VS巨大タコ……もとい、クラーケン
最初に攻撃してきたのはクラーケンだった。厳密には最初にべしこんとやったのは私だし、触手が少し裂けるまで鞭でバシバシとひっぱたいていたのはマゾヒストだから、最初というわけではないのだが、感覚としては最初の攻撃で間違っていない。
クラーケンの太い触手は私とマゾヒストを狙うようにまっすぐと跳んでくる。私はそれを腹這いで滑ることで回避し、マゾヒストは横に跳ぶことでさけた。北国出身をなめるなよ!
《ううう、姐さん……逃げてくだせえ……!》
《あんたら、まだいたんだ!》
全く気づかなかったが、クラーケンの触手にはあのシャチのボスがからめ取られている。まるで灯火かのように高々と掲げられる様は何とも言えずに頼りない。お前、それでも冥界の魔物かよ! と言いたくもなる。相手が完全に海の怪物だから仕方ないけれども。殺し屋ごときでは怪物にはかなわないのである。
彼は息も絶え絶えにキュッと締め付けられていたが、必死に私に逃げるようにと進言してきた。――馬鹿め。
《何を馬鹿なことを!》
私は皇帝ペンギンであり、この世を統べると誓った女帝である。女帝がしっぽ巻いて逃げ出すなんてあり得ないのである。そもそもペンギンは巻けるだけのしっぽがない。私は戸惑うことなく海へ飛び込んだ。マゾヒストは鞭を構えてクラーケンを見ている。お互いに隙を狙っているようだ。どうかそのままにらみ合っていてほしい。私が裏をかきやすいから。
冷たい海の中に潜ったのは実に久しぶりだが、それでも本能と体は海での振る舞いを忘れてはいない。海面下でとらえられていたシャチはかなりの数に上っていて、私はクラーケンの足の追撃を避けながら、スパスパと羊羹を切り裂くかのような気軽さでシャチを捕らえる足を切っていく。ペンギンは飛べない代わりに速く、巧く、飛ぶように泳ぐ術を与えられた。嘴だって鍛えれば鋭利な武器である。マゾヒストのマゾ的訓練に付き合わされた日々は、確実に私に破壊力という名の絶対的な力を授けていた。
私はさながらミサイルのようにクラーケンのぶよっとした灰緑色の足を切り裂き、くぐり抜け、捕らえられていたシャチを解放していく。私は女帝を目指すのだから、どこまでも傲岸不遜で、どこまでも配下の身を案じるものでなくてはならない。配下を守るのは皇帝の役目で、私は皇帝ペンギンなのだから。配下のいない皇帝など、皇帝とは言わない。
《あんたたちは逃げて!》
《姐さんッ……!》
《この船はじきに南に進む。冷涼な水に適応しているあんたらとはここでお別れ》
姐さんッ、と悲痛な叫びをあげたシャチたちに一瞥もくれず、私は海面から飛び出る。冷えた空気が私の頬を叩いた。実に爽快だ。
マゾヒストの鞭がうなる。赤く染められた禍々しい革の鞭がクラーケンの皮膚を叩いた。
最後の一匹、まるで敵の大将の首かのように、クラーケンに高々と持ち上げられたシャチのボスの元まで私は跳んだ。水中で助走――助泳? はつけてある。勢いは十分で、私はロケットのようにクラーケンの触手へ向かい、その足を切り裂いた。うぐおお、と怪物らしい雄叫びをあげるのは巨大なタコ。
シャチのボスが解放されて落ちていく。ボスのシャチは水面へと叩きつけられる直前に体勢を変え、見事なフォームで着水していった。
おお、すごいじゃんとのんびりそれを見ていた私の体に、しゅるりと触手が絡みつく。これが触手ぷれいというやつか。それにしたって気持ち悪いのである。ぬるぬるネトネトと生臭いそれを、なぜ受け入れられるのか私には甚だ疑問である。きっと特殊な性癖なのであろう。
――とにかく、しまったと思ったときにはもう遅く、一つしかないクラーケンの瞳は私をそのトロリとした金色で見つめていた。ええい見るな! 拝観料取るぞ!
そんな私をマゾヒストは愕然と見つめ――
「俺も触手プレイしたい!」
ええいこのマゾヒストめ!
悔しそうに甲板の上で地団駄を踏む青年は、見目だけなら温厚そうで麗しい。シルバーグレイの髪は優美に風に揺られているし、北国の海のような深く暗い青の瞳は物憂げで、黙っていれば女が寄ってくるようなのに。とことん残念である。馬鹿である。筋金入りの被虐趣味者である。このド変態が!
くそお! と叫ぶマゾヒストに、クラーケンは種族は違えと感じるところがあったのだろう。ヒいている。私の方をその大きな瞳で見つめながら《大丈夫なんですかあの人》ときいてきたから、《いつもどおりってやつだね》と答えたら《苦労してますね》としみじみと答えられた――だが、のんびりと敵と――否、下僕予定のクラーケンと話している暇はないのである。マゾヒストは私を取り返そうとしているのか、バシバシと鬼気迫る様子でクラーケンを滅多打ちにしているし、クラーケンはその痛みから逃げようと、体をよじるようにして四肢を暴れさせている。捕まえられている私としてはあまり暴れられると酔いそうなので、この辺でこの茶番を終わらせようと思う。
その昔、ペンギンはその豊富な脂肪分のために脂目当てで乱獲されることがあった。しかし、そのたびにペンギンはフリッパーで乱獲者を叩き、腹這いで鋭い嘴を武器に突進し、乱獲者を追い払ってきたのだ。しかし、それにも限度はある。しばしばペンギンは捕まえられて、革のベルトで拘束される――そんな目に遭うこともあった。
とある人間は、「そのペンギンを革のベルトで二重に縛り、私たちは一息付いた。しかし、ペンギンも一息つくと、そのベルトを簡単に引きちぎったのだ」と書き残している。
“「はー、やっとペンギン捕まえられたー。一息つこーっと」
《はー、捕まっちゃったなー。一息つこーっと。よし、裂くか!》
バリッ。”
台本風に書くのならこういうことである。人間の方もさぞかし驚いたことであろう。私もこの話を聞いたときは驚いた。ペンギンもなかなかやるものである。この話をきいたなら、可愛いだけだなんて言わせない! ――というか可愛いなんて呼べないッ!
何がいいたいかって?
頭足類の触手ごときに縛られる我が身ではないのだ!
ふつうのペンギンならいざ知らず、マゾヒストに付き合わされて鍛練を積んだ身である。触手ごときは羊羹と同義!
あっさりとメリッと音をさせて引きちぎれた触手に、クラーケンは目を丸くした。――この時を待っていたのだよ! この時をな!
触手に高々と持ち上げられて、まるで戦勝品かのように掲げられていた私。そこから触手を引きちぎり、空中に飛び出た私。私は落下する際の位置エネルギーを上乗せし、私は嘴を下に向けてまっすぐに落ちていった――どこへかって? 決まってるじゃないですか!
――永久の闇にとらわれろ! 滅せよ頭足類!
きらりとクラーケンの瞳が輝いた。ギラリと私の嘴は輝いた。説明はそれだけで十分かと思われる。