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モー殺(ごろ)し

作者: ハニ

 

 江頭えとうのリサイタルから帰ってすぐ、ぼくは父に手紙を書いた。

 文面は考えず、一気に書いた。いつものぼくにはありえないことだった。

「お父さま、あなたにとって、ぼくはなんなんでしょう? わからなくなっています。あなたにとって、なんなのかがわからないままだと、ぼくは、ぼく自身にとってもなんなのかわかりません。浮いているようです。地に足がついていません。フランスにいるとますますそうです。このまま、どこにも属さないで生きていく自分。ぼくは、自分に自信がもてないような気がします。」


 素直な気持ちだった。父に素直な気持ちを書いたのははじめてだった。認知されないまま、私生児として24歳まで生きてしまった。そんな自分がバカバカしかった。

「もういい。なにをいってもいい」

 そういう気持ちが動いた。それは江頭の曲のせいだったかもしれない……。

 リサイタルの江頭は格別だった。なにが格別かって? なにもかも。いつもの江頭とはまるでちがっていた。江頭にはモーが来ていた。ピアノを弾いていたのはたしかに江頭の指だったが、後ろからモーの手が伸びていた。ぼくにはそれがはっきりと見えた。

 でも、江頭とモーのことを書くまえに、はじめからもっといろいろのことを説明しなければいけない。そうでないと、なにも語ったことにはならない。ぼくと江頭とモー。この3人は切ってきれない密接な関係にあるのだ―――。


 江頭にはじめて出会ったのは古本屋だった。学生にしてはちょっと年をくったフランス人の男が、段ボール4、5個を机の上に積んで売っている。そんな、にわかづくりの古本屋で会ったのが江頭だった。香りのいい煙を撒き散らしながら、パイプをくわえている日本人。それが第一印象。年齢にはとてもみえない。はじめから年上と思ってしまったぼくは、そのときから江頭に一歩を譲っていた。


「日本人の方ですか?」

「ああ、そう」

「いい、匂いですね。パイプ煙草ですか?」

「アンフォラ。知らない?」


 パリでだったら、きっと江頭とそんなふうに親しくはならなかったにちがいない。パリには、あまりにたくさんの日本人がいた。ちょっとは気になっても、首都で出会っていたなら、「ヘンな日本人」だけで終わっていたにちがいない。実際、日本人を避ける日本人、日本人と思われたくない日本人、そんな人種でいっぱいなのがパリ、この大都会だった。きっと、地方から東京に出て来る学生も同じことを感じるのかもしれない。東京で生まれ育ったぼくは、おくればせながらパリに来てその気持ちをはじめて自分のものとして知った。

 語学研修の南仏の町だったからこそ、江頭とのその後のつき合いが可能だった。その町にいた日本人はせいぜい20人。ピアノと作曲で政府給費の留学生として来ていた江頭は、中でも際立っていた。

 際立っていた、というのは、一方ではつまはじきにされていたこともいう。好んで自分から孤立していた部分もあるが、江頭はふつうに暮らしている人間とは相容れないものをもっていた。パイプもそうだが、人とちがうことをやろう、やらなくちゃいけない。そういう気持ちが強かった。23歳という年齢がそうさせていたのかもしれない。でも、江頭にいわせれば、クラシックの世界で23は決して若くない。しかも、留学先がフランスというのはマイナーな位置づけにあったようだ。

 会ってから一週間も経つと、江頭は、ぼくが間借りしていた市内の小さな部屋で毎日のようにいっしょにいるようになった。給費留学生に義務とされているフランス語の授業もさぼり、個人的に契約して借りているレッスン場に行く以外はほとんどぼくと話をしていた。

 話すことは次から次、泉のようにたくさんあった。まったくちがう環境に育ったし、してきた体験もちがう。日本で会っていたらこうはならなかった。なんでもかんでも話した。笑ったり暗くなった。お互いが、お互いの話を小説のように聞いた。こんなに気持ちが通じ合うなんて、きっとぼくたちはきょうだいだったにちがいない。


