第14話 ◇女王と蛇王-エピローグ
アルキスが契り葉の弦を使った一射六矢の弓術を体得した頃。
カエデは一人、"戴罪の蛇"ペルネコアと対峙していた。
いやに艶のある黒い鱗と、空気に触れるだけで紫煙を上げる血色の舌。
直径は五メートルほど、全長にして三百メートルを超す総身は緊と世界樹の枝に巻き付き、ゆるやかにカエデを目指し蠢いている。
「くっくっく。不足はないのう。いや、不足がなければ蛇足になってしまうのかのう? くっくっく。――まあどちらでもよいか」
金色の双眸は、カエデを見ている。
カエデもまた、ペルネコアを見ている。
橙と金。
二つの視線は交錯していた。
蛇は悠然とカエデへ向かう。
まだ口は、開いていない。
幼女は泰然とペルネコアを待つ。
まだ武器はとっていない。
――だが口は動いている。
「罪ときて、蛇とくれば、奇跡のほうが効くかのう。『いと見えがたき赤の指』。……と、もう一つおまけじゃ。『いと見えがたき紫の指』」
太陽神の加護から持ち出された二種の奇跡を放ってなお、カエデは微動だにしなかった。
彼女自身にとっては、不可視無害の光線でしかないからだ。
しかしペルネコアは違う。
カエデの使った奇跡のうち、前者――『いと見えがたき赤の指』にのみ、明らかな反応を示していた。
「ふむ。赤外線にだけ反応したか。……蛇だのう。蛇退治に使うてやるのは勿体ないが、まずは一手」
懐から取り出した紙切れが宙を舞う。
彼我の距離は百と数十メートル。
まだ『斬り徹し』は届かない。
しかし紙に刻まれた紋様のような文字が、淡い金光を発して輝いた。
「ええっと……なんじゃったかの。…………そうそう。庚顕・霊廟――壱之室『玄室』」
そのまま地面まで舞い落ちそうになっていた霊札たちが突如、役割を思い出したかのように軌道を描いてカエデのもとへ集まっていく。
儀霊『玄室』は、すべての儀霊使いが修める術である。
基本的には立方体状の結界を作り出すだけのものであるが、持ち主の技量次第で形は自在に変えられる。
――迷宮都市の突発迷宮でシズカが、結界階段を作っていたように。
「さて。これでこちらの準備はできたかの」
カエデが作り出したのは、結界製の剣だった。
これは刃術師がよく使う手だ。
なにせ紙と空気でできているから重量もないし、結界の形状さえ失敗しなければ問題なく『斬り徹し』も使える。
難点は初歩の結界術では強度に不安があるというところだが、そも鍔迫り合いの起こらない刃術師には関係のないことだ。
「SHLLLLL……」
ピット器官ともう一つ、魔力を感知する器官を働かせてペルネコアは速度を落とす。
人間が魔力を操ると何かしらの攻撃を仕掛けてくることが多いのだと、動物の性質を色濃く持つこの蛇は学習していた。
小さな熱源――人肌で温まった霊札が舞い、剣の形になった。
その間を糸のように魔力が走ったのを、既にペルネコアは知覚している。
だが。
目と鼻の先まで迫った小さな人類が一体何をしようとしているのかまでは、理解していなかった。
詠唱が響く。
「――『よにめくるめく白の掌』、遅停」
詠唱が響く。
「――『炎鷹征覇斬』、遅停」
詠唱が響く。
「――『いと真白けき光闢の雨』、遅停」
詠唱が響く。
「――『蒼狼魔群弾』、遅停」
さらに詠唱が――響かない。
代わりに霊札がもう一度、宙を舞った。
「丙顕・壬隠、陳びて俱廟――終之室『火天斉垂』、遅停っと。こんなところじゃな」
荒くなりかけた息を整えて、カエデはそれ以上の詠唱を行なわなかった。
「SHL……」
距離は百メートルを切っている。
もう一つ詠唱を続けようとしていれば、その隙をペルネコアは見逃さなかっただろう。
そして呼吸の乱れたカエデは、運良く挽回できなければ死んでいた。
――しかしそれは、ただの有り得なかった未来に過ぎない。
幼女が嗤う。
蛇が嘲る。
カエデが魔法と奇跡と儀霊を並べて準備を整えたのと同じように、ペルネコアの口の隙間から立ち昇る紫煙――気化毒も量を増していた。
「くっくっく。七日分の鬱憤を、たっぷり晴らさせてもらうからの?」
「SHL――SHIGYAAAAA!!」
先に仕掛けたのは、ペルネコア。
カエデは動かない。
カエデは動かない。
カエデは動かない。
「……発動」
声と同時に、光が迸った。
太陽神の奇跡から生まれた白光は、カエデの思い描いた通りに赤外線を含み、同時に魔力を帯びている。
赤外線、魔力、目を焼くほどの白い光。
それはペルネコアの知覚を惑わすには充分だった。
まだ、カエデはその場を動いていない。
「……発動」
カエデの頭上、ちょうどペルネコアからは白光に阻まれて見えない位置に炎の鳥が生まれた。
炎の鳥は巧みに光の影から姿を現し、ペルネコアの鼻っ面を焼く。
遅停の奇跡は術者の決めたキーワードを使って術の発動を遅らせる奇跡だ。
奇跡を発動させる――術を遅延すること自体は単一のキーワードで行なえるが、奇跡を終了させるのには別々のものを設定できる。
たとえばカエデがそうしているように。
