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今日から始める脳梗塞  作者: おっとり魚
第一部 救急編
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第四話 発信、開かん時の最終兵器(ナースコール)

 救急センターに落ち着いた自分は、その後SCU(脳卒中専門の治療室)に移されるまで、そこで検査の日々となった。

その時出会った変な人のことを紹介したい。



・新井さん、それは思い切り間違えている……


新井さん(仮名)は妙齢のご老人である。

女性でベッドは全く違う場所なのだが、どうしても今回自分の脳に強烈にそのキャラクターを残すことになった。

ネタにしてごめんなさい。

彼女の病気など詳しいことは知らないが、車椅子でトイレに向かう姿をよく目撃した。

自分のベッドがあるのは、中でも症状が軽いほうの患者が集められているところらしく、トイレが近かった。

正確には専用の救命機材や看護師の詰め所から遠い僻地と(手がかからない安全地帯とも)いうべきなのだろうが、残念ながらこの話にはトイレも密接に絡んでくる。

この人がなにをするかと言えば、トイレに行きたいと看護師さんに車椅子で運ばれてきてトイレに入った後、便座から車椅子に自分で移乗し、トイレの扉を無理矢理こじ開けて出てくるのだ。

こじ開ける際の音も相当騒がしく、その過程において、またトイレを這い出してからも「すみませーん、すみませーん」と看護師に助けを呼ぶからまたたちが悪い。

その被害を主に被るのは、当然トイレに一番近いベッドに配された我々である。

看護師の詰め所は一番遠いため、老人の声では当然それに気づかれることは偶然以外そんなにない。

なんとこれが一晩中繰り広げられるのだ。

さすがに恐ろしいとしか言いようがない。


看護師さんの仕事として、トイレの世話というものがある。

下手な部署では八割がその仕事だったりするくらいだ。骨折時自力で動けなかった時期は、自分も相当お世話になった。

自力でトイレに行けない患者を運び、車椅子から便座に誘導して、終わったらナースコールを押してくださいねと残して帰っていく。

便座の横に設置された呼び出しボタンを押すと外で灯りが点灯し、詰め所にも連絡がいくので、慌てて看護師さんが駆けつけて、また車椅子を押してベッドまで案内してくれるという寸法だ。

自分も現状はそういう扱いだが、食事もほとんどしていない関係で、たまに小用を足したくなる程度だったので、この頃は日に一度か二度お願いする程度だった。

おまけにトイレ後普通に立てるため、呼び出しをしつつ先に手を洗う余裕もあった。

それでも頻繁に呼ぶのは気が引けて、極力回数を抑えて遠慮したくらいだ。

だが新井さんはそうはいかない。

しかも彼女はナースコールを押すということがわからないらしい。

おかげで何度も何度もトイレに運ばれては、無理矢理トイレから這い出し、しかも周辺をさまよってすみませんと聞こえるはずもない助けを呼んでしまう。

別に笑い話にしたいわけではない。話としては結構深刻な話である。

だが病床の身である自分には、いや健康であったとしても対処する方法はない。

同部屋の爺さんはいよいよブチ切れて「うるせーな!」と叫んだのだが、むしろその声で起こされる始末だ。

あんたのほうがうるせーってよ。

なんとか看護師さんに見つけられた新井さんは、その度に「一人で車椅子移ったら駄目」「次からはナースコール押してね」と時に厳しく叱られ、時に優しく諭されるのだが、それが無意味であることを誰よりも知っているのはトイレ前の我々であった。

その後新井さんがどうなったか定かではないが、早く元気になってナースコールとは無縁の世界で平和に暮らせるようになるのを祈るばかりだ。



・悲鳴の金井さん(もちろん仮名)

もうひとり女性患者のことを語りたい。

今まで男性と同部屋になったことはあるが、どうも女性のそれとは傾向がかなり違うということに今回気づいた。

彼女もおそらく年相応の老人だと思われる。

顔を合わせたことはないので詳細はわからない。

だが彼女も結局は同じ、ナースコールの存在を理解できていないのである。

地の底から響くような低い声で「す~み~ま~せ~ん~」と叫びにならない助けを乞うところから彼女の活動は始まる。

その声はその辺のホラーのわざとらしい演技を凌駕している。

本当に生理的な恐怖を煽ってくるのだ。

一体どんな窮地に立たされているのか気になって聞いていたら「おみ~ずく~だ~さ~い~」だったのでズッコケそうになったが、ナースコールが使えないとなると笑ってもいられない。

