第六話 採血なんか大嫌い
帰宅に向けて、血をサラサラにする薬の効き具合を確かめ量を調整するため、採血をすることが告げられた。
告げたのはO賀さん(仮名)という本日夜勤担当の看護師だった。
もちろん若い。そして太ってもいない。
もはやいい看護師とわるい看護師の判断基準はそこだけである。
不安を覚える自分に楽観丸出しの態度を取る彼女は、まごうことなきガリコポチャコペアの再来となった。
もはや速攻ネタバレ出オチキャラである。
そして運命の朝がやってきた。
この時用意された採血の瓶は八本、八本である。
この数を覚えておいて欲しい。
彼女は不安をぶつぶつ口にする自分と採血というものを、完全に舐めてかかっていた。
「そんな甘いもんじゃないよ採血は、今それを思い知るがいい」
と悪役か意地悪上司のように内心で呟いた自分は、予想通り血管を見つけられない彼女に、心のなかでため息をついた。
早々に手首でもいいよと宣告した自分に従って、手首に狙いを定めた彼女は、そこでも失敗。
最後は手の甲に刺す始末であった。これが結構痛いんだわ。
応援の若くて痩せた看護師に囲まれ、ハーレムというより見世物のようになった自分は、なんとか八本分の採血を終えて一時釈放された。
当然これで終わりじゃないよね? としか思わない自分は素直に「どうせこのあとまた数本帰ってくるよ」と言うと、O賀さんはこれまたお約束のように「どうしてそんな悲観的なの?」と半笑いで告げた。
自分はそれ以上追求するのにも疲れて、心の中だけで彼女の若さに舌打ちした。
この採血があるため、この日は朝食が遅れた。
ただでさえ食事量は血圧を考えて減らされていて、空き時間に苛まれる空腹感が辛い。
しかも前日の夕食から十二時間は空いている朝食が、さらに遅れたのである。
空腹の極みだった自分は苦行の後ようやく朝食にありつけたが、それはもう冷えていて、いつもならおいしい無塩の食パンは固くなっていて美味しいと思えなかった。
さて昼前に時間が飛ぶ。
もうお約束はわかりきっていたが、やはり看護師はやってきた。
O賀さんは採血が終わると夜勤明けで帰ったので、告げたのは別の看護師さんだった。
「すみません。採血が帰ってきたので、採血室に行ってもう一度採ってきてもらってもいいですか?」
だから嫌ですって言えるのか……と思いつつ自分は頷いた。
ほらな、とどれだけO賀さんに嫌味たっぷりに言いたかったか。彼女がいないことがまた恨めしくて仕方ない。
しかもそのために昼食はまたお預けである。
午後一時過ぎになってようやく採血室に呼ばれた自分は、かなり遠い部屋に向かった。
以前母親が抗癌剤治療を受けていた時、受付後必ず採血していたので場所は知っていた自分は、リハビリと体を慣らすため、車椅子ではなく歩いてもいい? とお願いして、送迎の(准)看護師さんの横を自分の足で歩いた。
距離的には癌だった母親でも歩いた距離だが、散々楽をして足腰の弱っていた自分にはこれがきつい。
すぐ息を切らして疲れ切った自分は、なんとか採血室までは行けたが、その後すぐ車椅子に乗せてもらい、結局その後はまた車椅子で病室に戻してもらった。
この距離よりさらに長い距離を退院する時も歩くことになるのだが、大丈夫なのかという話だ。
実際これには苦労することになった
採血室ではベテランの看護師さんがやってきて、自己紹介をしてくれた。
若くはないが太ってもいない、だが採血室に勤めているだけあって、彼女は極めて優秀だった。
結局八本抜いて不備で帰ってきたのは五本。
半分も成功していない。
三回針刺されましたと告げ同情される間も、てきぱきと作業をこなす彼女にいつもの「手首でもいいですよ」はいらぬお世話だった。
しっかり肘裏一発で血管を貫いた彼女は、血が固まらないために瓶を振る動作さえ可憐で、年季の違いを感じさせた。
これが若いだけが取り柄の病棟看護師と、毎日採血で何十何百の血を抜き続けるベテランの違いか……彼女の腕前に自分は素直に敬服した。
あっという間にたった一人で何のミスを犯すこともなく五本の採血を終えた彼女は、無駄な動きをまるで見せずに終わりましたよと華麗に告げた。
これだけで惚れそうである。
研修で一ヶ月くらい若い看護師こき使って、採血室で鍛えて欲しいもんである。
O賀さんとは以後会えず退院することになったので、彼女にこの時五本も失敗していたと伝えられなかったのは残念で心残りだ。
こうして自分は月曜日に入院し、翌週の木曜日に退院することになった。
もう一つ栄養士の栄養指導があったのだが、そちらは退院後の話題と重なるため、第三部「退院、それから」編で別の機会に触れたい。まだやんのか。
とりあえず今のところその先はないので、第四部「再発」編を書かずに今度こそ完結して欲しいものだ。
退院時は退屈である。
朝食は出るが、もう心配される要素もないので、看護師さんとの語らいも最後はかなり淡白になる。
お別れの挨拶に泣きながら看護師さんが大挙して来てくれる関係が築けるわけでもなく、食事と検温が終わって後片づけが終われば、あとはとにかく暇である。
周囲では朝からリハビリが始まったりもしているが、自分が呼ばれることはもうない。
