精神的つながりと崩壊の中で
「名前は何にしようか。」
「そうだなぁ、顔見てから決めてもいいんじゃないかな。」
という篠崎の返答を受けて、話を妻はもう駄目だと決めつけたように立ち去っていく。篠崎からすれば出張中の中、毎週実家に帰っている妻の様子を見に行くことは大きな負担であった。しかし、大変であるのは身重の妻も同じだろうと思い、妻の顔色がどうか、産婦人科で子どもの様子をエコーで見るときも同席した。この子がうちに来た天使なのだと思っていた。そのような存在に顔も何の印象もなくあらかじめ名前をつけておくなど、それでいいんだろうか。と篠崎は思っていた。しかし、妻は暇なのか様々な本を読んで、知識を増やし、名前の付け方について辞典ほど厚さの名づけ方の本も買っていた。
「もうそろそろ生まれるから、考えてよ。」
と言われ、
「何かいい名前はいくつか候補にあるの?」
と聞くと全く決められない。だからお願いというのが本音だったようだ。
出張の非日常業務をこなし、ノリ後ことの悪い電車で数時間かけて通い、その上これかよといら立ちを感じずにはいられなかった。しかし、ぐっと我慢し目をこすりながらもその分厚い本を手を伸ばし、名づけの考え方やそもそも名字の運勢を確認するとそれ自体それほど良くないことが分かった。正確には良くない法方だろう。これは男と女で違うんだろうかと考えつつも我が子は女の子だし、と考え
「まぁ、女の子だし、名字も変わることを考えて名前だけで幸せになれそうな画数から漢字を選抜し、響きの良い名前にしようか」
といくつか覚えやすく響きもいいと感じたものを妻に見せ
「このあたりでどうかな」
というと、この漢字は嫌い、何、どういう意味があるの。となぜかイライラしている。こちらも人間である。それなりに腹も立つし、身重だからわがまま放題、侮辱し放題には我慢の限界に近い状態であった。しかしそれでも篠崎は妻の実際の負担は理解できない。想像以上ならば仕方ない。毎日定期的に来る激痛に耐えるのは大きな負担だろうと何とか抑え込んで
「じゃあ、こういうのは?大きく実り周りを幸せに導くという意味を込めて穂香というのはいいと思うんだけど。」
「じゃあそれでいいんじゃない。理由がちゃんとしているんならそれでいいんじゃない。」
もう少し言い方があるだろうと思うのは望みすぎなのだろうか。しかしまたひっくり返される前にこの名前にしようと決めてしますのが吉と考え
「じゃあ元気に産まれてすくすく健康に育ってくれる子を産まないといけないね。」
というと返事はなく、眠ってしまったようだ。しかしどの家族も子どもができるときはこんなにも女性に理不尽で暴力的な対応を許容しなければならないのか。はぁ。と息を吐くと篠崎も眠りについた。
目が覚めるとそこは変わらず上も下もわからない黒い霧状のものに包まれた、あの世界だった。正確には眠っていたのか、意識が離れていたのかわからない。瞼を開けても閉めても真っ暗なのだから。自分の存在を確認する方法は一つだけ自分の手で自分の身体を触ることである。存在すれば、脳の方には触れた触感を感じるはず、そうでなければそこにはもうないということ。仮説はまたも間違っていることになる。まず手があるか、今まで無意識に両手で顔に触れようとしてみた。何かに当たる。顔の感触は二つの手で触れられているのが分かる。次に手で顔に目、鼻、口、耳があるか、髪がいつの漢字と同じかを確認する。どうやら全部ついていそうだ。続いて顔に触れていた手を組ませてサイズを確認し、そして首、胸、腹、尻、足の全てを触れて自分を確認する。
「さっきのは子どもが産まれる前の妻とのやり取りか。後になったら笑えるようになるって聞いていたが、全くそんなものはないな。今でも許されるなら当時の我慢を一発の拳に込めて伝えてやりたい気持ちは消えないわ。」
まぁ、でもそのおかげでここでは終われないことは思い出せた。
「しっかし、どうしますかね。」
と自分自身に問いかける。
言葉など返ってくることもない。しかし声は聞こえる。つまりはこの空間は真空ではない。音を伝える何かで満たされている。それがこの黒い霧状のものなのかはわからないが。
「ん?」
音が聞こえるということ、そもそも生きているんだから酸素濃度は調整されているのかとも思ったがすべての五感を奪うことをしようとするなら、あの世界の住人はこの世界に私は生きれるが音が響かない何かで充満させていることもできたはずだ。しかしそれは霧と言う姿で隠そうとしたのか。聴覚以外の感覚がほぼない状態で聴力だけは維持されている。これは何を意味しているのか。