「バーカだよ、ここの日本人。みんな!」

「うん、日本引きずってて平気な顔してる」

「あんな国、どうでもいいのになぁ」

「自分の意志で来てないのは、しょうがないけどさ」

「ンなことない! 商社マンだって、もう少し馴染みゃいンだよ!」

「村かな?」

「村だよ」


 ふたりはそうじゃない、それとはちがう、という自信があった。話をしながら、村社会=日本から自由でいる自分たちを確認し合っていた。それでいて、フランス語はまだ達者じゃない。心が通じ合うのはお互いしかいなかった。日本との距離、日本もフランスも客観視したい気持ちがぼくと江頭に共通していた。完全にフランスに染まるのもイヤ、かといって日本をここに来てまで引きずっていたくない。中間地点をぼくは江頭に、江頭はぼくに求めた。ほかの日本人は眼中になかった。


「令子ってゆンだよ」

「ピアノ友達ってわけ?」

「いじわるでさ、いつもいい合いばっかり」

「かわいいの?」

「かわいいけど、にくたらしい。うまいンだそいつ、ピアノが。家にグランドあったし」

「気になった?」

「なったね。追い越して、ピアノうまくなって、こう……」

「つぶして?」

「うん、うん。ベチャっとさ」

「やっちまいたかった?」

「やっちまいたい、って、そっちじゃないよ。そういう意味じゃない。子供だよ、おれもそいつも」

「同じ同じ。気持ちは同じ。むしろ子供のほうが純粋に出る!」

「おまえ、ときどき、エスカレートするよな」

「エスカレートじゃなくて、ファナチックっていってほしいな」

「ファナティック?」

「音楽家は語彙が少ない! ほら辞書辞書!」


 生きたフランス語に接したかった。でも、毎日の会話はものを買ったり、道を聞いたりぐらいがせいぜい。二十数年間に蓄積した精神をうるおしてくれることばを、フランス人から期待するのは無理だった。江頭にとってはぼく、ぼくにとっては江頭がこの時期の情操のすべてだった。語学研修の町。ここでの閉じた生活では、江頭だけがオアシスだった。いや、逆に閉じた空間だったからこそ、江頭とぼくの関係はあったのだ。町がふたりの毎日を支えていた。いっしょに歩く、町第一のミラボー通りの長さが、プツンと切れるその終わりが、そのままふたりの世界だった。

 町がふたりの関係をつくっていたと強く実感したのは、パリに行ってからだった。変わっていくのがわかった。自分も、ふたりの間も……。

 それが望みだったのだからとやかくいうことじゃない。パリで本を買いたかった。江頭は、本来の留学先で腕を、感性を磨きたかった。たしかに、その目的で来たのだ。語学だけの3か月なんて、がまん以外のなにものでもない。でも、変なのだが、それがちがうようにも感じた。あんなにイヤだった語学研修の町を、パリに行ってからなつかしく感じることがあった。いや、もっと正確にいうとそうじゃない。パリの毎日はおもしろかった。忙しかった。南仏の町を思い出すことなど少しもなかった。あそこの生活がよかったのかもしれない、と思うようになったのは、江頭との間があんなふうになってからだ。それまでは、ぼくたちはどちらも、生けから川に放たれた養殖魚のように、ただただ、現実の流れに身をまかせて楽しんでいたというのが正直なところだ。思い出すより前へ、前へ―――。


「ピアノを聞かせてやる」なにを思ったのか、江頭が突然そういいだしたことがある。パリに移ってから3か月ほど経った、底冷えのする12月のことだった。

「こっちだ、こっち!」

 大仰なオーバーコートに身を包んで、江頭はネコの多い裏街をずんずん歩いていった。ぼくはといえば、気に入ったコートを見つけることができないまま、突然冬に突入してしまった気候をうらみながら、濃いグリ―ンの厚手のレインコートに裏地をつけただけの寒々しい格好をしていた。江頭が連れていってくれたのはいかにも古いアパルトマンで、そこの4階に教授の知り合いの部屋があり、いま空き家になっているという。詳しい話は江頭もよくわかっていないようだった。なにしろフランス語でまくしたてられ、ともかく、ピアノのある部屋を勝手に使っていいことだけはわかった、というありさまだった。

 説明をしながら、江頭は階段を先にのぼっていく。絨毯は擦り切れ、木の手すりのところどころははげ、ひっそりと静まり返っている住人たちの生活があまり豊かとはいえないことが察せられた。階段照明の点灯時間もみじかく、4階にいくまで、もう一度2階の踊り場でスイッチを押しなおさなければならない。

