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「ねーえ、タケル」
猫のように甘える声を出し、人魚がフローリングの上に横たわった。
「なんだ?」
呼びかけられたから返事をしたというのに、人魚は何も言わなかった。洗面器から足を出すと、つま先から水が滴る。洗面器の中身は、塩水ではなく、ただの水道水だった。
尾びれを失った彼女に残ったものは、人間の脚。そのつま先の、貝殻のように小さな爪は、あの鱗の名残なのか虹色に光っている。
「ねぇえ、タケル」
「だから、なんだってば」
ごろごろと身体を動かすしぐさは、人魚というより、猫や犬の小動物だ。その長い髪はさわるとやわらかく、風呂に入ってもなお、潮の香りを漂わせていた。
床と頬の間に手を入れて、人魚は上目遣いにタケルを見上げる。吸い込まれそうな瞳に、タケルの身体が意図せずに近づいてゆく。
「ねぇ、タケル」
「だから……」
なんだよ、と言いかけて、タケルは言葉を切った。彼女の細い指が、唇にあてられてさえぎったからだ。
人魚は瞳を閉じ、歌うように唇を開いた。
「どうして、タケルは、海に飛び込んだりしたの?」
○○
どうせ死ぬなら溺死がいい。
そんな考えを持つようになったのは、ずいぶん前からのことだった。
人魚は、タケルがなぜ学校にいっていないのかを訊いてきたりはしなかった。タケルが高校を休学しているのを知っているのか、いや、学校についての仕組みをあまり知らないのかもしれない。働きもせずにひとり暮らしをするその資金源がどこにあるのかも、まったく気にしていなかった。
風呂あがりのタケルの身体を見て、その身体に転々とはびこる、消えることのないやけどの痕を見ても、ただ指で撫でるだけで何も言ってこなかった。その痕を隠すために、暑くても長袖のシャツを着込む姿には、ただ悲しそうに眉をひそめるだけだった。
「タケルは溺れていたとき、苦しかった?」
人魚はタケルの手首をとりながら、そう尋ねてきた。
「苦しかったよ」
高波にさらわれるのと、自分から飛び込んだのと、はたしてどちらが早かっただろう。
荒れ狂う波にもまれて、身体の中の空気をすべて海に吸いだされて、もがくこともなくされるがままになる自分に、これでいいのだという心があった。
死ぬなら溺死がいい。プールは嫌だ。川もあまり好ましくない。望むは、海だ。
海に流され、命尽き果て、朽ちゆく身体はこの海になってしまえばいい。肉は魚や貝のえさになり、骨には海草が根をはればいい。
死体の捜索なんていらない。最後には海の砂になりたい。腐敗した肉が残った状態で、海から上げれば身体がばらばらになるような、そんな醜い姿にはなりたくなかった。
誰にも気づかれずに死にたい。
肉が腐り、骨になり、それも砂になった頃。タケルという名の自分は、この世の中から完全に消えてしまえるから。
大丈夫。自分が失踪したとしても、誰もそれに気づいたりしない。
海に落ちたりしても、それを探してくれる人なんて誰もいないから。
「……どうして人魚は、俺を助けようとしたんだ?」
海の中。朦朧とした意識の中。自分を抱きかかえ、息を与えてくれた彼女の姿だけは、今もはっきりと覚えている。
あのまま死なせてくれればよかったのに。どうせ誰も、自分のことなんて気にしないのだから。
あいかわらずタケルの腕を握ったままの人魚は、タケルではなく、その引きつった傷跡に向かって話しかけているようだった。
「だって……タケルが死んだら、悲しむ人がいるでしょう?」
「そんなの、いないさ」
吐き捨てるようなタケルの言葉に、人魚は一瞬、おびえたように身体をこわばらせた。
「……タケルには、家族がいないの?」
「いるよ。ちゃんと血のつながった父と母と、年の離れたかわいい妹が二人」
いるけれど、いない。自分に近しい人たちであるはずなのに、タケルはその人たちを拒んでいた。
両親は、妹たちと同様に、自分にもたくさんの愛情を注いでくれた。でも今まさに妹たちが受け取る愛と、自分がその年頃のときに受け取っていた愛は、まったくの別物だった。