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雨の日がくるたびに、人魚はじっと、空を見上げていた。
「……人魚、腹減らないか?」
そう呼びかけるタケルたち人間と同じ、二本の脚を抱えて、腰まで届く漆黒の髪を床にたらして。青とも緑ともつかない瞳はたえず、雨雲を見つめている。
古くて狭くて汚いこのアパートは、家賃が安いことと、ベランダから海が見えるのが自慢だった。
「聞いてるか? 朝飯食べてないだろ?」
着丈の長いTシャツをワンピースのかわりにして、彼女は膝を抱えたまま、ころんと横になる。いぜん瞳は空を見たまま。呼びかけを無視するその背中を、タケルはつま先で軽く小突いた。
「おにぎりつくったから、とりあえず食おうぜ。腹減っただろ?」
おーい、と、わき腹をくすぐってみる。彼女の弱点はわき腹で、そこをくすぐればいつも逃げようとする。今日の人魚はたいした抵抗もなく、起き上がってタケルを見上げた。
「……おなか、へった」
「だから飯食おうってば」
口数は少ないが、声は可愛い。空いた隣に座って、皿を置くと、人魚はすぐにとびついた。ただの握り飯にがっつくところを見ると、そうとう我慢していたのだろう。
「しょっぱくないか?」
「……すっぱい」
「それは梅干し」
さすがに人魚に鮭やタラコを食べさせるわけにはいかない。目尻と唇をしわしわにしても綺麗な顔立ちをした彼女に、タケルは麦茶を差し出した。
「他に具、ないんだ。塩むすびよりマシかと思ったけど、いやだったか?」
「大丈夫」
でも顔はすっぱそうだ。
男の大きな手でつくったから、おにぎりも大きい。そして形が悪い。それをぺろりとたいらげて二つ目に手を伸ばす人魚は、タケルに負けず劣らずの大食いだった。
食事をしているときでも、彼女は空を見続けている。まだあどけなさの残る横顔が、すっぱそうででも悲しそうで、見つめているとふいにこちらを向いたのでどきりとした。
「タケル、台風が来たね」
人魚はそう言うが、空を見るかぎりまだ激しい雨は降っていない。しとしとと雨音がして、夏だというのに肌寒い。しっかり服を着込むタケルとは正反対に薄着の人魚は、空から視線を外し、顔を出した梅干にびくびくしながらもおにぎりをかじった。
「今日、上陸するってテレビでやってたんだけどな……なんか、温帯低気圧になった気がする」
「ううん、これから、荒れるよ」
人魚の天気予報は百発百中で、雨が降るといえば降り、やむといえばやむ。だから今日はこれから荒れるのだろう。
「今日も、だめかな」
「最初からあきらめるなって。もしかしたら、台風と一緒に来るかもしれない」
ネガティブになるなよ、と頭を撫でても、人魚は唇をとがらせたままだった。
こんなぼろアパートでは、いつか雨風に耐え切れずに窓ガラスが割れてしまう。だから台風にはこのまま温帯低気圧に変わってほしいけど、そんなことは口が裂けても言ってはいけない。タケルはいじける人魚のほっぺをつつき、目が合うとにこっと笑ってみせた。
「久しぶりに一杯やるか」
人魚が饒舌になる方法を知っておくと、こういうとき便利だった。