彼女の悲鳴を聞いて解決してくれる人はいないのだ。

ただどこでもベッドにくくられている、動けない人でも手に握らされる、小さなスイッチ一つで全てが解決することなのに、それが彼女たちには解決できない。

そして悲鳴は長く周囲の者の耳だけを打つのである。その悲鳴は力尽きて諦観に達するまで続くことになるからたまらない。

彼女はその後満足なだけ水を飲めるようになっただろうか。今もたまに思い出してしまう。

だがそれ以上に覚えているのは、おそらく隣でそれを散々聞いていたであろうおばちゃんのツッコミだった。


「叫ばんとキー押したらええがな」


まあ、その通りなんだけど。

というかそれキーじゃなくてボタンな、と心のなかでツッコミ返してしまう自分は、きっと酷薄な人間だと思う。

だからって自分が押して看護師さん呼ぶのも筋違いだしなあ。

こういう人にはどう接するのが正解なのか。自分にはわからない。



・最強の雪花菜さん(ゆきかなさん、当然仮名)


同部屋(と言ってもほぼオープンスペースだが)の雪花菜さんはいい歳をしたご老人の男性である。

大やけどをして入院したらしい。

自分が入院した時は退院間近で傷はほぼ癒えていたようだが、それでも肌は普通ではない赤さで、包帯と薬を欠かせないでいた。

気さくな爺さんだが、気さくすぎて時々無軌道で突拍子もないことをしてしまうのが玉に瑕だ。

この爺さん、なんとスタッフオンリーのスペースにこっそり忍び込み、そこの自販機でお茶を買ってきたりする。

唐突に「他の自販機はぼったくりや、もう買う気がおきん」と言ったのでんー? と思って聞いていたら、鬼の形相の看護師がやってきて「あそこは看護師以外立入禁止区域だから、入っちゃ駄目よ雪花菜さん!」とかなり本気で怒っている。

その一言でなにが起こったか全て察せてしまう。

このなんでもない一言にどれだけの意味が籠められているか、多分現場で即座に理解したのは自分だけだろう。

そして患者価格と従業員価格の差があることを知ってしまった自分は、もう自販機を利用する気がなくなってしまった。

なんてこった。色んな意味で酷い爺さんである。


普通看護師のみの立ち入りスペースは道幅が狭くなっていて、患者は簡単に通れなくなっているらしい。もちろん電子錠もある。

車椅子必須な自分や、素早い動きができない老人は当然入り込む隙などないのだが、雪花菜さんは物ともせずに他の看護師がドアを開けて通り過ぎた後ろを辿って忍び込むらしい。

どこのスニーキングアクションだか。よく見つからないもんだよ。


自分は入院すると、よく同部屋の人間の行動をそれとなく観察してしまうが、たまにこういう破天荒な人間がいて楽しい。

普段は部屋で一人きりでパソコンやゲーム機や本だけが友達、一言も発しないのでろれつが回っていなくてもわからないくらい根暗な青(壮)年だが、入院時だけはこういう逸材に出会えるから大部屋大好きだったりする。

金払ってまで個室で孤立するなんてもったいない。

にしても雪花菜さんは、今まで出会った中でも相当無茶苦茶である。

先の新井さんがトイレから脱出しようとSOSを発している時も、しゃしゃり出て女性用トイレに乗り込み声をかけ、看護師に「後は看護師がしますから」と結構厳し目に窘められていたが、本人は聞いてすらいなかった。

なおその後新井さんにうるせーと怒鳴ったのも雪花菜さんである。どないやっちゅうねんという爺さんだ。

寝ている患者にも平然と話しかけ、やっぱり傍にいた看護師に「患者さん寝ているから、自分のベッドに戻って雪花菜さん」と苦言を呈されていた。

もはやなんでもありである。

深夜にうるせーと怒鳴るわりに、本人は夜中でも看護師にお茶をくれと要求し、眠れないので一人で徘徊……いや歩行訓練を行っている。

見ようによってはそっちのほうが眠れないのだが、当然本人はお構いなし。

そしていい感じに疲れた後は、早朝明かりが灯って通常業務や回診が始まってからも大爆睡しているのである。

無法地帯と呼ぶにふさわしい。


余裕がない時はひたすら鬱陶しいであろう存在だが、いまだに病状を(愚痴以外)説明されていない、治療の段取りさえわからない状態で傍から見ているだけの余裕たっぷりな自分には、これが楽しくて仕方ない。

その後自由に歩けない自分の食事の後片付けをしてくれたことをきっかけに、二言三言話すようになった。

他に相手もいなくて、寂しくて話しかけるきっかけ探していたんだろうなというのがよくわかるので、自分も余裕がある時は答えるようにした。

そんな雪花菜さんも退院は間近。

しかしそれよりも早く、別れは無情にもすぐそこに迫っていたことを、自分は知らなかった。

つづく。

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