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原料屋

影街の火

作者: 十浦 圭

 コーヒーカップの中に、夜がある。

 俺は机の上のカップを思わず凝視した。

 白いつるりとしたカップの中に、丸い輪郭を持った黒い液体が並々と湛えられている。蛍光灯の明かりを受けて、揺れる水面にちらちらと白い反射光が揺れた。

 まるで夜のようだ。

 じいっとコーヒーを見つめる俺に、気後れした様に彼女が声をかけた。

「飲まれないんですか?」

「ああ、ごめん」

 持ち上げてこくりと嚥下すれば、それはただのコーヒーだった。

「美味しいですか?」

「ああ。君は飲まないの?」

 お世辞ではなく頷いて、何も置かれてない彼女の前を指せば、彼女は小さく微笑した。

「コーヒーは苦手なので」

 既視感を覚えながら、なるほど、と俺は言った。


 この街に来て、いったいどれくらい時間が経ったのか、俺にはよく分からなくなっていた。

 日が昇らないこの街では、気を付けなければ時間の感覚さえあやふやになる。そのことを、滞在して何時間か経ってから俺は彼女に教えられた。

 どこか黄色がかった、灰色の空の下を彼女と歩く。見下ろした腕時計にはPM3時と表示されていた。

 くたびれた石畳と、どこか漂白されたような箱めいた建物がずらりと並んでいる。

 マントを翻しながら通りを歩けば、そこここで小さく焚火が燃えていた。

「あれは?」

「選挙です」

 焚火の周りを、灰色のフードの男が数人、ぐるりと囲んでいる。火に背を向けて通りを見つめる目は半分閉じられていて、起きているのか眠っているのかも判然としない。

「町長選挙です。立候補者はああやって火を灯して、選ばれる時を待ちます」

「選ばれたらどうなるんだい」

「火は残ります。選ばれなかった人の火はみんな消えて、町長は残った火を新しい街の火にするんです」

 街の火、の部分で彼女は東にちらりと見える塔を指さした。

「なるほど」

 俺は小さく頷いた。

 選ばれなかった者がどうなるかは聞かなかった。


 この街は壁に覆われている。

 つるりとした乳白色の壁は、一見象牙に似ているが冷たくはない。

 かと言ってあたたかいのかと聞かれればそういう訳でもなかった。

「何で出来ているんだろう」

ゆっくりと手を這わせながら聞けば、彼女は首を傾げた。

「分かりません。私が壁について知っているのは、それがずっと前からあって、ずっと後まであるということだけです」

「案内人の君が知らないなら、この街の誰もこの壁の正体を知らないってことか」

 俺の言葉に彼女は申し訳なさそうに頷いた。

「すみません」

「謝ることはないよ」

 俺の返答に、彼女はまた小さくすみません、と言った。

「街が終わる時、この壁は崩れるそうです」

 呟いた彼女の声が、白い壁に反射した。


 街の中を歩く俺達に、時折すれ違う住人が物珍しそうな視線を向ける。住人の数自体が少ないので煩いという程でははないのだが、こう珍しがられるのも久しぶりだった。

「旅人かい」

「ああ」

 のんびりとテラスに座った老人が、好奇心の灯った目で俺に問いかけた。

「また珍しい。こんな街に来るとは、相当の物好きだな。趣味かね?」

「ごめん、お爺さん、お話は後でね」

 慌てて前へ進み出た彼女に、老人が歯の抜けた口で笑う。

「こりゃ失礼。初めての案内で張り切っとる訳か」

「もう。ごめんなさい、行きましょう」

 早足になった彼女を追えば、老人の声が背後から俺を追い越した。

「後で話を聞かせとくれよ」

