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人魚と暮らすようになって一月がすぎた。
自分と同じ、十六、七の年頃の女の子と二人暮らしをするなんてどうかと思うけど、彼女は他に行くところがないし、陸上生活をすることになったのはもとはといえばタケルのせいなのだ。
先月、タケルは海でおぼれた。
台風が来て危ないから、海岸に住む人は注意しろと言われていた。でもタケルは、暴風雨の中外に出て、アパートのまん前にある防波堤の上に立っていた。そうしたら高波が来て、タケルは抵抗する間もなく、荒れ狂う海に飲みこまれたのだ。
この海は岩場が多く、波の流れも勢いも激しい場所で、岩に頭をぶつけて気が遠のいたと思ったら、いつの間にか深みの底に転がっていた。頭を切ったらしく、血が視界の端を漂っている。タケルは海の底にいるのにさして苦しいとも思わず、ただ冷静に自分のおかれている状況について考えていた。
海の底は案外静かで、海面近くで荒れ狂う、波の騒々しさを客観的に眺めることができる。閉じこもる自分の部屋以外にも、こんなに静かなところがあるとは知らなかった。
頭をぶつけたせいなのか、身体が思うように動かない。息はとっくに尽きていて、肺に流れ込む海水に、溺死、という言葉が頭に浮かんだ。
そしてタケルがそれを受け入れようとしたとき、人魚が現れたのだ。
豊かに波打つ髪を海いっぱいに広げて、一糸まとわぬ身体は抜けるほど白くて、虹色に輝く尾びれで力強く泳ぎ、あっという間にタケルに空気を与え、海面へと連れて行った。
人魚は何も言わず、ただ一心に、タケルを助けるためだけに浜へと泳いだ。海の底と違って、海面はそれこそ本当に雨嵐で、高い波を巧みにかわしながら彼女は浅瀬までたどり着いた。自力で防波堤に登ったタケルを確認して、再び海に戻ろうとして、そこで彼女は自分の身体の異変に気づいたのだ。
人魚は尾びれに傷をつけていた。
傷口を波が撫でたとき、鱗がはがれた。一枚はがれると、もう止まらなくて、あっという間に人魚は、虹色の下半身を失い、残ったのは人間と同じ二本の脚だった。
艶と光沢と、虹色の輝きを持っていた鱗はもろく崩れ、波にさらわれ、しぶきとともに空に舞った。
そのときの人魚の泣き出しそうな顔は、今でも忘れられない。
こうしてタケルは、人魚とともに、暮らすことになったのだ。
「――なぁ、人魚」
彼女は基本、無口だった。人間の言葉を知らないわけではなく、むしろ彼女は他の国の言葉も知っているようだった。ただ単に恥ずかしがりやなだけで、質問をすればちゃんと答えてくれるのだ。
ただ、名前だけは、わからない。何度か教えてもらったのだけど、それは人魚の言葉なのか、人間の言葉にはうまく置き換えられない。勝手に名前を付けるのもはばかられて、タケルはそのまま、人魚、と呼んでいた。
「人魚ってば」
「なーによぅ」
だらんと伸びた語尾とともに、ひっく、としゃっくりが聞こえた。
「飲もうって言ったのはタケルじゃない」
人魚にとって、酒は牛乳なのだろうか。彼女は、コップ一杯の低脂肪牛乳で見事に酔っ払っていた。
ふたりで、ベランダの窓の前に座り、次第に強くなってくる雨を眺める。それぞれ手に持つガラスのコップには、牛乳。床に直接、牛乳パックと麦茶の瓶が置いてある。
ほんのりと頬を染める人魚は、水をはった洗面器に足を突っ込んでいた。
「おかわりちょうだい、おかわり」
ぐびっと残りを飲み干し、彼女は白く濁ったコップを差し出してくる。その鼻の下には白いひげができていて、手首でぬぐう姿は女子にあるまじき行為。けれど、かわいい。
「タケルも、もっと飲んでよぉ」
「俺は飲みすぎると腹壊すんだ」
二杯目の牛乳を渡し、タケルは麦茶に切り替えた。
すっかり出来上がっている人魚は、身体をゆらゆらと動かし、上機嫌に歌をうたっていた。人魚の歌なのかと思ったが、どうやら英語のようだ。何の歌かはわからないものの、賛美歌のようなものではと推測する。
人魚の言うとおり、天候は少しずつ悪くなってきたようだ。時折、風が鳴いている。白波をたてる海は、初めて彼女に出会った海を連想させた。