浸食させる絶望
ミオンは居間の布団で目を覚ます。いつもと違う目覚めに昨夜のことを思い出し、自分がつらい5円間を過ごしてきたのだと篠崎に認識させられ、安心感からか安堵にも近い久びさに安心したためもあってかとてもすがすがしい朝を迎えた。そして篠崎の姿を探すとどうにも娘のいる地下にいるようだ。きっと複雑な気持ちでそれもすぐには受け止められなかったのだろう。落ち込んでいるに違いない。自らの手で自分の子どもが人ではないことを確認したのだから。きっとつらく泣きはらしてしまったのだろう。何とかともに歩む道を過ごすために手だてを講じなければと色々と思案しながらミオンは地下へと進んでいく。
「篠崎さん、いますか。」
返事はないが、何かがそこにいること、加えて何とも言えない匂いが部屋にこもっていて非常に気分が悪くなる。匂いと言ってもタンパクが燃えたようなにおいではなく、ただ焦げ臭いという嫌なにおいだ。その先にはこれまでは置いていなかった化学備品が所狭しと並べられている。その化学機器が篠崎の姿も子どもの姿も隠してしまっている。
集中しているのか全く気付かない篠崎はテーブルランプで作業している。そこでミオンは地下の蛍光灯を点灯させた。ちかちかっと何度か繰り返したのちゆっくりと部屋の全貌を照らし出す。そこにはミオンが全く知らない地下室が出来上がっていた。そして相変わらず、篠崎は部屋に明かりがともったことにも気づかない。
「篠崎さん!」
とミオンは肩に手を置き、強めに声をかけた。
「あぁ、お目覚めになられました。意識を失われたようでしたので私がお借りしていた布団を持ち出し、そこに横になってもらいました。」
という。その声には破棄が全くと言っていいほどない。まさに死人が話している、そんな印象を強く受けた。
「いろいろと持ち込んだのですね。もしかして寝ていないのでは」
「寝・・・わ・。だろ。」
その方は震え、さっきに比べても明らかに意質感を感じる。それでもミオンはこの部屋の状況、自分が居間で寝ていたこと、そしてなによりあのいきものをどうしたのかについて聞かずにはいられなかった。
「すみません、今何と?」
という問いに向けようのなかった怒りが絶望とともに発せられた。
「寝れるわけないだろって言ってるんだ。目の前で娘が何かに変化するなんて状況を目の当たりにして寝れる人間がいたら私がそいつらを殺してやる。家族に対する愛情がないなら、私が神に変わり子どもの幸せを理不尽に奪われた無念を私がはらしてやる。」
今は気持ちが落ち着かないのだろうと、ミオンは篠崎を残して居間の方に戻りテレビをつけた。日に日にショップチャンネルが増えていることがあの何かの勢力圏を広めていることが分かる。つまりはあれの親玉は確実にいるということだ。配送という名目で周囲を偵察し、領域に隣接した標的の家を品定めしているのだろう。ここまで騒ぎになっていないのも全方位からの一気に殲滅戦を行っているからだろう。だから、私や篠崎さんのように予定外の時間に帰宅した人物にはその現場を押さえられることになるが、それも織り込み済みなのだろう。警察は事件性がなければ動かない。殺されそうでは動かないのだ。殺されたという事実で初めて重たい腰を上げる、害虫である。頭の良しあしに関わらず、決まった仕事をこなせばいい彼らにとって、逃げ道が一つもない事案等存在しない。だからこそ、何か相談事が持ち込まれると、他の対応部署を探すのに必死になり、自分の責任における業務ではないことをことさらに伝えるのがやつらの仕事のやり方だ。つまりこれだけ波一つなく、死体も出ていない。そんな案件に警察が動くはずがないことは奴らも理解しているということだ。だから絶対に現物を残さない。
もし、突発的な事故でも警察が動くまでには数日かかる。その間に周囲の人間を取り込んでしまえば、事件を通報した人間の狂言として扱うように差し向けるだけの知恵も持っているようだ。しかし、今回の件では誰にも気づかれることはないだろう。互いにコミュニケーションをとっているか、もしあった場合のその情報量、それからすると妻はこちらの手の内、子どももそうだ。旦那の篠崎は人間だが周りにはうまく伝えて出てきただろう。ここが危険にさらされることは限りなく低いと考えていいだろう。
ミオンの頭の中の整理が終わったころ篠崎が壁に体をこすりつけながらもミオンを呼び、上がってくる。それに気づいて、座布団を用意して、篠崎を階段入り口で待つことにした。しかし、声はするがその声は蚊の鳴く声以上に小さく、階段の壁で反響するため、うめき声にも似て聞こえる。
