんだ。だから万一があった時にどうなるのか知りたかったんだ。ボスも離れていてくれれば無傷で済ませられるだろうが、あれはそんなことはしないだろう。」
「その話を聞かせたら、ボスは安全なところに引っ込んで、俺ら兄弟を見張りにするだろうな。その辺の考え方は疑う余地はねぇな。」
「君はどっちがいい」
と篠崎は聞く。アリは考えているのか、どうなのか篠崎にその思考は全く聞こえない。そこで
「そこは君に任せる。私は生き残るために結局やることになる。その時、危険な場所に誰を置くかは君がボスに伝えるかどうかだけで決まる。自分で決めてくれ。悪いが疲れたので休ませてもらうよ」
というと返事も待たずに部屋奥に移動して目を閉じた。アリはその後もそこに立ったままでいたが、数分後にはそこを立ち去っていった。




