異界の娘
「カズ、昼間どこさ行ってた?」
虎緒は夕飯を口にしながら一明に訊いた。
左手で匙を扱いながらの食事である。
「ん……外出はしていないよ」
「そうなのか?符を書いてたなと思ったらどっか消えッたからよ」
「あぁ……あちこち見て回ってたんだ」
一明は考え事をしているらしく、時折箸が止まる。虎緒との会話も上の空だった。
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一明が足を踏み入れた蔵の中は、異世界であった。
よく磨かれた廊下が続く。等間隔に柱が列び、そこから見える庭は湖西の寺のものとは趣が違っている。
廊下に面した部屋は障子や襖ではなく御簾が垂らされていた。
香の匂いが微かに漂う。
屋敷の造りは明らかに現代のものでは無い。平安期のものに似ている。しかし廊下や柱などを見ると新築と呼べる色合いだ。
(……雨戸の溝が見当たらないな)
自然災害の多い日ノ本で、雨戸をはめる溝が無い。これは異常だ。少々の雨風にすら対応出来無いだろう。
おそらくここは何処にも存在していない屋敷なのだ。
無人の廊下を少し進むと御簾の向こうに気配を感じた。
脚の高い灯明と人影が御簾越しにうかがえる。
一明は静かに御簾を潜った。
「あぁ!……旦那様、お帰りなさいませ」
人影は一明の姿を認めると驚き、すぐに嬉しげな声で深々と頭を下げる。
「お帰りになるのを一日千秋の思いでお待ちいたしておりました」
そう云うと一明の顔を仰ぎ見て涙を流す。
若い娘だ。艶のある長い黒髪、重ねた単……
「……『旦那様』?」
「さ、こちらへお座りを。ただいま酒肴をご用意いたします」
す、と娘は立ち上がり、今腰を下ろしていた御座を勧める。
そうして奥の部屋へと消えていった。
取り敢えず御座に腰を下ろし、一明は部屋の有り様を観察する。
広い板の間。一明が座っている所にだけ畳が敷かれていた。
(平安の頃には畳は高級品で、貴族の屋敷でも座る場所などにのみ敷かれていたというが)
まさしくその様な造りである。見上げれば天井板なども無い。部屋は御簾と屏風で区切られている。
娘の態度を考えると、貴族の通い婚を連想させる。通う男の足が途絶えた家の様だ。
しかし……と一明は思う。
娘が『妻』であるなら、通う男の足が遠退くにはずいぶん早い。彼女は虎緒とさして歳は違わないだろう。
「お待たせいたしました。さ、今宵はゆるりと」
膳を運んできた娘が盃を勧める。
(黄泉戸喫、という訳でも無さそうだな)
飲み食いをしたら帰れない、というものでは無いらしい。
一明は盃を受け取る前に狩衣の袖のなかで印を組んだ。
「……そうか」
自分の狩衣姿に目を向け、得心する。
「どうかなさいましたか?」
「いや」
盃に注がれる酒の匂いを嗅ぎながら、一明はこの娘の不憫を感じた。
「旦那様……私にいたらぬところが御座いましたなら、直しますから」
切なそうな娘の願いに、一明は無言で頷く。
盃に注がれた酒は匂いはするが、味が無かった。