「大丈夫ですか」
返事はない。いや、聞こえないのだ。そして奥で階段を転げ落ちる音が激しくしたのち階段の奥から嫌なにおいが一気にはい出ていた
「篠崎さん、大丈夫ですか。」
階段の明かりをつけ、篠崎の姿を見つけたミオンは篠崎を抱え上げ、居間の方へと移動した。
どうやら、あれから寝ていないようだ。ショックも大きかったのだろう。しかしあの機械はどうしたのか。いろいろ聞きたいことはあるがまずは寝ることが先決か。と考えをまとめ、篠崎をさっきまでミオンが使用していた布団に篠崎を寝かせ、障子を閉め、地下室へと向かった。
あの匂いがどんどん濃くなっていく、いつの間にか薬品棚や遺伝子配列測定器、組成分析機などが揃っている。どこからとりあつめてきたのか疑問もあったが、それよりも最初に篠崎が照明をつけていた実験台の上に目をやる。そこには、おそらくだがミオンには篠崎の子どもの皮であることと直感した。
それも頭頂部から排便器官、肩甲骨あたりを通って片側だけ手の甲まで。そして尾部からかかと部までを鋭利な刃物で切断し、その末端を留め、見た目は乾燥させるためのイカの様相である。しかしもう半分はそのままの状態で何かしらの薬品に浸されている。ミオンは素人であるがここまで皮と肉をきれいにはがすことができるのか。疑問に感じつつも、わが子の皮を数時間もたたないうちにこのようなことができる篠崎という人物は何者なのか。考えずにはいられなかった。
もうひとつ目を引いたのは幾本も並べられた何かで蓋をされた試験管であった。あるものは液体と赤い個体が分離、あるものは混ざりあい、あるものは変色し、あるものはガスでも発生したのか試験管にひびが入っている。まじまじとそれをみると液と
固体が分離したもの、溶け合ったものは何かしら意思を持っているかのように自然法則に反してみているミオン側に試験管の内容物が隣接していく。なんだ、これは。何のためにこんなことを。置いてあった椅子に座り、こめかみを抑える。彼はどうしようと思ったんだ。何かわかったんだろうか。しかし、彼は危険な人物ではないのか。頭の中がパンクしそうなミオンは大きく深呼吸した。肺の中があの嫌な臭いで満たされる。
突然ピーと音がする。機械から紙が吐き出される。おそらく何かを解析した後なのだろうがミオンにはそれが何かわからない。分析タイトルにはD-エタノール99・9%と記載せれている。その吐き出されたトレイの下にはD-〇〇〇など○○○の部分には薬品名が入っているのだろうと篠崎は考えたがそれ以上はわからない。紙に記載された図を見ると山がいくつかあるいわゆる組成についての解析結果を思わせるもの、その下には表が一覧となって記載されている。これで調べられていたのはどうやら
タンパク組成のようだ。ミオンにも聞き覚えのあるアミノ酸の名前がずらりと並んでいる。明るいところで確認しようと先ほどの椅子のところまでミオンは戻り椅子に腰かけ、データを見たがこれで何が分かるのか、何をしめしているのか全く分からない。
「あぁ~」
と伸びをしながら上を見るとそこには人形の破片が突き刺さったナイフがそのまま残されていた。そういえば、あの人形はどうなったと思い、探すが、そこにはあるべき人形は影も形もなかった。これも篠崎の仕業なのか。もしかして篠崎はすでに入れ替わっているのか。と考えていた時に背中に篠崎がまた別のデータを見ていることに気づいた。背筋には何とも言い難い寒気と嫌悪をまとった怒りが伝わってくる。どうも篠崎は人であることは間違いないようだ。しかしミオンからすると一緒に過ごした時間は短いがその中で濃密すぎる時間の中でもそこまで感情を表に出した篠崎は人間らしさとはあまりにも程遠い、賢智な狂犬を彷彿とさせる。
「どう、思う。」
不意に投げかけられる篠崎の問いにミオンは意味が分からない。それを察したのか、解答など待つ気もないのかミオンの困惑の顔も確認せずに続ける。
「これはもう人ではない。そして私の力ではこれを人に戻す術は思いつかない。入れ替わっていると思いたいくらいだ。」
その言葉は重く、どうしようもないということを無条件に納得させるほどの声色であった。
生気を失った目をした篠崎は何を一晩中していたかを事細かく説明した。分析用の機器を自社や、他企業に立ち入り、盗難したこと。そしてあれの組成と遺伝子解析、顕微鏡などの形体、表面分析を行ったこと。なぜそこまでやったのかと聞くと、できることは一気に進める。分析には時間が必要でそのデータを得てから他のデータを採取したので時間の無駄なのだ。だから結果を急ぐ時には網羅的に解析するのだと篠崎の研究方法の一端を聞かされる。