 そして案の定、ドアをあけたとたん、部屋の中からはカビくさい空気がぼくたちを襲った。


「ずいぶん住んでないンじゃないか?」

「知るか!」

「お化け屋敷だよ、これじゃ!」

「だから連れてきたのさ、おまえを」

「ひとりじゃこわい、って柄か、おまえが?」

「いまにアンフォラの匂いでいっぱいにしてやる!」


 よろい戸を開けながら江頭が宣言した。外の光で照らされた部屋のなかには、たしかに立派なグランドピアノが置いてあった。ただ、布もかけていなかったので、ほこりが積もりたいだけ積もり、黒い光沢面もスモークガラスのようにくすんでいた。

 江頭は、ネコのようにあっちの角、こっちのドアをさぐっては、さして広くない部屋を一巡していた。ぼくは寄りかからないように、触らないようにしながら、部屋の真ん中、グランドピアノの近くにただつっ立っていた。


「ピアノ、今日は聴けそうにないな」

「なんだぁ? 聞こえない!」

「調律が必要だろっていってンだよ!」

「おい、ここンち、ベッドだけは立派だな!」

「住んでたの、年寄りかな」


 それでも新しい環境に興奮して、それぞれに大声をあげながら勝手に話していた。

 そのときだった。

「あのォ、日本人の方ですか?」

 閉め忘れていた戸口に、背の低いやせた女が立っていた。日本語だった。肩の上までのストレート・ヘアが小さな白い顔を際立たせ、ぼくは幼い少女が泣きながら立っている錯覚にとらわれた。


「きみは?」

「迷ってるンです……」


 ああ、そうか。道に迷ってここまできたンだ。ぼくはとっさにそう思った。ぼくたちの声は、下の道路まで筒抜けなんだ。それを頼って4階まであがってきた。ひとり合点でそう決めつけた。

「何、どしたン?」

 ベッド・ルームからほこりだらけの手をはたきながら出てきて江頭が尋いた。


「借りるつもりかしら、あなたたち、ここ?」

「借りやしない。住むつもりなんかないさ」

「そう……」

「なんでそんなこと?」

 気落ちしてるように見えたので、やさしくぼくは尋いた。

「下の部屋、借りようかどうしようかって、迷ってるンです」

「住むの?」

「やめたがいい!」

「簡単に決めつけるなよ、江頭」

「だって、陰気じゃん、ここ」

「どうしよう……」

「来たばっかりなの?」

「日本人の人が上ならいいかなって、のぼってきたの……」

「だから、住まないんだ。ピアノやりにくるだけ」

「ピアニスト?」

「まぁね」

「あたし、絵の勉強」


 それが、絹との最初の出会いだった。泣きそうな顔、ものごとを決められないどうしようもない判断力。これは絹にもとから備わった性格で、べつに、迷っていたから悲しそうにしてたわけじゃない、ことはあとでわかった。結局、グズグズいいながらも、絹はそのアパルトマンに住むことになり、江頭は週2回、幽霊部屋で自主レッスンをすることになった。1階下の絹の部屋はぼくたちのたまり場になり、江頭のピアノを聞いたり、絹の部屋でお茶を飲みながらしゃべったりという新しいパリでの習慣ができあがった。カフェにいくことはあまりなくなった。

 絹の部屋は、幽霊部屋とは比較にならないくらい立派だった。階段の貧しさとも無縁な豪華さ。もともとふたつの部屋だったものをドアでつないでひとつにしてあるので、広さは上の部屋の倍以上。第三帝政風とでもいうのだろうか、こった家具がゆったりと配置されている。絹は、部屋を居心地よくする天才だった。絵を描くというが、イーゼルも、それらしい道具も見当たらなかった。時間と人生とやるべきことをもてあましているお嬢さん。そんな感じだった。ぼくたちは、密約のように、日本の家族のことはいっさい話題にしなかった。


「めちゃくちゃ弾くのこの人。眠れない」

「興が乗ったときはしょうがないだろ!」

「でもさ、江頭。下の人の迷惑も考えなくちゃ」

「聴いてると、だんだん気持ちよくなってくるンだけど……」


 こういうときの、絹のこびたような泣き目は独特だった。困っているけど許してしまう。こういう顔をしながら、22年間生きてきたんだ、と思わせるものがあった。自己主張のあるような、ないような、微妙な表情がそのまま絹の顔にはりついて、性格にまでなってしまっていた。周囲の人間は、そんな絹の表情に接すると、困っていることはわかりながら、もっといじめてみたくなる。さらにひどいことをしても、この女の、この態度なら、なんでも受け入れてくれる、そう思い込んでしまう。


