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刃の転界者  作者: 利々 利々
第三章 弓撃士は傾秤を準う
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第08話 ◇森界へ〈二〉:暗獄間道

「しかしどこへ行くつもりかの? 五耀(ペンタ・)武闘会(ガントレット)まで一ヶ月しかないのじゃ。あまり遠くまでは行けんぞ」


「普通なら、そうね」


 そこで初めて、アルキスは得意気ににやりと口端を持ち上げた。


 取り出したのは一本の短剣。

 地鬼(トロル)の剛皮すら貫く愛用の牙は、アルキスの柔らかな掌をいとも容易(たやす)く切り裂いた。

 流れる血が地面に落ちる。


 それは神子(みこ)の血。

 魔界に宿(しゅく)する暗獄の神に見()められた、巫女の純血。


 玉の肌を滑り、地面へ滴り落ちた雫はゆるやかに土の中を(うごめ)き、赤泥の紋様を描き出す。


(わらわ)には突然お(ぬし)が自傷行為を始めたようにしか見えんのじゃが。何か意味はあるのかの?」


「扉を開いてるのよ。奇跡を使ってね。常夜の(リーゲル)六相界(・ナハト)の、ええと……」


濫相界(ゲシュトート)、じゃな」


「それよ。よく知ってたわね」


「毒と雷の神が住まうのは崩壊と叢雲(むらくも)の世界。なれば暗獄神の巫女が開くのは、そこを通じた転移門(ゲート)じゃろうて。この程度は教養じゃよ。きょ・う・よ・う」


 物言いに嫌悪感を覚えたのか、アルキスの顔が再び仏頂面になる。

 カエデはその様子を見て、嬉しそうに表情を歪めた。


「くふふっ! やはりお(ぬし)はからかい甲斐があるのう。あの公爵令嬢なんぞについていかんで正解じゃったわい」


「……公爵令嬢?」


 (いぶか)しげにアルキスが目を細めると、カエデはもう一度くふふと笑って、


「うむ。確か、シズカとか申したか。なにやら先王(ちち)に頼んで裏で動き回っておってな。それも面白そうではあったが、こちらを選んだ(わらわ)は慧眼という他ないのう」


 恍惚じみた表情で、そう告げた。

 対するアルキスは嘆息し、ほんの少しの羨望(せんぼう)と多くの落胆を込めてカエデを見た。


「あんたは後悔がなさそうに生きてていいわね」


「そんなわけなかろう。今回とて、お(ぬし)に付き纏うか、あの令嬢に纏わり付くか、夜しか眠れぬほど悩んだのじゃ。もしもあの令嬢についていっていたら、さぞ後悔したじゃろうなあ」


「シズカについていってたら、こっちのことなんか想像もせずに自分の慧眼を褒め称えてたでしょ」


「くふふっ! それもそうかもしれんのう!」


 愉快そうに笑いながら、カエデはぴょこんと飛び退()いた。

 アルキスの描く血の紋扉(ゲート)が、足元まで迫っていたからだ。


「……ついてくるつもりなんだったら、紋章の中にいないと置き去りになるわよ」


「ふむ? そういうものなのか。奇跡とは存外、不便なものじゃの」


 転移の魔法陣(テレポーター)以外、まともな転移門(ゲート)に接したことのないカエデは、見慣れない赤茶色の紋章の中へと足を踏み入れていく。

 流石に初体験のこととあって、こわごわとした緩慢な動作ではあったが。


 間の悪いことにアルキスは最後の仕上げに入っていて、カエデがおっかなびっくり紋扉(ゲート)に靴裏をつける様子を見ることはなかった。


「――できたわ。準備はいい?」


「準備も何も、(わらわ)は紋章の中に突っ立っておるだけなんじゃが」


「そうだったわね。……じゃあ、いくわよ」


 アルキスの声が、皮切りとなった。


 流水が溝を流れるようにして、濁赤(だくせき)の紋章に澄んだ青の光が満ちていく。

 赤と青は混じり、紫電が立ち昇る。


 そして、消えた。


 紋章も、人間も、何一つ。

 跡形も残さず、紋扉(ゲート)は二人を消し去った。



  ◆◆◆



 足元には黒い雲。

 止むことのない雷鳴と、晴れざる毒の霧。

 そして隣には、ぴくりぴくりと痙攣(けいれん)する女王。


「あっ、忘れてた。……障毒の奇跡(インヴァイト)


 思い出したように、アルキスはカエデに奇跡をかけた。


「うぐぅっ! げほっ、ごほっ! し、死ぬかと思ったのじゃ……」


 足場となっている黒雲から転げ落ちるのではないかというほど激しくのたうち回っていたカエデだったが、奇跡によってすぐに正しい呼吸を取り戻した。


「すっかり忘れてたわ。人間は暗獄神の加護がないと死ぬんだったわね」


「そんな大事なことを忘れる奴がおるか!? 一歩間違えば人死にじゃぞ!!」


 と、実際に死にかけたカエデが言う。

 だがアルキスの反応は淡白なものだった。


「だってあたしは平気だし。あたし以外のここにいる連中はみんな生きてるし」


 そんなことを言って、雲の上から見える怪物たちを指差す始末だ。

 おまけにそうして指されたものどもも、顔のように雷が迸る霧や骨だけの竜など、生きていると言っていいのか分からないものばかりだった。


「当たり前じゃろ! 死ぬならこんなところにおらんわ!」


「それにあたしが最後にここを使ったのって一年以上前だし。でも良かったわ。ジンを連れてくる前に予行演習ができて」


(わらわ)女王なんじゃが!?」


「まあ生きてるんだからいいじゃない。……あ、そろそろ喋らないほうがいいわ。舌を噛むわよ」


「むむう……」


 カエデは大人しく、アルキスの指示に従った。

 六面世界(キュビリス)と地球と、二つの世界の知識を併せ持つ彼女は、急加速によって舌を噛むという現象も知っていたからだ。


 とはいえ。


「…………? ……――――!? ――――――――!!」


 とはいえ彼女には、そんな乗り物に乗った経験はない。

 まして神の膝元、神の手の届くところで神の力を借り受けて行なわれる高速移動。

 再び黒雲が減速する頃には、カエデは目を回して気絶してしまっていた。


 ただ――服を替える羽目にまで至らなかったという意味では、地球の知識は役に立ったのかもしれなかった。


「起こすのも、可哀想よね」


 ジャンプ中のカエルを引っくり返したような格好で呻くカエデを横目に、アルキスは呟く。


 やがて雷の雨と毒の大気を抜けて、アルキスは久しく踏んでいなかった森界(エルヴンズ)へと降り立った。

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