「その結果がもう人ではないことを示していると」
とミオンは聞くと何も言わず篠崎は頷く。しかしそれでミオンが理解できるわけがない。そしてこれまで一人でその世界を生きてきたミオンにとって細かい説明を聞くまでは到底納得できない発言だ。そう、これまで元に戻せる方法があると信じて、それを糧にして何とか生きてきたミオンには篠崎の結果だけを述べる姿勢には納得できるはずもなく、抑えられない怒りさえ覚える。
「なぜ、そう言える。なぜ言い切れる。たった一晩で何がわかるんだ」
とこれまでの自分の期待を打ち砕かれ、それを認められないミオンは感情任せに篠崎の胸ぐらをつかみ、食って掛かる。
「そうだな。私も説明もせずに君に持論を押し付けたのは申し訳なく思う。しかし、私とて、娘を人に戻したい気持ちは変わらない。それだけはわかってほしい。」
とミオンの腕の上に篠崎は手を置き、弁解する篠崎は今にも泣きぐずれるかのようで、それを必死にこらえるために上を向き、何とかこらえようとしているがそれでも抑えられないのか、篠崎の頬を伝った涙はその手と腕に落ち、床まで垂れていく。無機質な発言だけではわからなかったが、篠崎は一晩かけてここまでのことをやり、その上でこの言葉を口にしたのだとミオンは気づいた。そうなのだ、感情的になっていたのはミオンだけではない。篠崎も当然冷静ではなかったのだ。これまでのことを思い返せば当然のことだ、自分の妻が突然得体の知れないものに変わるのを目の当たりにし、それだけでなくわが子を抱けた気になっていたがその子どもすらすでに子どもではなかった。それも目の当たりにした。その理由を知りたいと思うのは当然だろう。報復したい気持ちも当然あるだろう。ミオンはそれを矢継ぎ早に経験した篠崎の気持ちを察せなかった自分を恥じた。
「すまない。苦しいのは私だけではなかったのに」
というミオンに篠崎は左右に首を振る。
「ミオンは途方もない時間を生きてきたのに、あまりにも自分勝手だった。まずはこれを見てもらうのが一番だろう。」
と篠崎は顕微鏡を指さした。なんてことのないただの顕微鏡だ。そこにはサンプルがおかれている。
「ミオンなら正常の組織の構造は知っているな」
確認する言葉にはこれまでの飾る語尾は消えている。そこまで余裕がないということか、絶望に満ちているかを伺わせる。
「あぁ、細胞同士が結合している構造だろう」
というと、では正常の細胞組織の観察は飛ばそう、とスライドガラスのサンプルを変更せずに
「覗いてみてくれ、これはあれをFFPE処理したものだ」
FFPEは一般的な標本保管方法である。つまりは標本のあるがままを固めたサンプルであるということだ。ミオンはそれを覗き、これで十分の結果だなと悟る。
「単細胞なのか。細胞膜も核も見当たらない。これが君が人ではないという目に見える証拠か。確かにもう人どころか生物かどうかさえ疑わしいな」
と自分のこれまで無根拠で治す方法があると信じて生きてきた時間が無駄であったことがこの一夜にして明らかになったのか、と落胆する。
「そうだ、細胞が組織なら、それぞれの細胞は膜に覆われ、その一つ一つに核が存在する。しかしこれにはそれがない。」
顕微鏡の横には核染色剤や細胞膜染色剤が数種類並んでおり、ゴミ箱周辺にはスライドガラスがいくつも散乱している。何度も何度も自分の実験法の失敗を疑ったことを感じさせる。
「組成はともかく、これには地球生物がもつ遺伝子、もっというなら核酸を持っていない。これはもはや、今の学問でいう進化論を根底から覆すものだ。知っているだろうが、遺伝子を持っているから、それは子孫に反映し、親の形質を継承する。しかしこれがなければ親と子のつながりなどどうなるか、全く想像がつかない。極端に言うなら人の子が虫や植物になる可能性さえあるということだ。そこには染色体の数や形状も関係ない。遺伝という言葉が適応されないものということになる。」
「では何だと?なぜ知性があるように生息範囲を効率的に進めることができる?」
「何かという問いにはたんぱく質としか答えられない。あれは既知のタンパク、アミノ酸から形成されている。それは分析結果からも明らかだ。しかし二つ目の問いに関しては仮説としてあるのは、あれは一つの固体であり、それは切り離されても何らかの方法で自らの分布範囲を確認し、まるでオセロの駒を返すように分布範囲を広げている、というものだ。」
