入ってません。
トイレのドアをノックする。ただそれだけ。
ケンヂたちの間で今流行っている遊びだった。
コンコン。
コンコン。
反応を確認して、くすくすと笑い合うケンヂと悪友たち。
悪ノリし始めると、「うわーくっせー」などと囃すやつも出て来る。ケンヂは自ら囃したてるタイプではなかったが、一緒になってゲラゲラ笑ったりはした。
ただ、囃したてるのが面白いだけなので、気まずそうな顔で出て来た級友と顔を合わせても、更にからかうようなことはしない。というか、ドアの鍵が開く音がした途端に逃げだすところまでがセットだった。
担任の野沢先生に叱られることもあるが、やめられない。
他愛もない悪ふざけだ。
その日は朝から重苦しい暗い雲がいつまでも漂う月曜日だった。雨が降りそうで降らない、こんな天気の時には、小学生といえどもユウウツになる。
「ケンヂぃ、次の休み時間、トイレ行こうぜぇ」と、ヤスオがニヤニヤする。
当然だが、女子たちのように連れ立ってトイレに行くわけではない。いつものように、トイレのドアをノックする遊びをやろう、という意味だった。
「おっけー。今日はサッカーもできなさそうだしなぁ」と、ケンヂは窓の外を眺める。
まだ雨は落ちていないが、降りそうな気配がする時には、誘っても外に出たがらない『なん弱者』がこのクラスには多いのだ。
空気はじっとり湿って半袖の肌には時折寒くも感じる。雨の日特有の生臭さもどこかから漂っているようにも思う。
こんな日のトイレは、壁が結露しそうなほど湿り気を帯びる。
北向きの小さな窓しかない二階の端の男子トイレ。
基本的に昼間は消灯されているため、今日のような天気の日には、薄暗くてどこか不気味だった。
コンコン。
コンコン。
反応が返って来た。くすくすとケンヂたちは満足げに笑う。
「次」
コンコン。
「……ちっ」
ノック係のタカムラが舌打ちする。
コンコン。
「……今日は少ないな」と、ヤスオがつぶやく。
「花子さんって、男子トイレにも出るのかな……」
唐突に、ウシが怯えたようにつぶやいた。
「ばぁっか。何言ってんだよウシ」
「お前、そんなんだからウシって呼ばれんだよ」
途端に、ケンヂたちは口々に文句をたれた。
ウシはケンヂたちの中では図体がでかいが、動きが緩慢で怖がりだ。
本名はクシダだったが、牛のようだと誰かが言い出してあだ名が『ウシダ』になり、そのうち『ウシ』と短縮された。
「だって、こんな天気の日はさぁ……」とウシは窓の外を見ながら情けない声でこたえた。
「じゃあ次、ウシがノック係な!」
タカムラが顔を上気させて宣言した。
「えぇ~?」と言いながらも、ウシは次のドアをノックする。
コンコン。
コンコン。
「こいつら、いつ出て来るんだろう?」
時々、水を流す音やカラカラとトイレットペーパーを引き出す音も聞こえるが、大抵はケンヂたちが飽きて出て行くのを待っているやつの方が多い。
コンコン。
「今日は少ねえなぁ」と、ヤスオがつまらなさそうに腕を伸ばした。
「次で最後にしようぜ。ウシ、どっかてきとーに選んでみろよ」
ケンヂは悪友たちの顔を眺め渡しながら言う。
「わかった……じゃあ」と、ウシはどのドアをノックするか少し悩み、入口側から三番目のドアをノックした。
コンコン。
はぁ、とため息をついたのはヤスオか、タカムラか。
「これで終わ――」
「――入ってません」
「ひぇっ?」
ウシの巨体が飛び上がった。
「おい、誰だよ。ふざけんなよ」とタカムラが引きつった顔で笑う。
「ウシ、もっぺんノックしろ」
「嫌だよ。俺こわいよ」
ウシはいつもの様子から想像できない速さで、タカムラの後ろに逃げ込む。
「ちょ、おま、あぶねえよ」
「じゃあ俺がやる」
ケンヂは一歩前に出て鼻息を荒くした。
ドアを睨みながらノックする。
コンコン。
「入ってません」
「おい……」と、ヤスオ。
「やめようよ、ねえ」と、ウシ。
男子の声にしては高めのような気がする。
でも、わざと声を変えているのかも知れない……ケンヂはドキドキする心臓を押さえながらもう一度ノックした。
コンコン。
「入ってません」
その時、一番奥の個室から勢いよく水音が聞こえ、ケンヂたちは揃って飛び上がった。
諦めたような表情で出て来たのは、違う学年の生徒だった。
「……あぁ、びっくりした」と、ウシがつぶやく。
それにつられたように、ノックが返って来たもうひとつのドアと、列の真ん中付近のドアがほぼ同時に開く。
ノックをしなかったドアからは隣のクラスのノダが出て来たが、気まずいというより怯えたような表情だった。
「ケンヂさぁ……もうやめた方がいいんじゃないか?」
ノダは洗った手を振りながらそう言うと、そのままトイレを足早に出て行った。
「もうやめようぜ」と、タカムラも言う。
「もう一回だけ……それで帰ろうぜ」と、ケンヂは震える声で宣言した。
小さな窓から、生臭い風が流れて来る。
雨が降り始めたらしい。
コンコン。
「入ってません」
「おいてめえ、っざけんなよ!」
恐怖を振り払うように、ヤスオが怒鳴る。だがその声は裏返った。
「開けてみようぜ」と、ケンヂも引きつった笑顔を作ってみせる。
「やめようよぅ……」とウシ。
「大丈夫だよ。どうせ鍵掛けてんだろ」と、タカムラ。
「まぁ、そんなとこだろうけどな――」
ケンヂは強がりの笑顔を見せながらドアノブに手を掛けた。
カチャ
「……え」
ドアはやすやすと開き、中には誰も入っていない。
ぽっかりと口を開けた便器がこちらを見ているだけだ。
「おい。隠れてんのか?」
洋式トイレの個室はドアが外開きになる。陰に隠れられそうな場所なんて、ドアの脇の細い板くらいしかない。
「いねえよなぁ?」
ドアノブを持ったまま、ケンヂは首をひねる。
「もう帰ろうよ」と、ウシ。
「お前、ちょっと中入って確かめて来いよ」
タカムラがニヤニヤしながらウシを押し出した。
「俺イヤだよ。怖いよ。やだってば」
半べそをかいてわめいているウシの巨体を、面白がって――実際は怖いのを誤魔化して――ケンヂたち三人で個室に押し込む。
「どうだぁウシ! なんかいたかぁ?」と、ドアを閉め、タカムラが個室に向かって叫ぶ。
だが、ドアを閉めた途端にウシのわめき声はぴたりと止んでしまった。
「……ウシ?」
「怖すぎてもらしてんじゃね?」
「おーい? ウシ?」と、ケンヂは声を掛けながらノックした。
「入ってません」
ウシの震える声がこたえた。