 住人の話が聞けるのは俺にとっても望むところである。小さく手を振れば、気の抜けた笑い声が再び背後で上がった。

 すたすたと先をゆく背中に声をかけようとして、前を行く彼女が小さく頬を膨らませているのに気が付いた。

少し笑えた。


 西の壁に向かって歩を進めると、やがて森にぶつかる。

 そもそもがあまり大きな街ではない。よってその中にあるこの森も大きくはないのだが、それでも侮ることは出来なさそうだった。

 じっとりと森がこちらを見る視線を俺は感じた。面倒ごとはごめんだな、と思いながら、這い寄る肌寒さに腕を組む。隣で彼女が居心地悪そうに身じろぎをした。

「ここは森です」

「森」

「ええ」

 それ以上話すことはない、というように彼女は口をつぐんだ。

「奥に入る道はあるの?」

「ない、と思います」

「ふうん」

 ちらちらと、彼女は地面と森の間で視線をせわしなく動かした。

「次へ行こうか」

 そう言いながら、ここには明日また来よう、とこっそり俺は思った。


「ここが塔です」

 街の東側に立つ塔の丘に、俺達はいた。

 煉瓦造りのそれは、やや拙い造りであるもののそれなりに古いものであるようだった。

 あまり大きくはなく、高さは傍にそびえる壁の半分ほどしかない。

「この中に街の火が灯されています。この街が街として機能しているのは、全てこの火のお陰です。逆に言えば、この火がなければこの街は瓦解してしまいます」

「なるほど」

 塔の横にひっそりと建つ小屋を覗きこんむと、

「そこは塔守りの家です」

後ろから覗きこんだ彼女が囁いた。

「気難しい人なんですけど、今日はいないみたいですね」

「残念だな」

 柔らかな草を踏みながら塔の周りを一周して、俺は入口がないことに気が付いた。

 見上げた塔の先端から漏れる光を見つめて、俺は再び胸中で呟いた。

 なるほど。


「街で見るべきものは、これくらいでしょうか」

 街の中心部へと戻りながら、彼女は申し訳なさそうに言った。

「中心部は住宅街になっています。住民のほとんどは自宅で農作業か、工業か、技術仕事をこなしています。街の真ん中に流れる小川がささやかな発電システムです。住宅街から住民が出ることはほとんどありません」

「俺はどこで寝ればいいかな」

 俺の質問に彼女は少し考えた後、

「案内所をお貸しします」

と答えた。

「二階と地下が資料室なので、好きなだけ資料が見れます。寝起きは一階でしてくれれば」

「無償で?」

「もちろん」

 驚いた俺の反応に彼女は驚いたようだった。

 予想外の幸運。あるいは彼女の無欲さはこの街では必然、当然なのかもしれない。

 街に来てもう何度目かの、なるほど、を呟いて俺は空を見上げた。

 相変わらず、黄色がかった灰色のままだった。


 案内所はこじんまりとした建物だった。

 木の扉を開けば、書物独特の埃の匂いが鼻先をよぎる。地下と二階にはぎっしりと本棚が並び、一階には小さなキッチンと机が置かれているだけだった。

 控えめな植物と無地のテーブルクロスから、今日一日一緒にいただけの俺にも彼女らしさが感じられた。

「魚はお嫌いじゃないですか」

 そう言いながら彼女が出した皿の上の魚は、白いソースの中でてらりと鎮座していた。

 旅先ではちゃんとした食事を食べられることの方が少ない。喜びながら口に運んだそれは仄かにあたたかかった。

「美味しいよ」

「よかった」

 机の上のランプが狭い部屋を照らし出していた。朝がない以上夜もないらしく、カーテンのない窓の外は昼間と同じく明るいままで、ぼんやりと、ランプの存在意義を俺は思った。

