6
「――タケル」
なかなか飲み込めずにいるタケルの頬を、人魚の手が包み込んだ。
ふっくらとした、桜色の唇が、自分の唇に重なる。海で溺れたときのように、するりと舌が忍び込んでくる。
あの時は、それでタケルに空気を送ってくれたのだ。けれど今回の彼女は、その濡れた舌で、タケルの口内をかき回していた。唾液と鱗が混じって、音が鳴る。それを荒れた海がかき消していた。
人魚の舌の動きに翻弄されて、タケルは腰が抜けそうになる。息もろくにできないはずなのに、苦しくない。遠慮がちに舌を絡めると、人魚は抱きしめる力を強くした。
そして長い口付けが終わるころ、人魚ののどが、ごくりと鳴った。
「……にんぎょ」
ほうけた表情をするタケルに、人魚は鱗がついて虹色に光る舌を、ぺろりと出してみた。
「やっぱり、やめた」
そしてそのまま、タケルに背を向けた。
「――人魚!」
彼女は、海に消えた。
優雅に光る虹色の尾びれが、一瞬、水面に現れる。そのしぶきが、タケルの顔にかかる。
タケルは呆然と、二本の脚で、岩場に立ち尽くしていた。
○○○○
自分は溺れ死ぬことができない。
それに気づいたのは、台風が過ぎ去り、海が静けさを取り戻したときだった。
台風一過、とてもいい天気。降りそそぐ太陽の下、タケルは海の底へと泳いでいた。
「――人魚!」
彼女は海の底の、やわらかな砂の上で、ぼんやりと寝転んで空をながめていた。
「……あ、タケルだ」
「これ、どういうことだよ!」
タケルは海の中で、そう叫んだ。
口から、空気が漏れる。肺の空気が少なくなっていく。息を吐いて、空気のかわりに、思いっきり海水を吸い込む。
けれど、苦しくない。
「俺、どうなったんだ……?」
なぜ自分はこうも簡単に、海の中を泳いでいるのか。息が苦しくないのか。そして、やたら魚たちの視線が気になるのはなぜか。声のようなものが聞こえてくるのはなぜなのか。
「なぁ、人魚、聞いてるか?」
「んー?」
彼女は、いつもの人魚だった。無口で、眠たそうで、アパートにいた頃のように、ぼんやりと海から空を見上げていた。
「これは、どういうことなんだよ」
「うん……」
やはり、口数が少ない。タケルは海の底に降り立ち、海草を毛布のようにくるまる人魚の肩をつかんだ。
乳房が丸出しだ。それにすこし、動揺する。
「あの時、鱗を全部かきだしたつもりだったんだけど……残ってたみたい」
「みたいって……」
「大丈夫、完全な人魚になったわけじゃないから」
もういいでしょ。寝かせてよ。そんなそぶりで、人魚は瞳を閉じた。
「おい、寝るなよ。なんで人魚にしてくれなかったんだよ」
あれから、タケルはずっと、人魚のことを考えていた。どうして自分を連れて行ってくれなかったのか。あの時なぜ、自分から鱗を奪っていってしまったのか。
「だって、タケルにはまだ早いと思ったんだもの」
「……早い?」
「タケル、口で言うわりに、まだ未練があるでしょう。家族のこと気にしてる。人魚になるなら、全部にけりをつけたほうがいいと思ったの。長生きすることになるんだし」
ちらりと、彼女が片目を開く。その見透かすような視線。陸上ではなかったその表情に、タケルは反論の言葉を封じられてしまった。
「時間はたっぷりあるわ。その鱗がタケルから消えてしまうのにも、まだ時間がある。消えてしまう頃に、タケルが人間でいたいと思ったらそのまま人間になればいいと思うし、人魚になりたいと思うのなら、今度こそ本当に、あたしが人魚にしてあげる」
「……それって、いつまで?」
「ずーっと、ずっと。たぶん、タケルの気持ちが決まるころ」
ふわあ、とあくびをして、彼女はタケルに手を伸ばした。
「いくらでも、遊びにきて。私はここにいるから。辛いことがあったら泣きにきて。うれしいことがあったら話にきて。でも、自分の世界に、背を向けたりしないで」
「背を……?」
「逃げないで。すべてを決めて、考え抜いて、満足してからここにきて」
「でも……」
「大丈夫よ。考える時間はたっぷりあるから。その間に、いろんなものを見て、タケルなりにいろんなことを感じてみて」
タケルは表情を曇らせる。それじゃあ人魚はなぜ、自分をこんな状態にしたのだろう。
「こうしたらタケルは、溺れ死のうなんて思わないでしょう?」
人魚は、ふふ、と笑った。その笑みは、あのあどけなさなど感じさせない、すべてを悟った笑みだった。
「人魚……」
「その人魚って呼び方も、今日で終わり」
彼女は、タケルの耳元に、唇を寄せた。
「私の名前は――」
END