「うまくなったよな、最近の江頭」

「あたしもそう思う」

「こっち来るようになって、タッチ、変わったな?」

「えらそうに!」

「部屋がいいンだよ」

「ほこりがいいのさ」


 たしかに、掃除したのは最初の日ちょこっとだけ。それ以来、江頭は一度も部屋の掃除をしていなかった。それがいいというのだ。古びたほこりの匂い、それにカビが混じると最高だ。おれにとってドラッグだ。そうもいっていた。部屋と江頭のそんな関係を、ぼくは「モー」と名づけた。


「今日もモーかい?」

 時間になるとぼくは尋いた。

「ああ、モーだ。モーに会ってくる」


 江頭が上にいき、絹とふたりきりになってしばらくすると、音が落ちてきた。もともと、プーランクやドビュッシーが好きだといっていた江頭だったが、このころは弾く曲がちがっていた。イラ立ったように激しいかと思うと、やけに女性的になよなよとやさしい。混乱した曲想は、多分、どの作曲家のものでもなく、江頭が、モーがつくっているにちがいなかった。

 江頭が席をはずすと、ぼくたちは突然話すことを忘れてしまう。江頭がピアノを通して語りかけてくる響きがふたりをとらえ、なんだか会話がしづらくなるのだ。そんなときだった、ぼくが絹に父親のことをはじめて話したのは。


「江頭さんにも話したの?」

「いや」

「どして?」

「どうしてだか、男には話したくないンだ」

「困るわ」

 絹は例の顔をした。

「男だと、なんだか弱みをつかまれるみたいでさ」

「だって、あんなに仲いいのに?」


 ぼくは、男が社会的動物であること。社会の基本はグループ性と闘争だということ。だから、相手をやっつけようと思ったときには、都合よく常識というファンクションを発動させてメチャクチャに叩きのめすこと。そういうさびしい動物には自分の大事な部分を話したくないのだ、と説明した。絹は納得してはいなかった。別のことを考えているようだった。


「なんでも話してるのかと思った……」

「おたがい話さない。家族のことは」

「そんなルール、どっちが決めたの?」

「さぁ、どっちもかな」

「あたしには、じゃなんで話したの?」

 小さな声だった。

「女だから」

「女の人にはだれでも話すの?」

「そういうわけじゃない」


 絹はしばらく黙っていたが、やがて落ち着かなげに立ち上がってコーヒーをいれはじめた。ぼくは失敗したのかもしれなかった。いうべきではなかったのかもしれない。自分の軽率さが後悔された。


「いってほしいな……」

「えっ?」


 キッチンで長いこと片づける音がしたあと、絹は、やっとソファのところに戻ってきた。ぼくは自分の想念にとらわれていたので、瞬間、話の脈絡がわからなかった。


「秘密あるの、なんだかヤ」

「秘密じゃないけど……」

「だって、江頭さんにいってないなら、やっぱりそれは秘密よ」

 低音から高音へ、大きく細かくダイナミックに江頭の指が演奏していた。ぼくは、暗い淵につき離されたように、自分を感じていた。

「そうね。機会があったらね……。機会があったら話すよ」


 外は雨が降っていた。石畳の水をはねかしながら、車が裏街をゆっくり通り過ぎていった。

 絹は、日本で勉強してきたので、フランス語はかなりできると自分ではいっていた。でも、とてもほんとうとは思えない。3か月しか勉強していない江頭のほうが、よほど通じるフランス語を話した。

 だから絹は、外出するとき、ぼくか江頭を通訳がわりに連れて歩くことが多かった。絹は、いつもお金をもってはいたが、ぼくはプライドから、カフェやレストランの代金を払っていた。あとで知ったことだが、江頭といっしょのとき、絹は財布を江頭にあずけたそうだ。江頭はプライドも傷つかず、財布もいたまない。


