第10話 分断
「温厚な老体相手に、随分な敵意だの。小僧ども」
そいつは開口一番、刺激臭の息とともにそんな言葉を吐きかけてきた。
シズカの結界を破り現れたのは、一匹の獣。
獣の身体は赤かった。
虎と同じくらいの体躯に、見合った大きさを持つ蝙蝠の翼。獅子のごとき鬣に縁取られた、男女の区別がつかない老いた人面。温厚といえば確かにそういう表情を貼り付けているが、それが獣身についているせいでいっそ気味が悪い。
唯一赤くないのは尻尾の半ばから先だけ。
黒く染まったその先端には、人の指ほどはありそうな太さの針が数本生えている。
――マンティコア。
その名を思い浮かべたとき、視界の隅で黒金の袖が揺れた。
迸ったのは電光。
瞼を突き刺すような紫闇の雷撃は、しかし獣によって噛み砕かれた――
「……躾のなっておらぬ小娘だな。先の結界といい、今の電撃といい。そして弱い。小僧の伴侶にしては釣り合いがとれておらぬようだが?」
「余計なお世話です。そも、私と彼はそういう関係ではございませんので」
――かのように、見えた。
落ち着き払ったシズカの態度は、おそらく虚勢ではない。
おそらく儀霊によって、俺の目に焼き付いた情報がそう物語っている。
獣は、『讒言の悪魔』という。
讒言の名を冠するこの悪魔は、虚実に関わらず心を惑わす・迷いを生ませることを言って、生じた隙を突く厄介な敵だ。
そして最後の一行。
網膜に焼き付いた文章には――
『理解したら仕掛けなさい』と、書いてあった。
……そういう使い方かよ。
まあいいけどさ。
「ふはっ。では何かな? 金で小僧を買って――」
「うるせえ妄言ジジイ!」
シズカを嘲って呵々大笑……しようとしたところに、細剣を振るう。狙いは一点、蝙蝠じみた真っ赤な翼。
回避されてもシズカの追撃が――
「ギャギィ!?」
――追撃の必要もなく、俺の剣は獣を捉えた。
どころか翼のついでに、前脚の片方まで斬り落としてしまった。
……えっ、弱い。
「きっ、貴様ァ! 矮小な人間のくせに下級悪魔たるこの俺様にぶべっ!?」
下級なのかよ。
悪魔と魔族の力量差はよく知らないけど、下級魔族の相手はもう辺境の街で済ませてるんだよ。
いかにも強そうな敵の素振りで出てきやがって。
「……つーかシズカ! お前も結界わざと破らせたな!?」
「ええ。あなたの力量を実際に見てみたかったもので。もしも私の眼鏡に適わないようであれば、申し訳ありませんが置き去りにしようかなと、そう思っておりましたの」
「大した余裕だな! 道中も一人で平気ってか!」
「まあ。とんでもございませんわ。一人になってしまったらここで儚く、お姉様の助けを待つつもりでしたもの」
「さっき置き去りって聞こえたんですけど!?」
「気のせいですわ。……それよりも」
「ああ? なんだよまだあるのか」
「……その悪魔、もう死んでますわよ」
「えっ」
シズカにツッコミを入れている間も剣を振るっていたせいで、マンティコア(仮)の死体は見るも無残に解体されてしまっていた。
あー、まあ。その。なんというか。
可哀想に。
「ともあれ、あなたが前衛に立つならここから動いてもいいでしょう。『どんなものでも斬れる』と吹聴しているのも、あながち間違いではないようですからね」
「お眼鏡に適ったようで何よりだよ」
「まったくです。私も、お姉様のお気に入りを害さずに済んで心底安堵いたしておりますわ」
害されるつもりはないけどな。
「しかしどうするよ。あてもなく動くのは愚策だろ」
「あら。察しの悪い脳筋ですわね。私の儀霊があれば、愛しいお姉様の居場所を探る程度、造作もございませんわ」
ちっ。
毒舌はしおらしいままで良かったのに。
「だったらとっととやれよ。というか罠……じゃなかった、転移の悪魔とやらは始末したんだろうな?」
「あなたが起きる前に済ませましたわ。あ・な・た・が、ぐーすか寝ていらっしゃる間にね」
「なら結構」
シズカの眉根がきゅっと寄せられる。多分俺も、同じような表情をしているだろう。
こればかりは仕方がない。どうも俺とシズカは――能力ではなく、純粋に性格の――相性が悪いようだから。
「で、アルキスの場所は?」
「お待ちなさいな。あなたが起きるまで結界を張っていましたから、検索するのは今からです。……ないとは思いますが、発動中の防衛はお任せいたしますわ」
シズカは例の水晶やらカードやらを並べ始めた。
アルキスの居場所は検索し慣れているのか、酒場でメイプルの両親を探したときより、鋲候補の魔物を探したときより準備が簡素だ。
「任された。でも魔法が飛んできたときは中断してでも避けろよ」
