第四話 二人の爺さん まずは善爺さん
入院はしたが具体的に骨が折れたというわけではなく、ある程度の自由を取り戻すと自分は「余裕」が出てきていた。
他人を観察する余裕である。
というか余裕がなくてもこの二人の強烈さは忘れようがない。
そんな二人の同室者のことを語る。
まず自分が入院した時からいた爺さんを善爺さんと呼ぶことにする。
この爺さんという呼称は親しみと同時に近づきがたい存在ということである種の(あくまである種の)敬意を持ってわざとそんな呼び方をしているものと解釈いただきたい。
この善爺さんはどうやら病院に長期間滞在しているヌシ的な存在で、周囲にもよく知られている人だったらしい。
善というだけあって愛されるキャラクターだったのだが、身動きできずに入ってきた自分の同室者としては厄介極まりない存在で、最初は自分もけたたましく抗議の声をあげたものだ。
本人は痴呆が入っていることもあって、何を言おうと効果はないのだが。
この善爺さんはどこが悪いのか、腰にコルセットを巻かれては不快なのかそれを自分で勝手に外している。
ベッドに釘付けだった頃は全くわからなかったが、ベッドの柵をいじって自分で勝手に引っこ抜いたりしている。
転落防止柵はベッドに最大四つ取り付けられるのだが、普通の患者は出られなくなるので二つくらいしかついていない。
それを転落しそう、勝手に抜け出そうとする患者は全方位で囲ってしまうのがこの転落防止柵のもう一つの役割となる。
しかしこの善爺さん、それを時間をかけて全て解体してしまうくらいには要領がいい。
この柵自分でいじってみればわかるが、意外と重いのである。
だから引っこ抜くまでは出来ても、その後床に落としたりすれば大音量で金属音を響かせ、早速看護師が飛んでくる。
しかし善爺さんはそれを見破られることなく、静かに抜き取っては処理し、抜き取っては処理しついには四箇所に設置できる柵を全て除去してしまった。
偶然部屋を訪れた看護師はひっと悲鳴に似た声を上げ、(多分自分が聞いた限りでは)ショックのあまり壁に手をついた。
それはまるで殺人事件の第一発見者のように妙にリアルだったため、自分にも深く印象づけられることとなった。
その後別の看護師を無意識に呼んでいた看護師は、駆けつけたもう一人と「どうしたの?」と話していたのだが、やっと立ち直った看護師は「柵が全部解体されている……」とあらましを語った。
ここまで寝たきりの自分には全て音声のみの情報だったが、まるで光景が目に浮かぶようだった。
善爺さんは毎日車椅子に乗って外に出ようとする。
それはいいのだが操縦は一切できないため、ブレーキも外せず低速のまま足で漕いで前進しようとする。そのため進みはのろい。
小回りも一切効かないので当然壁や障害物にぶつかる。これがうるさい。
そして邪魔が入ると周囲の布や壁を引っ張り、無理やり進行方向を変えて外へと出ていくのである。これがまたガタガタやかましいったらない。
入口前で必ず一度は壁にぶつかるため、寝たきりだと本当にこれが気になる。
一体何をやっているんだ! と一度ならず叫んだが、実際の行動を見たのは多少動けるようになってからのことだった。
しかしこれが実際に目にするとなかなか愛くるしいから困る。
仕切りのカーテンを引っ張って進行方向を調整するのだが、普通に引っ張るとカーテンが破けてしまう。
しかし善爺さんはそういうところだけは頭がよくて、破れないようにちゃんとまとめてから一定の強さで引っ張るのである。
ボケているし行動は破天荒なのだが、どこか愛嬌があって無理がない。害もゼロではないが割合少ない。不思議な存在だった。
この爺さん車椅子のペダルをたたまずに立ち上がろうとしては、それに引っかかってこけることがある。
ペダルを出したままだと転倒はするのだが、地面に頭も膝も激突せずにうまいこと止まるため、本人は行動不能でわたわたしはするが、救出さえされれば無傷である。
一度看護師に「おっとりさん善爺さんがこけたところ見ました? 大きい音してましたか?」と聞かれたことがある。
自分はペダルを出していたからどこも打ってないんじゃないか、音はしなかったと証言すると、看護師はすぐ納得していた。
もし音がしていたら膝や頭を打って怪我をしている可能性があるのでレントゲンなど検査が必要になるが、そういう心配は爺さんの乗り方だとあまりないようだ。
周囲にも配慮した優しいボケ方をしている。
そんなわけで看護師以外の従業員も意外と気さくに話しかけたりするこの爺さん、初めてコンタクトしたのはとある夕方のことだった。
善爺さんはいきなり話しかけてきて「今日外は火が降っているので火事に気をつけて家の中でじっとしていてください」とのたまったので、自分は困惑しつつそれを完全に無視してしまった。
その後トイレに行こうと廊下に出た時、爺さんが何を言おうとしていたのかはっきりする。
それは夕暮れ時のオレンジ色の陽が差し込んで、病棟内まで茜色に染まった光景のことだったのだ。
その幻想的とも言える光景を眺めながら、うるさいと切れてばかりいた自分は、善爺さんへの見方を改めることになった。
ああいうボケ方なら害は少ないのかもしれない。
まあこの善爺さんも時々癇癪を起こしては看護師の髪を引っ張ったり暴力的になりはしたので、全くの無害というわけでもないのだが。
そして話はもうひとりの悪爺さんのほうに移る。
これがまた二度と同室にはなりたくないくらいたちが悪い相手だから困るのだが……。