「モーの話題、あんまりするのよそうぜ」

 ぼくの本を買うのにつき合ってくれたあと、3人でカフェで話しているとき、突然江頭があたまをあげていった。目がにらんでいた。眠っていると思っていた江頭のまえで、ぼくはモーの姿形について一生懸命、多少の脚色を加えながらおもしろおかしく絹に説明していたのだった。

「だいたい、モーなんてのはな、おまえの妄想だ。妄想のモーだ。そんなのはどこにもいない!」

「なにムキになってンの?」

「いるのはおまえのあたまの中だけ! それだけ!」

「どっちでもいいわ、あたし。あたまの中にいるだけでもなんでも」

「いるンだモーは。たしかにいる。江頭だって、わかってるじゃないか?」

「おまえがいるっていってるだけさ!」

 そのとき、ぼくは、目のまえにそびえるサン・ジャックの塔が倒れてくる錯覚をおぼえた。江頭は変わってしまった。笑いながらぼくのことばに合わせ、「モーにいってくるよ!」そういっていた江頭はもういなかった。変わったのは絹のせいだった。

「おもしろきゃいいじゃない。いると思えばいるのよ」


 モーをいちばんはじめに見たのはもちろんぼくだった。それは3人が3人とも、気落ちしていた夜のことだった。いつものように、絹の部屋で。その日は、なにかの記念日かなんかで、上等めのワインを買い込んでいた。鏡があった。ぼくは、鏡に映っている江頭の後ろにモーがいるのを見た。グレーに近い空色。エクスクラメーション・マークから丸を取ったような、それをぼんやりさせたような形。それだけははっきりと見えた。いや、見えたというよりも感じたといったほうがいい。それはそういう感覚だった。

 江頭は酒を飲むと眠くなる。いつものことだ。そのときも首を、心のなかのリズムに合わせて前後に振っていた。モーはそういうとき出やすくなる。何度もモーを見てから、ぼくは、モーの出やすい状況をだんだん理解するようになった。

 江頭は、奇抜な作曲家として、だんだん注目されるようになっていった。ワールド・ミュージック系の旋律も採り入れ、アクロバティックに現代クラシックを展開していた。そんな江頭を、ぼくは一度だけ殴ったことがある―――。

 めんどうくさいことはそのままにする。解決しようとしない。そのときの江頭はまさにそうだった。その気持ちがぼくにはとても憎かった。絹のお腹に子供がいる。江頭の子だった。どうする気持ちもないという。


「どうする気もないさ」

「だっておまえの責任だぞ」

「責任なんていうな。おれはそんなものからも自由だ!」

「ぼくが絹のお腹のなかの子だとしたらどう?」

「そんな仮定するなよ。おまえとは関係ないことだ」

「自分のことばっかり考えるな! 子供にも人格があンだ。それも考えろ!」

「おまえのいってるのは責任じゃない、感情だ!」

「生きてるンだ。感情も、なにもひっくるめて大事にしてやれないのか」

「おまえは自分のことを重ねてるンだ」

「えっ」

「絹から聞いた」

「そんな!」

 ぼくは、ソファでゆるく脚を広げて座っている絹をにらんだ。絹は約束を破った! いつもの泣き目がこんなに憎々しく見えたことはない。

「ぼくを安っぽく解釈するなッ!」


 人を殴ったのははじめてだった。殴ったあとのジーンという感触が、こぶしにも、部屋の空気にも残った。

 南仏の町は噴水。パリは川。江頭のばかやろうはなにもわかっていない。ぼくはセーヌに沿ってただただ歩いた。川下にいくのはいやだったので、ひたすら上流を目指した。なにがあるわけでもない。ただ、さかのぼっていた―――。

 人間は、ひだのたくさんある動物だ。怒りのひだ、喜びのひだ、悲しみのひだ。そのひとつにでも触れてくるものがあると、過剰に反応する。飛び上がらんほどになってしまうのが人間だ。ぼくはちがう。ぼくはふつうの人間ではない。だから、ひだがない。どんなに悲しい目に遭っても悲しくならない。泣いたりしない。どんなに怒りの感情にとらわれそうになっても、怒りの中枢に届くまえにフワッ、消えてしまう。だから、江頭のことも気にならない。江頭がだれと恋をしようがぼくには問題ではない。どうでもいい。できた子供をどうしようと、ひだのないぼくには、なにも起こらない。ぼくときたら動かない、動かさない。文句をつけることはあっても、それっきり。それ以上はいわない。相手を追いつめない。自分も追いつめない。感情はいらない。気持ちが悪くなったら、そこからいなくなればいい。それだけだ。