カノは一人でお腹を抱えて笑っている。それを少し距離を置いて眺めるユナ、そのユナの顔にはまた誰かの失敗を見て喜んでいるんだろうな。それくらいしか楽しみがないとは理解しつつもどうしても人の不幸を笑うカノの行為には不快感を覚えるというのがありありと刻まれている。しかしカノも机に突っ伏し頭を押し付けてお腹を押さえて笑う幼女としてみれば、非常に愛嬌のある姿である。篠崎も何がおかしくてわたっているのかを知るまではこの姿に癒しさえ感じるだろう。しかしユナにもわからなかったのはカノの笑いの対象が篠崎であることである。篠崎が四肢を確認するのを目の前のカバンに入っている懐中電灯で照らせば確認できることは知っているはずなのに、それをせず、何か漫画のワンシーンのような行動をまじめにしていている篠崎がおかしくてたまらなかったのだ。
「意外に追い込まれているのかね、篠崎君。でももうその世界で期待していた不安量は十分に満たしたんだが、まだ何かしそうだな。面白くなくなるまで見ていようかな」
フフフっと不適な笑みを浮かべ茶をすするとその姿の一部始終を見ていたユナと視線が重なる。
「なぁ~!」
とカノらしくない驚きの声が響く。ユナはその様子を見て、カノが何を見ていたか経験的に察したのだ。
「カノ、もしかして篠崎さんに嫌な思いをさせているんじゃないでしょうね。」
「いやいや、見守っていただけだ。何も手は出せん。知っているだろう。」
「つまり篠崎さんを見ていたんですね、それでその姿を見て笑っていたのはどうしてかなぁ、今も口角が上がりっぱなしですけど、そんなに楽しいのかしら。」
と言うが目が笑っていない。
「いや、その、あれだ!篠崎君の寝顔があまりにも可愛くてな。つい我慢できずに。」
「そうですか、何かしらの恐ろしい世界にいるはずの篠崎さんがそんな顔して寝るはずないと思いますが、カノはそんなすぐにばれるような嘘をつきませんよね。」
「そんなに圧をかけなくてもいいではないか。かわいい顔が台無しだぞ。わしはユナのいつもの顔が好きなんだ。だからユナには笑っていてほしいな。」
「そうですか。じゃあ篠崎さんが無事に帰ってくるまで私はカノとは一緒にいません。篠崎さんが戻ったら、教えてください。その時は笑ってご挨拶しますね。」
というユナは篠崎が進んで恐怖や不安を感じる世界に身を投じること、その世界に入る前に発した言葉、それから導かれる回答は誰かのための行為ではないかということになる。それはカノのためかユナ自身のためかまでは想像できないが、少なくともどちらかを含んでいることは間違いないと思っていた。それを笑うなんてという思いとこれまで世話になったカノへの恩が重なっているのだ。
「じゃあ、お茶を入れ替えてから引きこもりますね。ちゃんと見守ってあげてくださいね。」
と部屋の方へ戻っていく。お茶は自分で出せるから、別に要らないとは言えない空気だった。
「わかった。ありがとう。」
とユナを見送るとふうと息をつき、カノはもう一度様子を見る。
どうやら篠崎はある程度、その世界のことを納得していることには安堵した。理屈がどうこうではなく、こういう空間だと納得した方が、理由なく不安や恐怖を感じなくなる。一応一安心だろう。
「あとはこれからどう行動するかだが。」
「こう行動しますよ。」
と温かいお茶を入れた茶器と菓子を持ったユナがいた。当然顔は普段の笑顔ではない。
「あ、ありがとう。」
と受け取る。茶器は何と急須と湯飲みであり、菓子も日本の和菓子であった。カノは嫌な予感がした。ユナのこの笑顔、飲めないほどの苦いお茶になっているんじゃないのか。と心配するカノをよそにユナは湯呑に茶を注ぎ、和菓子ののった皿を出す。きれいな彩を見せるがカノにはそれがどうしても毒の入ったもののように見えた。
「さ、これ飲んで、これ食べて、見守ってくださいよ。」
と湯飲みをカノに渡す。温度は適温、非常にいい香りを放つ。そう匂いだけは、と思いながら一口飲んだ。やはり苦いな。しかし予想していたモノよりはマシか。と思っていたその時、後から来る謎の苦味こんな緑茶は初めてだった。
「苦すぎるぞ、この後から来るのはなんだ。ユナ。」
というカノに変わらぬ笑顔で
「そこですかさず和菓子を一口」
