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今日から始める脳梗塞  作者: おっとり魚
第四部 新たなる旅立ち(手術)―その一 六月の入院記―
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第七話 悪爺隣の部屋に到達するも帰ってくる

 それは夜明け少し前、自分も悪爺の通報に疲れて少し眠った頃に起こった。

自分は半分寝ていたので最初はわからない。

ただ悪爺はついに柵を外してルートを引き抜き、脱走を完成させたようだ。

そして自分が半覚醒して聞いたのは、爺さんがよたよた歩いて隣の女性部屋に到達した頃からの話となる。

その部屋には被害妄想で医者の名前を呼んで念仏のように唱えながら「助けてくださいお願いします」と一晩中連呼する老女(多分)がいた。

彼女はどうやら本来動けない重症患者らしいが、トイレに行きたくてしょうがないらしい。

看護師を呼んでは無理ですよ、トイレはベッドでしてくださいと窘められることを繰り返す、ようするに悪爺と似たりよったりのケースだった。

そして自分の願望が叶えられなくなると助けを呼ぶお祈りが始まるのである。

その声は夜の病室では響いて、隣にいる自分にも聞こえてきた。

多分耳が遠い爺さん達にはノイズにもなっていないだろうが。

健常者から狂っていくのだ、この場所では……。


そんな老女のところまで到達した悪爺は、ルートを引きちぎったことで血だらけになりながら

「やっぱり無理だ、すまんがそのボタン(ナースコール)で看護師を呼んでくれないか」

と往年の俳優みたいな渋い声で実に情けないことを要請したのだが、老女は普段の自分の言動など全く気づいてもいないように、この時だけは冷静でまともな態度だった。

いや実際押せば邪魔な乱入者を排除できるのに、押さなかったのは判断ミスと言えるが。

「なんなんですか!? 押せませんよ!」

と何故か抵抗された悪爺は、諦めて立ち上がり、どうやらこちらの部屋によたよた歩いて戻ってきたようだ。

その時疲れて善爺の布団に倒れ込み、シーツを血だらけにしている。

自分のほうだったら本気で蹴っていたかもしれない。


そこから自分のベッドに歩いた悪爺は、力尽きて共用の洗面台辺りに倒れ込んだ。

部屋の入り口から丸見えの場所である。

そして遅れてやってきた看護師はそれを見つけて息を呑む。

若い看護師とベテランの二人が見つめる血だらけの悪爺の姿はどんな状態だったろう。

「最悪だ……怒られるのは私達だ」

と絶望する若い看護師は、ベテランのほうに促されてやっと片付けを始めた。


実際ここまでやっても悪爺にペナルティがあるわけではない。

なんの反省の機会にもならないのだ。

そして汚れた部屋の掃除は看護師の仕事となる。

ただでさえ夜勤で人がいない中で、余計な大仕事を押しつけられる看護師がかわいそうで仕方ない。

拘束してしまったほうが楽なのだが、拘束するとそれはそれで手がつけられなくなったりするので、難しいところなんだと思う。

基本この病院では拘束はされないようだ。

しかし悪爺の聞き分けのなさは異常すぎて、とてもまともな監視ができる状態ではなかった。


ある日自分がふっと横を見ると、悪爺のベッドがある方向を仕切るカーテンが膨らみ、まるでターミネー○ーのように悪爺が浮かび上がってきたことがある。

そこから現れる頭の禿げ上がった爺の恐ろしいこと。

そして自分のベッドにもたれかかってきた爺にすんでのところで蹴りをいれずに我慢した自分は、悪態をつきながらすぐナースコールを押した。

こんな奴なのである。


ある時光を入れたいと自分と悪爺だけの仕切りカーテンを開けた。

立地的に自分は背を向け、爺さんのほうからだけ自分が丸見えなのだが、悪爺はこれが気に入ったらしい。

部屋の出入り口くらいしかないのに何故という話だ。

しかし実際の窓からの自然光は、鬱陶しいとカーテンを引いてしまった。

いやそれだと俺の数少ないメリットゼロなんだが。


その後カーテンを開けさせてほしいといけしゃあしゃあと要請する悪爺に対して、自分は「それはちょっと……(いい加減もういやだ)」と返したのだが、耳がすっかり遠くなっている悪爺は無視されたと思ったようだ。

「聞いても答えてくれない(いや答えたんだが)……でもお隣さんだしつきあいは大事にしないとな」などとまともな人のように振る舞う悪爺は、自分には触れないようになったが、自分も二度とこの爺さんと会話することはなくなった。

本当に酷い隣人であった……。

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