夜遭
しっとりと降る雨。
寂しく灯る街灯。
幾分生気を取り戻した雑草の群。
家路を急ぐ僕があの人に遭ったのは、ちょうどこんな夜だった。
「もう別れよ、あたしイクヤに告られたからアンタ用済み」
「……わかったよ」
美人、そんな言葉が一番似合わない、けばけばしい女。
どれだけわがままに付き合わされ、金をつぎ込んだ事か。
ネイルサロン始めるんだ、出資してよ。
突然の無心にも慣れたものだ。
正直なところ、彼女には商売の才があった。だから黙って出資した。
才覚があればこそ使える男を見る眼もあったし、今の僕はつまり、空になったATM、という訳だ。
そんな訳で、少々落ち込んでいた。
だから引き込まれたのだろう。あの路地裏に。
マンションへの帰り道は二通りある。
一つは明るい表通りの道、一つは住宅街を抜ける道。
いつもは表通りのスーパーで見切り品を買って帰るのだが、その日は食欲もなく、さっさと寝てしまいたかった。誰にも会いたくなかった。
明かりの消えた住宅の間をすり抜け、うつむきがちに歩く。
最後の角に差し掛かったところで雨が降りだし、自然と小走りになったとたん。
誰かに右手を掴まれた。
まさか、通り魔?
最近この辺りをうろついてるらしいよ、同僚の話がよぎる。
「金は持ってないし殺される価値もないね」
驚くほど冷静に声がでた。案外度胸があったようだ。やるじゃん。
「お願い、手を」
かぼそい声が背後からかかる。
表面上の冷静さとは裏腹に、動悸がひどい。苦しい。
その手は氷のように冷たくて、寒気がはい上ってくる。
いいや、だんだんと心地好い。今は夏の終わり、寒気が徐々に心地よさへ変換されていくのを感じながら、ぼんやりと女の手だ、と考える。
爪を伸ばした女の手。
それは暇を与えられたあの女のものにどこか似ていた。
アパートの棟同士のわずかな、猫も通れない隙間から、白く。
「離したくない」
振り返って見ても、ふっくらした白い腕だけが暗闇に浮いているばかり。
僕の身体を優しく撫で上げる腕は、いつしか凍みるほど冷たく。
いつしかその手に夢中になって触れる自分がいた。
奇妙な事に、それから翌日の朝までの記憶がない。
布団から起き上がると、着信が入っていた。会社からだった。
覚醒しかけの頭ですぐさま折り返しかける。
「いやね、休日出勤を頼みたいんだけど良いかな?当日にすまないが」
「分かりました、今から行きます」
通話を終えたとたん、思わず舌打ちが出てしまった。
誰かと思えば新しいATMじゃないか。
確かに僕などより二枚目だし、最近出世して気前も良いし。
同僚の女達は今頃悔しがっているんだろうと簡単に想像がつく。
ご苦労様、と言うべきなのかお前も騙されたなと嘲るべきなのか、同情すべきなのか、わからなかった。
そうして仕事に没頭するうちに、あっという間に一ヶ月が過ぎていったような気がする。
それと、仕事後の楽しみも出来た。彼女はあまり話したがらない。それも魅力のひとつだ。
しっとりときめ細かく白い肌、ほどよい肉付きの美しい指。なによりその爪が美しい。
彼女が人間だったなら、どんなにか美人だったことだろう。
あぁ、僕は幸せだ。
「愛してるよ」
目下の懸案は、あいつからのメールだ。
どうやらあのATM、DVの気があったらしく、ここのところ毎日のように写真付メールが送られてくる。無惨に腫れ上がったまぶたや折れた前歯。腕に何本も走るみみず腫。ぱっくり開いた醜い傷口。
「……ちょうだい」
彼女の言葉で嫌悪感は消え去り、現実に帰る。
「あの女も、同じように美しい手をしていた……君ほどじゃないけどね」
いつの間にか腕は一本から二本へと増殖していて、僕は嬉しくなった。完璧じゃないか。
それぞれの腕が、優しく僕の顔を包み込むのがなんとも愛しい。
そんな二人の幸せを破るように、着信音が鳴り響く。
「あたし、あの人に殺される!今病院の駐車場からかけてるんだけど、先生にも疑われてるし、病院行ったこともばれたら……助けて、お願いよぉこの間はごめんなさい、だからお願い、お願いよぉ」
「……考えさせて」
自分の言葉に驚いた、まだ情があったとはね。一方的に捨てられておいて。
翌日、事態は更に悪化したらしい。
朝からひっきりなしに着信が入るので迷惑千万だ。会社用も兼ねているから電源を切る訳にも行かないし。そう毒づきながらも、心のどこかでこれを楽しいと感じる僕がいるのも確かだ。
「すっぱり縁が切れて清々するじゃないか」
思ったより大きな声が飛び出して、胸が高鳴った。……僕は、何を考えて、通報くらいするべき立場じゃないのか?
「どうかしてる」
ふと頭をよぎるのは、あの女の見事に飾ったネイルアート。爪先のピンクのラインストーン。
結局夜まで部屋から一歩も出なかった。さて、月が顔を出したところで出かけよう。今日も彼女に遭いに。
いつもの闇の中、僕が姿を現した途端嬉しそうに手を振る彼女が浮く。今日は満月か、青白い明かりに浮かび上がる白い腕はいつもより暗闇に映える。
軽く手を握るとやんわり応えてくれる。
突然に至福の時は、けたたましく鳴る着信音にさえぎられてしまう。持ち歩いている黒い端末を耳に押しあてたのは、なんとなくだ。
「助けて、やだやだやだやだ痛い!」
湿った音と鈍器で殴る音が同時に耳に飛び込んできた。反射的に通報しようと通話を切ろうとしたけれど、何かが邪魔して耳から離せない。彼女が、顔全体を包み込むように両手を押しあてているのだった。
まるで、このまま聞き届けろとでも言いたげに。
僕の額を流れていく冷や汗がじわりと脂汗へ変わっていく。
ぶちん、と空気を裂く音がした。ごきん、と折れる音がした。
後は水音だけが支配している。ああ、身体中が熱をもて余して血が沸騰しそうだ。
気持ち悪い。気持ち悪い。
やっと解放してくれた彼女が、静かに僕の目の下を拭ってくれる。
あの女――初恋の人は、もういない。静かに静かに、僕は泣く。
「え、手がキレイ?ありがと」
よみがえってきたのは、初恋の人に初めて会った記憶だ。
彼女は、嬉しげに顔をくしゃくしゃにして笑った。
ひとしきり泣いた後。
あんな出来事を思い出したのは、聞き届けたからだけではないことに気付いた。
目の前の彼女を飾る、ピンクのラインストーン。
ああそれにしても、幸せだ。
明日も、僕はこの人に遭いに行こう。