と口元に人差し指を持っていき、努力してきれいに見せている女性がすると冷めきってしまいそうな、前かがみにウインクをして見せる。そんなことに気を取られている余裕もないカノは言われるがまま和菓子を口に放り込む。その時のユナの顔を見たカノはこれさえも嫌がらせの一部かと思った。なぜならユナが驚いた顔をしていたからだ。しかしその顔の意味していることは見事に裏切られることになった。
「う、うまいな。苦味が一気に甘みで押し返されること感じはたまらないな。」
「でしょう!」
というユナは返答する。
「でも、お茶が苦くないとこのお菓子は甘すぎてなかなか美味しいって感じなくて。でも頭もさえて糖分も補充出来ていいでしょ。」
とユナは言う。
「では、なぜあんな驚いた顔をしていたのだ?」
とカノは口の中に残る余韻を楽しみながらユナに聞く。
「だって、あそこまで含みを入れていたらもしかしたらカノは和菓子を食べないんじゃないかと思っていたから。まよわず食べてくれてよかったぁ。それじゃあ、篠崎さんのことよろしくね。」
といって部屋に戻っていくユナを見送り、カノはつぶやく。
「こんないたずらをするような余裕が出てきたのは篠崎のおかげかもしれないな。感謝せねばなるまいな・・・。しかし、直接的には何もできないことは変えられない。すまない、所詮私は君たちのような物語の中心でもなければ、この世界のような実行権を明確に持っているわけでもない。その橋渡しをすることしかできない。無力と言うのは頼られるほどに実感するものだな」
そして甘さに満たされた口をお茶で口直しをする。
「やはり、苦いな。」
もう見えなくなったユナの後姿が何かから逃げる後姿にならない事を祈りながら、苦味を深く実感する。
篠崎は聴覚だけが生かされていることを考えずにいられなかった。見えなくても声は響く。空気ではないと言えるのはものがその力の方向に向かって継続移動すること、それはつまりこの空間を満たしているものは空気ではないが、真空でもない。おそらく真空を基に考えるのがいいのかもしれないが、この空間を満たしている気体は音は減速させることがない何かであると思われた。むしろそうでなければものが自由運動を継続することはできない。
「やはりこの世界は俺の知識を逸脱していることを前提にしなければいけないか」
この世界を出る目的、家族のもとへ帰ること、カノもユナも幸せにすることを心に刻み付けた今の篠崎にはもう世界に対する構造としての不安はなかった。しかし、その世界に適応した存在がいないかもわからない中どうすべきかを考えあぐねていた。そのために情報収集をする必要があることは間違いない。その方法は大声で助けを求めてみる以外に術はない。えい、ままよ。という気持ちで
「誰かいるか!」
と出せる限りの声を振り絞った。しかし返事もなければ反響音もない。
「本当に何もないのか。聴覚を残す理由があったのだろうか。」
カノならやりかねない。そんな気もする。しかし、少なくともカノは協力を約束した。つまりこの設定はカノの関与したものではない。となるとカノを生み出したものが何を考えているのか。いや、カノのような凄惨な景色をただ見ることだけを役割に与え、独りで長年それを続けさせる世界の意思があるとすれば、このような、何かに役立つだろうと思わせるだけでそうしていることも十分に考えられる。そこで得られる絶望や今後に対する不安を楽しんでいるのだろう。
「どれだけくそったれな外道なんだ。」
とつぶやく。しかし、カノが最初にこの世界を選んだことはおそらく事実。だとすると何かしらの進む方向性があるはず、少なくとも俺の常識が全く通用しない世界に今のカノが送り込むとは思えない。カノの作った扉の接続先が世界の意思で変えられている可能性もあるが、俺が頼んだ部屋につながっていたのだから、その可能性は低いだろう。
「そう思うと最悪の事態は何もないということか。」
と思いが口からこぼれる。それから何度か声を張り上げ呼びかけてみたがやはり返事はない。下手に動くこともためらわれるが、動かなければ何も変わらないのではないかと不安に駆られる。それが繰り返すごとに強くなり、視界が奪われているせいか、何かに狙われていた場合には即死かもしれない。しかし視界がないに等しい以上むやみに点灯をして敵意あるものに発見されるような生物がいることも考えられる。つまり、この環境に適応した生物の存在がある可能性は十分にあると考えた方が無難だろうと考えた。まずは、その予防策をと考え、行動に移す。ケミカルライトに紐を通して、その紐にさらにワイヤーをくくりつけて約5mほどの距離をとった。そしてその一端を自分のベルトにくくりつけ、ケミカルライトの方を一定方向に投げた。そのせいで、篠崎自身も進んでいる可能性があるがその先には光源のケミカルライトがあるはずで、普通の動物ならそちらを積極的に狙うはずだと考えたのだ。もし何かがかかれば見えなくともどこかには連れていかれることが期待できる。そこでどうするかはその時に考えるしかない。とはいえ、そんなことをしても鮫などのように嗅覚が発達した生態系の場合も十分に考えられる。その時は、この行為は逆効果だろう。相手からすれば多少の光さえ予想もできない刺激になってしまう。