「君はここで生まれたの?」

 食後のコーヒーを啜りながら俺は尋ねた。

「はい」

 皿を洗いながら彼女が背中で答える。

「父も母も街の生まれでした。生まれてから今まで街を出たことは一度もありません」

「ふうん」

 かちゃり、と陶器の擦れる音が響く。

「この街が変わってると感じたことは?街から出てみたいとは思わないの?」

「いいえ」

 皿を置いて振り向いた彼女は当惑しているようだった。

「そうか」

 一つの場所でずっと生きていれば、そういうこともあるのだろう。

「ただ…」

「ただ?」

 小さく言葉を繫いだ彼女に、俺は首を傾げた。

「太陽は、見てみたいかもしれないです」

「へえ」

「昔、絵本で読んだから」

 そう言って彼女は照れ臭そうに笑った。


 目が覚めて、一瞬自分が何処に居るのか分からなかった。

 寝袋から体を起こせば、がらんとした部屋は寝る前と同じく薄明るいままだった。時計を見上げると7時を指していた。朝か夜か分かりゃしない。

 マントを羽織って出た外も、寝る前と同じ風景だった。

 ふらり、と石畳の上を歩き出す。

 見下ろした腕時計はAMの表示である。起きているのか眠っているのか、住宅街ということでずらりと立ち並んではいるものの、ただそこに並んでいるだけの家々だ。

 所々で燃える焚火だけが唯一動いている。

 この街へ行く、と告げた時に貰ったいくつかの単語を、俺は思い出していた。

 灰色の者のための街。

 口内で呟けば不思議と馴染むようで、なるほど、と思う。

 誰も見ていない道の上で肩をすくめた俺に、背後から声がかかった。

「流石に旅人は早起きだな」

 嬉しげに笑って、昨日の老人が立っていた。


 昨日のテラスで、老人と俺は同じテーブルを囲んでいた。

 テーブルの上には二つのパフェが我が物顔で居座っている。老人は嬉しげな顔で、これが毎日の楽しみでな、とスプーンを握った。

「甘い物が好きなんですか」

 同じくスプーンを持ちながら尋ねれば、幸せそうに緩んだ顔がパフェを頬張る。

 真似てぱくり、と含んだパフェは甘かった。甘い。

「甘いもんは嫌いかね」

 顰めた眉を見咎められて、俺は曖昧に笑った。


 かなりのスピードで老人の口の中に消えるパフェを感心して眺める。

「すごいな」

「好きなものへの情熱は衰えないものだ」

「そういうものですか」

 返しながらも、住人の中でもこの老人が殊更生き生きとしているのはこのせいかもしれないな、と思う。

 好きなものへの情熱は思いのほか重要なものだ。特に生きるという面では。

「君の好きなものは旅かい」

 自分の器を空にして、俺のパフェに取り掛かりながら老人が言った。

「ええ、まあ」

「じゃあ趣味でこの街に?そりゃまた酔狂な」

「一応目的は仕事です。その仕事の動機が趣味と言えなくもないですがね」

「仕事かい」

「はい」

「なんの?」

「原料屋です」

「ほう」

 最後の一口を食べて、口を拭いながら老人が声を上げた。

「私もこの街に住んで長いが、初めて会ったな」

「移住して来たんですか?」

 身を乗り出して問えば、老人は丁寧にナプキンを畳みながら重々しく頷いた。

「もう三十年も前だがね。住んでいた村を災害で失くしたんだ。家族も知人も親類も全滅だ。私は誰からも必要とされなくなった。そしてある日、この街の噂を聞いたのさ」

「なるほど」

 感心して呟けば、老人がひょいと片眉を上げた。

「確かにここには太陽がない。日向ぼっこも出来ない街だが、穏やかに過ごすにはよい街だ。私は元の場所では到底生きていられなかっただろう。この街で、私は再び息を吹き返したんだよ」

 甘味も美味いしな、と付け足した老人の言葉は紛うことなき真実であり、同時に俺に向けた釘でもあるらしかった。

 ひょいと肩をすくめる。

「牽制しなくても、別に不穏なことはしませんよ」

 俺はしがない原料屋だ。

「何かの原料になりそうな、珍しいものにしか興味はないんで」

 そりゃあ良かった、と老人は歯のない口で笑った。

 食えない爺さんだ、と俺は内心ぼやいた。


 老人と別れて再び歩き始めた頃には、ぽつぽつと街のあちらこちらに、住人たちの姿が見え始めていた。

 老人、壮年の男性、女性、青年、若い女性。

 すれ違うたびに珍しそうな視線を浴びながら、似たような家の似たような角を曲がる。

どうやら子供と夫婦は少ないらしかった。


 西へ歩き始めて数十分後に、俺は森の入口に辿りついていた。あるいは一時間は経っていたかもしれない。体内時間には自信がある方だったのだが、俺程度の自信ではこの街では通用しないらしかった。

 鬱蒼と茂る木々を見る。

 よし、と一度呟いて俺は森へと足を踏み入れた。


 森は少し肌寒く、薄暗かった。太陽のない世界でも、木々が茂ればやはり暗くはなるらしい。

全身に森からの視線を感じながら、ざくざくと草を踏んで歩く。

敵意は感じないものの、それがいつ逆転するか分からない。旅人は異分子なのだ。だから先ほどのように食えない爺さんに釘を刺されるし、こうして森全体からも警戒されたりする。