と篠崎は答える。
「しかしそれでは、本体はないということにならないか?すべてを一瞬で消さない限り、あれは増え続けるということか?」
「私の仮説が正しければ、だがな。しかしこの仮説はあれの増え方を立証しているともいえる。自ら人と接触、そして自らを切りはなしその人に分離分を融合させ、構成するタンパクを餌として内部を食らう、まさに人食いバクテリアだ。しかしそうしなければ増えることができず、生息域を拡大することができないことを示しているとするなら、この仮説は大きく外れているとは言えないと思う」
「確かに、そうするとやはり生き物なのか」
「生き物かどうかについては微妙なところだ。君はウイルスを知っているな。君はあれを生き物と考えているか。それとも非生物と考えているか」
「そりゃ、生物だろう。何を当たり前のことを」
というミオンに篠崎は質問を替える
「それでは生き物とはなんだ」
「生き物とは自らの種を継承し、環境に対応するために自らを多少なり変化させる能力を持つものかな」
「そうか、ではもう一度聞く、ウイルスは『自ら種を継承させる』ことができるか」
という篠崎にミオンは答える。
「それは。できない。」
「そうだ、ウイルスは自ら増殖することはできない。そういう意味では君の中でウイルスは生き物ではないということになる。何も恥じることはない。学問としてもウイルスが生き物かどうかは議論されていることだ。だが今はそこが論点ではない。ウイルスもあれも何らかを媒介して増殖を成し遂げるということだ。」
「そしてあれは人を媒介に増殖するものだと」
「そうだ、まさに昔議論された、タンパク起源論に基づく生物だ。」
「タンパク起源論に基づく生物?」
聞きなられない言葉にオウム返しをするミオンに篠崎は答える。
「地球に生き物がどうやって生まれたのか。という話から始まるんだが、物理分野ではその起源はタンパク質で形成されるものとしている。それは原生生物と言われる化石として残る生き物は構造が複雑すぎるんだ。だからもともとは化石になりえないもののみで構成された簡単な生き物が存在した。厳密には生き物ではなく雑多なタンパクの集まりだったと考えられている。この考え方がタンパク起源論だがこの考え方は間違いとは言えない。普通に考えて容易に構成できるタンパクを形成させるためにわざわざ保管性の高い遺伝子をはじめから有していたと考えられないからだ。」
「確かにはじめは再現できなくても、それを作ることが目的になるのが普通だと思う。」
「だとすると、遺伝子を持たない生き物がいたということだ。ならばそいつらはどうやって、増殖し、進化していったのか。私は時に全く異なるタンパクとタンパクが接触し、様々な機能を有するタンパクが構成されたと考えている。その中で他のタンパクを取り込むことで機能を拡張していくことができる、つまり自らを拡張することで自らを保存することにつながるという意思のようなものを持つものが現れたとする。それがもし生き残っていたとするとあのようなものになることが予想できる。」
「しかし今の考え方では生き物は全て遺伝子をもつとされているのでは」
「もしそれが、あれのような偽装もしくは模倣するような何かしらの隠れ蓑となるものを見つけ、大半の遺伝子を持つ生き物の中に紛れていたとするとどうだ。」
「今の状態のようなことが生物の発生の時からずっと本質は変化することなく、タンパクを食らい、その生き物の機能を取り込み蓄積し、それを統合してきたすべてのタンパク機能を有するものがあれということになるのか」
「そう、切り離しても相互に生存できていることもプラナリアのような生存力、爬虫類の持つ復元力をも持ち合わせていても何ら不思議には思わない。おそらく、その意味であれを消失する、殺すことは一瞬ですべてを消す必要があるがどうやってもどの範囲にまで生息圏が広がっているかわからない。そしてそうして取り込まれたとすると、どうやっても元の生物に戻すことは不可能、ということになる。」
篠崎は唇を噛み切り、血が流れていることにも気づかない様子で救われない、救えないこの状況をどうやって希望を持って生きるんだと悔しい想いを何とか自分の中で抑え込もうとしている。
「そうですか。ありがとうございます。篠崎さんと会えてよかったです。何か救われた気がします。」
と急に雰囲気を変えるミオンであったが、何とかならないかと頭をひねる篠崎には目に入らず、耳にも入らなかった。