だが、もちろん同じものを設定することもできる。
「……発動」
白い光と青い炎。
二色数百の弾雨が尾を引いて、揺れるように捩れるように、撓むように渦巻くようにペルネコアへと降り注ぐ。
「――くふっ」
カエデの口から笑みがこぼれる。
初手の目くらまし。
次いで炎鳥による、痛みを伴う陽動。
本命は最後の二つだった。
「SHGYUUUAAAAA!! GYYYAAAAA!!」
ペルネコアの咆哮に苦悶が混じる。
白光の束に目を焼かれ、蒼炎の潮が舌を呑み込んだのだ。
そしてようやく、カエデが動く。
軽く蹴り出して身体を傾け、重力そのままにペルネコアへと加速する。
単純に視界を持つ目と、蛇における嗅覚たる舌を失った今、敵の知覚は熱と魔力のみ。
カエデはまだ最高の陽動を残している。
頭部とのすれ違いざま、牙を真っ二つに斬る。
胴とのすれ違いざま、心臓を狙う――だが身体が大き過ぎて致命傷には至らない。
「ちっ」
一度『玄室』をペルネコアの身体から引き抜き、カエデはそれを変形させた。
最初は細剣ほどの大きさだったものを、刃渡りだけで槍より長く。全長三メートルを超える剣身を垂直に、黒い鱗へと突き立てる。
――ペルネコアの胴体は直径五メートルほど。
このままカエデが一周すれば、いとも簡単に"戴罪の蛇"討伐は成――
「GYRUAAAAA!!」
「流石にそううまくはいかんか」
のたうつ蛇体から、跳躍して逃げる。
――せめて『玄室』をもっと大きく使える才幹があれば。
――あるいは大人ほどの体躯があれば。
この一手で決められて、いたのだろう。
遣る瀬ないような自ら戒めたくなるような、甘い逡巡を心の奥底に沈めて、再びペルネコアを見る。
満身創痍。
そんな形容が相応しい有り様だった。
しかし。
「GYYYYY!! SHAAAAA!!」
感覚器を焼かれ。牙を断たれ。一度は心の臓まで刃を差し込まれてなお、総身から血を流しながらペルネコアはまだ咆哮ていた。
諦めていない。
生きることをか。
勝つことをか。
未だ退くことなく、カエデを探すように鎌首をもたげている姿を見ればそれは自明だった。
「食いしん坊な奴だのう。少々焦げ臭い始末になるのは残念じゃが――これで終いじゃ。発動」
最後の遅停の奇跡が外されて、カエデの最高火力が解き放たれる。
『火天斉垂』。
人ほどの直径を持つ火球が無数に、勢い良くペルネコア目掛けて降り注ぐ。
その威力は単なる熱だけではない。
焼くだけではなく一撃一撃が、触れるたびに爆裂しペルネコアを仰け反らせるほどの衝撃を生み出している。
世界樹に焦げ目がつくほどの熱量と、直径五メートルという巨体を揺るがす爆発力。
「壮観だのう」
もはや術者本人すら近付けない状況になっている。
それを正面から受け止めている黒い輪郭が、炎の中に揺らめいている。
最後まで、ペルネコアは斃れなかった。
全身から黒煙を上げて、カエデが持つ最高の一撃を受け切り。
しかしそれ以上、前へ進むことはできなかった。
ペルネコアは動物の持つ本能として、僅かでも動けば身体が崩れ落ちると理解していた。
カエデも『火天斉垂』の手応えを感じ取り、もはや標的の命が尽きかけていることを知っていた。
「……よく耐え切ったのう。ならば餞は、妾の十八番にしてやろう」
二度、カエデは跳躍した。
長過ぎる刃で両側から『斬り徹し』を受けたペルネコアは、ぐらりと傾き――そして崩れるように世界樹の根元へと落ちていった。
◆◆◆
アレム・シャールの空から黒羽は消え去り、それらを生み出す大蛇も死んだ。
カエデとアルキスは臨時の傭兵生活を終え、村人たちから惜しまれながら世界樹を降りることになった。
「良かったのかのう? 連中、随分とお主に執心しておったようじゃが」
村を出る直前の求婚攻勢を思い出しながら、カエデが問いかける。
とはいえ当の本人が刃術師もびっくりの速度で申し出を切り捨てまくり、未婚の村人総出だったのではないかと思えるような長蛇の列を僅かな時間で処理したのを見ているため、まともな答えが返ってくるとは思っていなかったが。
「別にいいのよ。あたしの趣味じゃないし」
「ほう? ではどんなのが気分なんじゃろうか」
もちろんその問いも、まともな返事があると考えてしたものではなかった。
木登りもとい木降りに疲れて、慰みがてらに投じただけだ。
「そうねえ――」
思案するようなアルキスの声に、カエデは慌てて集中力を研ぐ。
なにせ現在、ちょうど雲と同じ高さを降っている最中である。娯楽があるなら耳を澄ませねばならない。
そしてきっと、不幸なことに。
契り葉の弦を手中に収めた達成感からか、求婚攻勢を捌き切った疲労感からか、アルキスは口が軽くなっていた。
「――泉の横で昼寝してるのが似合う人、とかどうかしら」
「……随分と具体的じゃの?」
さて。
下手な追及が災いして、カエデがアルキスと一緒に世界樹の葉で落下傘降下する羽目になったのはまた別のお話。
こうして二人は滞りなく、王宮都市への帰路を(半ば意図的に)急いだのだった。