街中のどこか乾いた砂っぽい空気と違って、森の空気は湿っていた。湿気が肺に貼りつくようで、呼吸がし辛い。

目的地があまり遠くないことを祈った。


左手のコンパスを見ながら進んだ先に、その小屋はあった。

小屋というより箱と言った方が近いかもしれない大きさだった。小型の自動車が一番近いかもしれない。おそらく街に入って初めて目にする鉄。ざらりとした錆が表面に浮かんでいる。場に満ちる冷えた空気は森が発しているのだろうか。

扉に手をかける。鍵はかかっていなかった。


ぎいい、と軋みながら開いた扉の奥は、暗がりだった。

森の中とはうって代わって、ふわりと、あたたかく緩んだ空気が溢れ出す。

背後で森がざわめくのを感じながら、俺は小屋の中にうずくまる少女を見た。


金色の髪は暗闇の中でもきらきらと光っている。たっぷりとした白のワンピースはそれ自体が光を放っているようだった。健康的な小麦色の手足を縮めて座り込んでいるのが痛々しい。

目の色は分からない。少女は白い細布で目隠しをされていた。

「こんにちは」

なんと言うべきか少し迷って、結局選んだ挨拶が、小屋にうわんと響いた。

「こんにちは」

一方、少女の言葉は空気を真っ直ぐ通って俺に届き、俺はさすが太陽だ、と変なところで感心した。

「閉じ込められているのですか」

「ええ」

「いつから?」

「この街が生まれる前から」

「ここから出たい?」

「さあ」

端的な返答に、なるほど、と呟いてから俺は少し悩んだ。

お節介は趣味ではないし、老人の釘の件もある。

ただ少し、彼女のことは気にかかった。


結局、俺はこの場で答えを出すのは諦めることにした。

それでは、と言った俺の言葉に、太陽はひとつ頷いただけだった。

ゆっくりと扉を閉めると、開いた時と同じくぎいい、とそれは呻いた。


 無駄に手を出さなかったのが幸いしたのか、入った時よりもあっさりと森は俺を外に出した。湿気は緩んでいたし、なにより集る視線の数が減っていた。

 もし俺が太陽を連れ出そうとしたら、どうなるだろうと考えてみる。具体的なシチュエーションは思いつかなかったが、かなり面倒くさい、不愉快な事態になるのだろう、とは予想がついた。

 俺は小さくため息を吐いた。


 西から東へ。昨日と同じ道を辿りながらぶらぶら歩く。

 連れのない旅路は久しぶりで、宙に浮いた退屈さも久しぶりだ。所在なく指先で壁をつるりと撫ぜてみる。

 カルシウムめいた匂いがふと鼻先をよぎる。

 どこかで嗅いだことのある匂いだった。

 一体どこだ?

暇にあかせてつらつらと記憶を辿れば、引っ掛かったのは随分前に行った砂漠の風景だった。

強い強い太陽の下でつるりと光る頭骨。

まばゆいまでの白。乾いた風に混じった、何かの匂い。触れた指先からつるりと滑った。

我に返って、指の先の壁を見つめる。

黙ったまま、壁から手を離した。


 雑草の茂る丘に、塔は静かに立っていた。天候の変化も日照りの変化もないせいで、風景に昨日との違いは全くないように見えた。

 さて、と足を踏み出しかけて、俺は塔の横に籠を持った男が立っていることに気が付いた。

 どうやら違いはあったらしい。

「こんにちは」

「…」

 細い目をすがめるようにして男は俺を見下ろした。


 予想通り、男は塔守りだった。

 小屋は外見通り小さかった。簡素な机と椅子と、ベッドと籠がその部屋の全てだった。

 壁に小ぶりの鎌がかかっている。

 ちらり、とそれを見た俺の視線を見て

「草刈り用だ」

と男は小さく言った。

「旅人が来たっつうのは聞いてた」

「耳が早い」

 勧められるままに椅子に座りながら俺は言った。返ってきたのは唸りとも相槌ともつかない声だけだ。

「塔守りの、仕事の話が聞きたいんです」

「そんなもん聞いてなんになる」

「好奇心です。旅人の酔狂とでも思ってもらって結構」

 肩をすくめて彼はつまらなさそうに爪を弾いた。

「塔を守るんが俺の仕事だ。それ以上でも以下でもねえよ」

「それは、外敵や住人から?」

「敵なんかいねえ。塔を掃除して、丘を整備して、火の世話をする」

「火の世話?」

 思わず眉を上げた俺を、塔守りは小さな目でじとりと見た。

「そうだ。火の世話だ。お前だって一人で勝手に火が燃えてると思ってる訳じゃねえだろ?俺が薪をくべて、雨から守って、そんでもって竈を掃除するから火があるんだ。俺は街の世話をしてんだ」