 モーを殺すのは江頭のためだと思った。いま、成就しかけているクラシックでの成功はみんなモーのおかげだ。だから、モーを殺せば江頭の成功はなくなる。絹とのこともそう。モーのしわざだ。このままでは、ぼくがモーを殺すまえに江頭が死んでしまう。そう確信した。ねたみからじゃない。ほんとうに江頭のことを思っているのはぼくだけ。ただ、どうやったらモーを完全に殺せるか、それがぼくにはわからなかった―――。


「どうなってンだ! どういうことなンだこれは!」

 下の部屋で江頭を見送ってからしばらくして、江頭の罵声が階段中に響いた。計画どおりだった。江頭は最高に動揺して駆け下りてきた。

「絹、おまえか」

 絹はおびえて、少しずつ奥の部屋のドアのほうに後ずさった。首を痙攣のように振って、しきりに自分がやったのではないことを主張していた。

「ぼくさ。ぼくがやった」

「ダメなんだ、掃除しちゃダメなんだ。おまえが一番よく知ってるはずだろう!」

「殺すンだ。モーを殺すンだ。それにはこれしかない!」

「あしたリサイタルだって、知っててやったンだな」


 江頭はムチャクチャぼくに殴りかかってきた。それほどまで、モーに頼っている江頭がぼくには悲しかった。あまりに悲しかったので、打たれるままに任せた。


「モーだモーだいいやがって、このッ!」

 コンソールの上の花瓶が割れる音がした。絹の叫び声も聞こえた。

「おれにはそんなものはいない。実力だ! おれの実力だ!」

「ほんとにそうなら、なんでぼくを殴る?」

 血が出てくればくるほど、ぼくは冷静になっていった。

「モーはおまえがいってるだけだろが モーはおまえなんだよ! わかンねぇのか、モーはおまえ自身なンだよ、新田!」


 ぼくが父親のことを打ち明けるのは、絹に対してでもない。江頭に対してでもない。どちらにいうのもちがっている。ちがってしまう。意味もニュアンスも。父親にこそ、ぼくは話すべきだ。そのとき、そのことがわかった。まるで、光が下腹部からあたまの上につき抜けるように、そのことが一瞬にしてぼくにはわかった―――。


 リサイタルの客席に着いても、傷が痛かった。顔・肩・腕……。ありとあらゆるところが熱く、ズンズンした。同時に、江頭にいわれたことばが耳のなかに響いていた。熱のせいではない。でも、ぼくはフワフワ浮いていくように感じて、たまらず、となりの席の絹の手を強くにぎった。一瞬おどろいた顔をした絹は、すぐいつもの困った表情にもどった。そして、そっとぼくの手から自分の手をすり抜けさせた。それはみごとなくらい、距離感を保ったままのやわらかい拒否だった。ぼくは、あたたかさと、冷たさが同時に身体に伝わってくるのをおぼえた。いつのまにか、絹は成長して大人になっていた。モーのぼくを追い越して―――。

「おまえがモーだ。モーはおまえだ!」

 江頭のピアノがそう聞こえた。そうなのだ、ぼくはすぐにも席を立って、自分のやるべきことをやりに部屋に帰るべきだった。でも、その気持ちを押しとどめるだけの音の魅力が江頭の演奏にはあった。流れるようにつややかだった。江頭は世界をつくっていた。自分の世界、自分と絹の世界をつくっていた。そして、たしかにモーもいた。そこからは、ぼくは未熟な存在としてオミットされていた。当然だった。ぼくがやるべきこと、それは日本にあった。肝を残してきたサルのように、ぼくはすべてを日本に残してきたのだから。

 江頭のリサイタルから帰ってすぐ、ぼくは父に手紙を書いた。

 文面は考えず、一気に書いた。いつものぼくにはありえないことだった―――。

〈了〉


第40回かわさき文学賞二席を受賞した作品です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「ばくには、ひだがない」・・・のくだりが、自動的に感情を抑圧してしまう人間の悲しさがリアルに描かれていて良かったです。登場人物の心象風景に興味を惹かれましたが、全体に「あらすじ」的なので、も…
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