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人魚が、空に向かって大きく手を広げた。
吹き付ける風、雨、海のうねり。防波堤に打ちつける波の、太鼓にも似たしぶきの音。
タケルは懸命に、人魚の背中を追っていた。
虹色の雨が降っている。細かく砕け散ったあの鱗が、海を渡り空に舞い上がり、こうして雨となって――台風となって、戻ってきた。
「人魚……!」
荒れ狂う海にひるみもせず、沖へ沖へと泳いでゆく人魚。砂浜も岩場も、海が飲み込んでしまっていた。彼女を追うタケルは、かろうじて岩に足が届くものの、胸までしっかりと海につかってしまっていた。
「人魚!」
タケルがどんなに呼びかけても、彼女は聞こえないのか、先にすすむばかりだ。虹色の雨に打たれて、着ていたシャツを脱ぎ、裸になった。そして海に溶け込んでゆく雨を、自分の体にしみこませてゆく。
彼女がひとつ、海を泳ぐにつれ、虹色が身体にまとわりついてゆく。むき出しの脚に鱗の破片が絡み、少しずつ、豊かなひれの形をつくってゆく。
「にんぎょ……」
しけた海にもまれながら、タケルはこれ以上先にすすむことがどれだけ危険かを感じていた。けれど決してここから去るまいと、たくさんの海水を飲みながらも心に決めていた。
大きな波に、身体をさらわれる。またあのときのように、海に飲み込まれそうになる。恐怖は感じない。けれど、人魚を見失うのが怖かった。
「――タケル」
流されそうになったのを助けたのは、やはり彼女だった。
その姿はまだ、人間だった。けれど、とても曖昧だ。人魚に抱きしめられて、タケルもまた、虹色の雨に打たれていた。
「危ないから、戻って」
「……いやだ」
タケルがしがみつくと、人魚は困ったように首をすくめた。
「行かないで、人魚」
「タケル……」
彼女に鱗が戻るまで。それだけの関係だと思っていたのに。
「行かないで。一緒にいて」
ひとりにしないで。
自分から望んでひとりになったはずなのに。なぜいまさら自分は、こんなにも彼女にしがみついているのだろう。
「ずっと、あのアパートで一緒に暮らそう。こうやってたまに海につかれば、きっと人魚も干からびたりしないから」
「それはたぶん……無理だと思う」
まるで赤子をあやすように、人魚はタケルの背を叩いた。
「私は人魚で、タケルは人間。私は、人間にはなれない。タケルが人魚にはなれるけど」
「じゃあ俺が人魚になる」
その会話は、ごく自然なものだった。人魚は人間になれないけど、人間は人魚になれるらしい。それを知って、タケルは迷わずうなずいていた。
「俺も人魚になる。一緒に連れて行って」
「……どうして?」
「人魚と一緒にいたいんだ」
「タケルには家族がいるじゃない」
「それは――」
言葉が出なくて、まるで駄々をこねるように、タケルは人魚の胸に顔をうずめた。
「どうしても、人魚になりたい? 私と一緒に、行きたい?」
「行きたい」
力強くうなずいたタケルに、人魚は手のひらで、波をそっとすくいあげた。
その手のひらには、海の水がたまっていた。虹色の雨が降りそそぎ、人魚の鱗が混じった水を、そっとタケルの口元へとさしだした。
「飲んで。飲んだら、人魚になれるから」
タケルは言われるままに、うやうやしく、手のひらの杯を、唇へと運んだ。
海の水は、塩辛かった。舌の上でじゃりじゃりと転がる鱗は、やけに甘い。味覚がおかしくなりそうで、舌がびりびりする。
鱗が体温で溶けて、やたら舌にまとわりつく。飲み込みづらい。タケルは口の中で、鱗を何度も往復させた。
ふと、頭にアパートのことが浮かぶ。そういえば、人魚になるならここを引き払わなければ。大家さんに挨拶しておくべきだろうか。
いや、失踪するのだし、自殺するも同然だ。なにもいらないだろう。どうせ家族も、自分がいなくなっても気にも留めない。
妹たちは元気だろうか。そういえば自分は、妹たちをあまり可愛がってあげられなかった。