「街を動かす仕事って訳か。凄いな」

 小さく言った俺の言葉に、男の声がふいに誇りを滲ませた。

「そうさ。凄いんだ。俺は凄い」

「その通りだ。貴方は凄い」

 嬉しげに鼻を鳴らす彼に笑いかける。

「じゃあ町長選挙の時なんかは忙しいんでしょうね?火の交代だ、他ならぬ貴方を置いて出来る人はいないはず」

 我ながら見え透いてるな、と思ったが、男は気が付かなかったらしい。

「んや。あいつら、俺を舐めてんだ。町長が新しい火を持って来る時、塔には誰も入れねえ。前の町長が古い火を竈から出して、川に放ってから、新しい火が来るまでは塔には誰も入れねえんだ。俺だって」

「なるほど」

 ぶすっと膨れた男の肩越しに窓を見つめながら俺は呟いた。

「ちなみに今の選挙がいつ終わるのか、貴方知ってます?」

 知らねえのか、と彼は奇妙なものを見るような目で俺を見た。

「今日の夜中だ」

 ばちん、と男の爪が鳴った。


「おかえりなさい」

 扉を開けると、ふわりと良い匂いが俺を包んだ。

「ああ」

 反射的に答えながら、明るい内にただいまと言うのは妙な気分だな、とぼんやり思った。

時刻は夜のそれなのに、窓の外は変わらず薄明るい。

「街を周って来られたんですか」

「うん。ああ、昨日の爺さんにも会ったよ」

「あ、テラスの?お爺さん、何か失礼なことでも言いませんでした?」

 彼女が机の上にことり、と皿を置く。

「…これは?」

 腰かけながら覗き込むと、ダシに似た香りが立ち上る。薄い色のつゆの中で肉と根菜らしいものがゆらゆらと揺れていた。

「ほんとの名前は分からないんですけど、うちでは薄煮って呼んでます」

「ふうん」

 試しに含んだそれは優しい味をしていて、俺はふと、和食が好きだと言った人のことを思い出した。

「…おでんみたいだな」

「おでん、っていうのは?」

「料理の名前」

「へえ。美味しいんですか?」

ふと、手を止めて俺は彼女の顔を見た。

「君は好きだと思うよ」


 食事を済ませて、二階へと階段を昇る彼女を見送ってから、俺はマントを手に取った。

 ぴちゃん、と蛇口から水滴が落ちた。

 手早く荷物を纏めながら、窓の外を伺う。

 時刻的には夜中だ。明るいとはいえ、誰も起きて、ましてや街中を歩いたりはしていないだろう。

 ぼんやりと明るい景色に、どうも調子が出ないな、と思った。


 通りには人っ子一人いなかった。

 石畳の上を俺が歩く音だけが響く。

 予想通りだな、と思いつつ、それでも出来るだけの静かさと速さで先を急ぐ。

 予想外だったのは、通りのどこにも焚火がなかったことだった。

選挙がもうすぐ終わるからなのだろう。角に燃えていた焚火も、それを取り囲んでいた灰色の男たちもどこかへ消えていた。立候補者達はもう消えてしまったのだろうか。いても何かされたとは思わないが、いないのならその方が都合はいい。