「あぁ、ダメだ。どうなってほしいのかまとまらない。時間の感覚もおそらくくるっている。何より、排尿、排便においてはそこにあるのかどこかに行っているのか、くだらない不安もある。でも、まだその生命に関与する観点で気にしているうちはまだ、大丈夫だろう。しかし慣性航行している状態であることは間違いない。なぜなら、ワイヤの伸びる方向とは反対側にケミカルライトを静置しようとするとそれは手放してもそこにあり続けたからだ。つまりは何の外力も加わっていないために何の力も与えなかったケミカルライトがそこに静置していたことが証拠である。こんな現象は実世界ではあり得ない。大抵は何かしらの力が加わり、モノは動かされるからだ。例えば新幹線や飛行機などの高速移動中にモノを置いたとき、地球の重力によって真下に落ちる。しかし、加速減速がない限り、進行方向に対しての動きはないことは経験上知っている。それがまさにこの世界の一端であると確信した。
しかし、その行動を起こしてからいったいどれほどの時間がたったのだろうか、寝ることができないために、適度に寝るために薬が欠かせなくなっている。そのたびに、昔の記憶が断片的に思い出される。そのせいもあってか、空腹感も生じない。もしかすると思っていた以上に速いペース薬の服用を続けていたのかもしれない。しかしそれを知るすべを篠崎は持ち合わせていない。それでも水分は取る必要がある。それが心もとないと感じ始めたとき、バシュっという発射音にも似た音と同時に自分の周りに何かが包むように配置されたのを感じる。それはその後すぐに篠崎の身体にまとわりつき、明らかに一方向に強引に引っ張られる間隔を得た。しかしその力も強かったせいか、おそらくその巻き取り点を中心として、力の方向が変わるごとに体にかかる力の方向も変わり、どう動くかもわからないジェットコースターに乗せられている気分でそれも非常に長い時間続き、篠崎は何かに捕まったという恐怖とこの意図せず変わる力の方向に胃の内容物(といってもほとんど水で固形物はなかっただろう)を吐き、ついには意識を失った。
目が覚めたとき、篠崎は明かりのともる空間に通されていた。なぜか一方向に重力を発生させているようだ。
「もしかして、帰ってきているのか」
など希望をもって、周りを確認するとこれは一般的にいう中性時代の石で作られた牢獄である。そんな材料で一定の重力を発生させているというは、どんな技術が使われているのか疑問を持たずにはいられなかった。だがここで一人で考えていても仕方がない。ここが牢屋だとすると看守がいるはずだ。そして、こんなところに入れられているということは少なくともここの文明人には篠崎のような動物を食す習慣はないと思われる。気に障って殺される可能性はあったとしても生きたまま勾留しているということは何かしらの情報を得ようとしていると考えるだけの知恵はある存在だろう。ならば、
「もしもし、誰かいますか。」
と檻の格子を叩いて誰かいないかを確認した。すると爬虫類とも昆虫ともとれるような姿の生物がゆっくりと姿を現した。おそらくここは最も垂直下向きに働く力が強いのだろうと予想させるような重厚な外骨格をし、おそらく中身も地球にいる昆虫類と変わらないだろうと予想できた。では話すことは難しいか。と思った瞬間、篠崎の頭の中に声が聞こえる。
「話はできる。」
何が起こったかわからなかった篠崎は、きょろきょろとあたりを見回す。
「お前は何なんだ?様々な音も出るのか。思考と音が一緒に聞こえてきて気持ち悪いんだがどっちかにできないか。おそらく思ってることはそれほど大きく聞こえないから、お前たちは音で会話する変わった主なんだろうな。」
とまた頭に響く。そしてゾッとする
「まさか今話しているのは」
とさっきの虫っぽい生物を見る。
「何だ、そんなに自分と違う種と出会うのは初めてか」
明らかに知っているサイズとは異なる大きさのその虫がこちらを見ている。