言った途端に、シズカの手が止まった。
「……魔法は斬れませんの?」
「ああ。刃は徹るが泥を斬るみたいに意味がないんだ。衣や鎧みたいに肌に沿わせて結界を張ってるような状態なら、中身ごと斬ればいいだけだから問題ないけど」
「でも――」
何かを言いかけて。
けれどシズカは「分かりました」とだけ呟いて、アルキスの検索を始めた。
……なんだったんだ? 一体。
しばらくして。
「見つけましたわ」
初めて見た儀霊よりもずっと短い時間を経て、シズカは顔を上げた。額に少しだけ汗が滲んでいるのは、慣れない環境ゆえか。
「重畳。休憩は?」
「必要ありません。すぐに動けます」
◆◆◆
石の隘路を警戒しながら進んでいく。
前が俺、後ろがシズカ。チームが二人に分断されても、悪魔に位置を転移させられても、依然として空飛ぶ目玉は健在だ。
あの目玉に見つかると魔族が押し寄せてくるらしいので、俺たちは隠れて移動する必要がある。
その点で言えば、空中石道が立体的に入り組んでいるのは幸いだった。
これが一本道だったら、壁もない天井もない細道を歩いている人間なんて、一発でバレて終わりだったろうから。
既に二時間ほど歩いているが、一度も見つかっていないのは魔界のつくりのおかげだ。
「しかし魔界ってのは、どれだけ進んでも変わり映えしないね。どこも同じような景色だ」
「……そうですわね」
見渡す限りの、岩。岩。岩。石製の隘路も複雑に血管のように張り巡らされているせいで現在位置が確認しづらい。
シズカの儀霊なりそういう魔法の物品なり、優秀な道案内がないと迷いそうだ。
「悪魔も多いし。そういえば魔物とか魔族ってくくりの連中には会ってないかな、まだ」
「……そうですわね」
悪魔と呼ばれる奴らはどういうわけか、小賢しい動きをするのが多い。足場を踏み外すように誘導してきたり、遠くをふらふらと飛んで挑発を繰り返したり。
細い道の上で、互いに地に足つけてフェンシングじみた間合いと死線の測り合い――みたいな戦いはなかった。
そういう明快で単純な戦闘ができていない。
正直に言おう。
フラストレーションが溜まる一方だ。
「そのせいで半分くらいはシズカに頼りっぱなしになっちまってるし。……って、悪い。こんなところで言うことじゃなかったな」
「……そうですわね」
剣の届かない相手というのが、ここまで鬱陶しいとは思わなかった。
いや、遠距離戦を挑んでくる相手自体とは戦ったことだってある。ラクラスの森の妖人は投石も使ってきたし、迷宮都市までの道中で山賊に襲われたときだって弓を使っている奴はいた。
ただ距離を詰められる状況か、そうでないかの違いだ。
「無限撃ちの短剣だけじゃ、限界が来るかもしれないな」
「……そうですわね」
会話しながら、この突発迷宮を抜けた後のことを考えていた。
今後も容易に接近できる敵ばかりとは限らない。……いや、アルキスが目指すのがより高位の冒険者なら、そういう敵にも必ず相対すると思う。
「そうだ、シズカ。遠距離攻撃に使えそうな魔法の武器とかについて、心当たりってないか?」
「……そうですわね」
「いや『そうですわね』じゃなくてさ――」
振り返って、思わず細剣を取り落としそうになった。
「大丈夫か、シズカ!?」
「へ、平気ですわ。このくらい……お姉様の、」
「いや大丈夫なわけないだろ!?」
自分で訊いておいてなんだけどさ!
シズカの顔は真っ赤だった。
汗が酷い。身体が震えている。決して血の気が引いているわけではない。けれど、発熱を伴う毒かもしれない。
マクスウェルとの戦い――あのときユミナが受けたものを思い出す。
あれほどの危険度はなくとも、今は解毒の奇跡がない。儀霊で除去できるかも分からない。仮にできたとて、本人が集中力を維持できるかどうか。
どの悪魔との戦いだ。いつからこうなっていた。
気付けなかった俺の失態だ。
「……なんて顔を、していらっしゃいますの」
「うるせえ。喋るな」
「…………その台詞、覚えがありますわ。確か王都で流行っている小説の――」
「とにかく安静にするぞ。そこに座れ」
「平気ですから――ひんっ」
その場に寝かせようと膝裏をすくい上げた瞬間、シズカから小さな悲鳴が上がる。
「ちょ、ちょっと! 離しなさい! あなた何をしているか分かっていまして!?」
「何ってお前、とにかくふらついて足を踏み外したりしないように――」
「いいから離しなさあぁぁいっ!!」
ばちんっ――と。
どんな悪魔より重い一撃が、頬を捉えて。
視界の端に映った鉄扇に、一撃がシズカの手によるものだと理解するのに、時間は必要なかった。
……案外元気じゃないか、ちくしょうめ。




