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それはもう、過去のこと。わかっているはずなのに忘れられず、タケルは親から距離をとるようになっていた。だから両親もそれを察して、タケルが家から離れたいと言ったときもただ、黙って許可するだけだった。
「家族がいるのに、どうして……?」
「だめなんだ。一緒にいると、怖くて、身体がすくむんだ」
自分はあの頃と違う。身体も大きくなった。今もし、昔と同じようなことをされても、抵抗することができるはず。そうわかっているけど、いざ親を目の前にすると、だめだった。
「小さい頃のことを考えると、抱きしめられたことよりも、煙草を押し付けられたことのほうが先にでてくるんだ」
人魚の視線が、傷跡を追うように、わき腹へと動いていく。タケルはそれに気づかないふりをして、そっと彼女の髪に触れた。
今、ひとり暮らしをしている。その費用はすべて、両親が持っている。そう考えたら自分はまだ恵まれているのかと思うけど、いや、そもそも家族とは一緒に住むべきはずなのに。とにかく自分は、生きることには苦労していなかった。
このアパートに決めた大きな理由は、海が見えることだった。道路をひとつ挟んだら、すぐに防波堤、海。台風が来たらすぐに避難勧告が出る。けれど家に残っていても、誰も声をかけにこないのがとても気に入っている。
「タケルは……私が海に戻れたら、またこの海に飛び込むつもりなんでしょう?」
「……たぶんな」
「どうして?」
「それは……」
うまく、言葉に表すことができない。自分は海で砂になるほうがいい。言うのは簡単だけど、きっと彼女は納得してくれない。
「お父さんやお母さんに、うまく愛してもらえなかったから?」
「それはもう、昔の話」
「じゃあ、どうして?」
うまく言葉が出てこなくて、タケルは苦笑するしかなかった。
「……ひとりだから、かな」
自分には家族がいる。そうわかっていても、心の中では自分はひとりだと思ってしまう。家族は自分のことなんて気にしていない。だから、自分はひとり。そう、思ってしまう。
そう説明するタケルに、人魚はため息をついて、手を離した。
「私は、ずっと、ひとりだったよ」
「そうなのか?」
初耳だった。そもそも、人魚とこういった類の話をするのは始めてだったのだ。
「小さいときは、みんなと一緒にいたんだけどね。はぐれて、ひとりになっちゃったの……言っとくけど、私はタケルよりもうんと年上なんだからね」
やはり海は、竜宮城のように、時間の流れがゆっくりしているらしい。
「ひとりで、いろんなところに行ったよ。いろんなものを見たよ。でも、ずっとひとりだったなぁ」
ふいに、人魚が起き上がった。そしてタケルのひざに手を乗せ、息がかかるほどに顔を近づけてきた。
「人魚は、ずっとひとりだったのか?」
「そう言ったじゃない」
「ひとりでいる間、どうだった?」
「どう……?」
タケルの問いに、人魚は眉根を寄せてみせた。どうやらすこし、難しかったらしい。
とろりとした瞳。やはり彼女は酔っている。けれどその吐息からは酒の匂いも、牛乳の匂いもしなかった。あるのは磯の香りだった。
「あの世界は広くて、豊かで、私ひとりには広すぎたわ」
「……戻りたい?」
「戻らないと、生きていけない」
いくら人の姿をしているとはいえ、彼女は人魚だ。一日の大半を、洗面器の中に足を浸して過ごしている。風呂の時間はとても長い。食べられるものも少ない。いくら肺で呼吸ができたとしても、やはりたまに苦しそうにあえいでいる。
「きっとこのまま、鱗が戻らなかったら、私は干からびて死んでしまうんだろうね」
ふふ、と彼女は笑った。
「タケルが望む姿になれるね」
彼女は、皮肉でもなく、ただ自分の考えを呟いただけだったのだろう。
「……人魚は、海に戻りたい?」
「戻りたいような、戻りたくないような」
「また、ひとりになるのが嫌なのか?」
「それも、あるといったらあるけどね」
曖昧にうなずいて、彼女は笑った。
「タケルを残していくのが、ちょっと心配」
窓が、大きく揺れる。風が悲鳴のような声をあげる。叩きつける雨。海が、唸りをあげている。
見つめあっていても、わかる。台風が来た。