見鬼
武谷 虎緒は幼少の頃よりあやかしの姿を視る事が出来た。
幼い時分、目の前に現れるあやかしを言葉足らず舌足らずでなんとかそれを両親に教えようと四苦八苦するのだが、視えぬ二親には何のことやら伝わらない。
癇癪を起こす事しばしばであった。
あやかしを視た後は、その障気にあてられて熱を出し寝込む。訳の解らぬ事を口にして、こわいこわいと騒いだ後倒れるものだから、これはもう心の病ではないかと両親は危ぶんでいたのである。
転機が訪れたのは虎緒五歳の時。
京より寺社奉行陰陽課に赴任する為、賀茂 貴明が近所に越してきたのである。
「この御子は見鬼の才あり」
剣術道場の主であった虎緒の父は、はじめ彼の言葉に耳を疑った。虎緒の父は実際的な質で、人の目に映らぬあやかしなど存在しないと考えていたのである。
しかしながら、貴明との数度の話し合いの末、ものは試しと貴明の施術に同意した。実のところ医術では原因すら判らずじまいだったのである。
貴明は虎緒の見鬼としての能力を封印した。
視える、という事は人が持つあやかしに対する防御力が弱いという事でもある。
術により防御力を高める事で、結果的に虎緒の見鬼の才は封じられたのである。
貴明は京より連れて来た息子一明に、虎緒の面倒をみるよう言い付けた。
虎緒の年齢が上がり精神的な強さが備わるのをもって、段階的に封印を解く事を命じたのである。
これは一明の陰陽師としての訓練でもあった。
見鬼を封じられた虎緒は今までとはうって変わって明るい子になった。
「精神修養が大事」との貴明の言に、虎緒の父は自分の道場へ娘を連れていく様になった。
寺で座禅を組むよりは、道場に通う若者らとの付き合いの方が幼い子供には得るものがあろう、少なくとも遊び相手には事欠くまい。そういう軽い気持ちであったという。
門前の小僧の謂れの如く。
最初、虎緒は道場の庭で人形相手にままごとなどして遊んでいたが、そのうち見様見真似で竹刀代わりに木の枝やはたきを振っていた。
それがいつの間にか竹刀を振り、稽古場に座り、遂には兄弟子達を打ち負かすまでになった。
一明は虎緒の兄貴分となっていた。虎緒がはたきを振っていた頃には遊び相手になってやり、竹刀を振る様になった頃にはあやかしに対する知識と心構えなどを教えた。
一明により段階的に封印を解かれた虎緒は、以前視た風景を一明と共に視る事で恐怖心を克服していった。
虎緒の封印が全て取り払われた後、一明は引退した父貴明の跡を継ぐ様に寺社奉行へ出仕した。虎緒十五、一明二十の年である。
この頃、既に虎緒は男のなりで街を闊歩していた。
仙台藩は女丈夫に理解がある方と謂える。その昔、藩祖政宗の母義姫は実父と実兄が争いとなった際、対峙する両軍のど真ん中に居座って戦を止めさせた剛胆な女性であった。それを考えれば仙台藩が女武者“別式”に理解が高いのも当然かもしれない。
お陰で虎緒の男装はさほど奇異の目では見られなかった。
切り捨て御免の許可証“御免状”を認められたのもこの頃である。