 仕事がやりやすいのはいいことだ。


 塔守りは小屋の中で眠っているようだった。

 あるいは起きているのかもしれない。普通の夜なら窓から漏れる明りで判断出来るのだが、この街ではその方法は使えない。

 昼間の不満そうな態度を考えれば、酒でも飲んで酔っていることも考えられた。

 どちらにせよ、塔守りが外に出てこなければ問題はないのだ。気づかれる前に終わらせられればそれが一番良い。

 担いでいた袋から鉤とロープを取り出す。革のケースをそっと外せば、鉤はひんやりと手のひらに馴染んだ。

 塔のてっぺんを見上げて、手の中のそれを二、三度、軽く握りしめる。

 塔守りが起きているかもしれない以上、そう何度も失敗は出来ない。塔の高さはざっと二階建ての建物程度。届くだろうか。

 顔を上げたまま勢いよく鉤を投擲する。

 ガッと小さな音をたてて、鉤は塔のてっぺんに引っ掛かった。


 ロープを上り、酸で丁寧に目地を溶かしたあと、手早くレンガを抜き取る。

 塔の頂上内部は小さな部屋になっていた。

 ひんやりとした、どこか乾いた空気が漂う。中心を取り囲むように鉄柵がぐるりと円を描いている。その中で一つの火が燃えていた。

窓がないせいで、光源は火と、俺が開けた穴しかない。覗き込む俺の影が小部屋の壁にちらちらと揺れている。

 火は美しかった。

 ところどころ錆の浮いた鉄柵の中で、火はこうこうと燃えていた。掌大の炎は銅のように赤く、時々ちかりと青や緑や黄色の火花が光った。

 少し考えて、俺は袋から大き目の瓶を取り出した。

 片手で瓶を持ったまま、鉄柵の下から手を伸ばして火のついた薪を掴む。

 手の先で美しく燃える火に、頭の片隅で心臓のようだな、と考えながら、俺は薪を柵から引き抜いた。


 垂らしたロープを降りた先で、異変はもう始まっていた。

 終始穏やかだった空には雲が集まり始めている。ごうごうと風の音が耳に煩い。

 ぶわりと横風の煽りを受けて思わずよろめく。

 あるいは塔守りがいるかもしれない、と思ったのだが、男は小屋から出て来てはいなかった。

 眠っているのだろうか。もしかしたら怯えて小屋を出られないだけかもしれない。

 風の轟音の中、ざくり、と背後で誰かが草を踏む音がした。

 俺はゆっくりと後ろを振り返った。

 息を切らして立っている彼女を見た。


 風に煽られて、彼女の髪はぐしゃぐしゃになっていた。わなないた唇にも、両頬にも色が無い。寄る辺ない少女のような表情がなんとなく痛々しかった。

「どうしてですか」

 細い声は風に攫われ、それでも俺の元に届いた。

「どうして、こんなこと」

「仕事なんだ」

 袋を担ぐ。風に負けないようにマントをしっかりと体に巻きつける。

 ずしりと袋が肩に重い。これを今から外まで、自力で担いで運ぶのだと思うとなんだか気まで重くなるようだ。

「仕事って…」

「君によく似た人を知っている。コーヒーが苦手で、絵本が好きで、和食が好きで、よく笑う。彼女はここではない場所でいなくなってしまった。影がなかったからだ」

 君が影だ。

 そう言って俺は彼女を見た。

 空には既に雲が立ち込めていた。青い草がちぎれんばかりに体を揺らす。

 ふと、俺はこの街に来て初めての暗闇にいることに気が付いた。闇の中に、彼女の血の気の失せた白い頬が美しかった。

「死の残骸に囲まれて、太陽を閉じ込めて、偽物の火を奉って、本体の命を奪って、それでも生きようとする影の街、か。お節介は趣味じゃないんだけど、俺個人としては、やっぱり間違っていると思うな」

 ざあああ、と風が泣いた。

「じゃあ俺はこれで。ここ数日、色々案内ありがとう」

 彼女の顔がぐしゃりと歪んだ。

 その顔は初めて見るな、と俺は思った。

 彼女によく似た影を奪われた女が、最後まで一度も俺の前では泣かなかったということに、俺は初めて気が付いた。


 ごとんごとん、と乗合牛車に揺られながら、俺は小さく息を吐いた。

 整備されていない荒れ野を、牛はのんびりとゆく。手綱を握る御者の背中は、先ほどから身じろぎもしない。

 体全体に降り注ぐ日の光りが必要以上に暖かく感じられ、自分が疲れていることに気が付く。

 難易度はそう高くなかったが、少し面倒な仕事ではあった。

 遠ざかっていく白い壁を見るともなしに眺めて、俺は傍らの袋を覗きこんだ。

 瓶の中で燃える美しい炎に満足して、座席にぐうっと寄り掛かる。

 目を閉じる前に何か、大きなものが崩れるような音が、遠くで響いた気がした。

 俺は目を開かなかった。


文芸部部誌用の短編小説。

作中の主人公、原料屋は空想の街に出てきたキャラクターと同一人物です。

色んなイメージがごっちゃになっていますが、パクリではなくリスペクトのつもりです。

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