この素っ気なさが寂しくもあり、シャバに戻れるという期待感を増幅してくれたりもする。
元々あまり荷物を広げていなかった自分は、前日までに荷造りもあらかた終えていて、箸や歯ブラシなどの日用品を片付けた後は、もう貴重品入れの中身を取るだけになっていた。
救急車に乗る時パジャマのままだったため、外出着は持ってきていない。
仕方ないので下はパジャマのままだった。特に目立つ柄ではなく、外出着としても使えるトレーナーだったので問題はなかった。
上も同様で、ジャンパーを羽織れば十分外を歩いていても問題ない格好になった。
前日にもらっていた薬も、もうかばんの中だ。
結局自分はこれから血をサラサラにする薬と、血圧を下げる降圧剤、悪玉コレステロールが基準値をわずかに上回ったためそれを下げる薬、それに胃薬の四錠を毎朝朝食後に飲むことになった。
これらの薬を処方してもらうため、内科医のかかりつけを作るように指示された。
そのための紹介状も書いてもらったが、先生はまた忙しいらしく、説明に来るつもりだったが来れなかったようだ。
結局紹介状は看護師さんから受け取った。
他に薬剤師がやってきて、おくすり手帳をもらった。
何度もおくすり手帳を紛失している自分はこれが三冊目で、多分あと二冊も家を探せば見つかると思うが、探す気にもなれなかったのでそのままいただくことにした。
以後はなくさないようにこの手帳をリビングに置いて使っている。
他に降圧剤とグレープフルーツの関係を説明された。
有名な話だが、グレープフルーツを食べると降圧剤の効果が強まってしまう弊害がある。
もう降圧剤を飲んでいる限り、グレープフルーツは二度と食べられない。
ザボン、ブンタン、スウィーティー、ダイダイも駄目だ。
だがオレンジやみかん、レモン、カボスは大丈夫らしい。
これがまた曖昧。
ザボンやブンタンなんて見かけることもないし、グレープフルーツだけ覚えておけば大丈夫かなと思っていたが、スーパーの柑橘系が並ぶコーナーでスウィーティー以外全部見つけた時は驚いた。
意外と出回っているものである。当然手に取れなかった。
別に副作用を恐れたわけではなく、単に高かったからだが。
これで激安果物だったら躊躇したかもしれないが、そういう心配はなさそうだ。
支払いはいつもの精算コーナーでと言われて、自分は腰を上げた。
まずは預金を降ろさないといけない。
見送りの看護師さんが最後まで頭を下げてくれたのに礼を返して、自分はまた広い廊下を歩き出した。
以前採血室まで歩いた道のりと、階層が違うだけで大体同じである。
今回はでかくて重いかばんがある。これが意外と辛い。
途中小休憩を挟みつつなんとか目的地に到達した自分は、まず預金をおろしてお金を作った。
今回の入院費は十日分ということもあり多くはなかったが、それでも自分の全持ち金の十分の一は消失させた。
ついでに他行引き落としの手数料二百十円も取られる。
こういう小さい無駄金がものすごく気になってしまう小心者なのだ自分は。
それを持って支払いに向かった自分は、そのまま受付で金を支払った。
これでこの病院ですることは全て終わりである。
歩き疲れた自分は受付の待合の椅子に座り込み、これからどうするか考えた。
右に行けばタクシー乗り場、左に行けば自宅への最短ルートが待っている。
既にポンコツの体はもうくたくただ。
自転車なら置き場まで歩けばすぐなのだが、今の脚力と体力で帰路の全行程を歩くのは、途方も無い労力な気がする。
かといってタクシーで数メーターの距離分カネを払うのも惜しい。
以前整形外科に入院した時は、かばんのあまりの重さに音を上げて、運転手さんに近距離ですみませんと謝りながらタクシーで家の前まで連れて行ってもらったが、今回はそんな気になれなかった自分は、二十分ほど休んだ後で、重い腰を上げて左の道へと進んだ。
歩くこと自体はそれほどでもなかったが、とにかくかばんが重いのが辛い。
出口を潜った自分は、たった十日しかいなかった病院の空気から離れて外界の空気を吸っていた。
ほんのちょっと前はなにも考えず通りかかったこともある道である。
なんとか杖をついて自分の家へと続く一本道に辿り着いた自分は、電柱を見かける度にかばんを下ろして、杖をつきながら小休憩を挟んだ。
次はあの電柱まで、次はあのカーブミラーまで。
自転車なら数分もかからない道のりを、何十分もかけて辿った自分は、ようやく代わり映えのしない我が家に帰ってきた。
まずやったのはポストに大量に放り込まれたゴミチラシの撤去。
次に玄関を開けて、中にかばんを放り込んでから、母親が残したもう雑草かどうかもわからない花に久しぶりに水をやった。
救急車を呼んでから座った上り框を、十日ぶりに上った自分は、ようやく日常へと帰ってきたが、ここは今まで通りの安穏ではなく、新たな戦場でもあった。
それをあざ笑うように部屋の入り口に積まれた袋ラーメンは、まだ封も切っていない新品だ。
だがその塩分量を見た自分は、二度とこれを食する機会はないなと早々に諦観の境地に至った。
そう、これから始まるのだ。塩分との戦いが……。
SCU編 完




