最下位の再会
洞窟の中の異変を気にしながらも、私とあの青年の母親はひたすらに走っていた。私の前をいくのはあの青年の母親で、私はそれについていくのがせいいっぱいな状況だ。普通は歳を取れば、運動能力が落ちるはずなのだが。引退したとはいえ、元は凄腕の冒険者だから、これくらいは当たり前ということなのだろう。私が魔術系の職に就いているということを差し引いても、彼女の体力はすごかった。
なれない道に足をとられながらも走る私を、彼女は時おり案ずるように振り返ってくる。その度に大丈夫だと頷けば、ほっとした顔をされる。きっと、現役の時も彼女はパーティーの仲間にこうしていたのだろう。ちゃんと後ろについてこれているかと、置いていってはいないかと心配して。
洞窟を抜けて、あの一面の銀世界へ。彼女がどこに向かって走ろうとしているのか、洞窟を抜けたらすぐにわかった。
「何、この音……!?」
「何かはわからないけど、何かあるのは確実よ」
静謐で閑静だった森を、狂暴な騒々しさが支配している。耳をすませるまでもなく、生木が折れる音、何か重いものが倒れる音。それから獣のうなり声のようなものがこちらにまで届いてくる。音のする場所は、私たちがいるところより少し離れているように感じられたが、それでも生々しく聞こえてくる。私がその騒々しさに一瞬唖然とした瞬間に、雪が柱のように舞い上がったのが見えた。この騒々しさの原因はそこにあるのだろうと確信する。むしろ、あれ以外に原因があるとは思えない。
「洞窟の中にいても何となく変な感じはしてたけど……。外に出てくると流石ね、ちょっと分が悪いかも」
「分が悪い?」
「ええ。……まともな動物とは言えない何かが、そこにいる」
獣使いの勘よ、とその女性は微笑んだ。どこか懐かしそうな、胸を引き裂かれたような、そんな微笑みだ。見ていて悲しくなってくるような、そういう笑顔だ。
「──ねえ、貴女」
一拍ぶんの沈黙をおいて、獣使いの女性ははっきりと口にした。
「一緒に戦ってくれるわよね?」
もちろん、うなずいた。
***
「──罪を知って苦しむことと、罪と知らずに安穏と生きること。どっちが正しいんだろうなァ?」
ぱちぱちと薪のはぜる音。温められたやかんがしゅんしゅんと湯気を吹き出す光景。大きく武骨で堅い手が、私の背中を撫でている。
彼が何を言いたいのかが、何となくわかった。だから私は慰めるように、彼の手のひらをなめることにした。獣は慰め方をこれしか知らない。彼が私にするように、私が彼の体を撫でようものなら、私はこの鋭い爪で彼の体を引き裂いてしまうだろうから。
擽ってえな、と彼は嬉しそうに笑った。舌先で感じた彼の手のひらは、やっぱり堅い。武器を握っては何度もマメが潰れ、手がかたくなっていったのだろう。戦うものの手であり、武器を知るものの手であり、護るものの手であった。私は、この手が好きだ。弱いものと強いもの、その両方を知るこの手が。あの人にそっくりで。
「あいつももうガキじゃねえと思ってよ、伝えちまったけど。──親友の親を殺したのが自分の親なんて、知りたかなかったよな。……自己満足なのはわかってんだ。でも、誠実でありたかった」
ある種の苦悩をにじませながら紡がれる言葉に、私は言葉を返さない。元より、もはや人に通じる言葉を私は持ちあわせてなどいなかった。私は獣として生きることを選択し、ヒトの言葉を捨てたから。
「そこにどんな過程があろうと、罪は罪だと思うんだよ。──俺はまだ忘れられねえんだ。あいつを封じたときのこと。あいつを殺したときのこと」
相槌を打つように私は喉をならす。わかってくれるか、と彼は私に優しい目を向けた。
「殺したくなんかなかったよ。……だって仲間だったんだ。仲間なんだ。そうだろ? 背中預けあって、たまに馬鹿なこと言いながら旅してよォ」
背中を撫でる手が止まる。彼は涙を見せることはなかった。その代わり、一介の獣である私に、溢れでなかった涙の代わりに──言葉を溢した。
「旅の途中で、パーティーの奴らがくっつくなんてよくある話さ。それも勇者と女の魔法使い。王道だよ。ガキも身ごもって、そんで。そんで……魔法使いは平和な村で過ごさせることにした。パーティから外しちまった。生まれてくる子供には平和な世界を見せたいって、父親の鑑みてえなことを言いながら、勇者のあいつは俺たちと【魔王】を倒しにいった」
──そのままつまらない冒険譚になっちまえばよかった。
「魔王を無事に倒して、世界は平和に。勇者は生まれた子供のために冒険者を引退し、静かな村で幸せに暮らしました、と。それで良かったじゃねえか……」
そうはならなかったのだ。
私はその話をよく知っている。だからこそ、戻ってきた。だからこそ、選びとったのだ。
「忘れ形見のガキがいい加減育って。これからやっと……やっと、あの二人にも幸せな時間が流れるんだって、俺も思ってた。そうあって欲しかったからだ。……でも、それすらも実現しなかった。俺たちが望んだものは何一つ、実現しなかった」
私はもう一度、彼の指をなめた。虎らしく。獣らしく。そうすることしかできなかったからだ。人としての体を捨て、いつか彼を解放するために戻ってきたのだから。私の望む未来を作るには、人の体は酷く重いのだ。
たくさんの愛、思慕。連なる心と慈しむ気持ち。それは時として人の心を縛り付け、愚鈍にしてしまう。後ろ髪を引かれるというのなら、私はその髪を切ってしまおうと考えた。虎には、獣には、人に引かれる髪などない。そこにあるのは体を覆う柔らかな毛のみで、それはいつだって自分を守るためだけに存在するのだから。
久しぶりの友人の手は、相変わらず温かくて優しかった。
この温かな手で、息子を育ててくれていたこと──私はずっと、忘れない。
「──ん?」
急に外から聞こえてきた地響きに、彼は目を鋭く細める。たった一言、「不味いな」と呟いた。
「雪崩……ってわけでもねえだろうな」
ついてきてくれるかと彼は私に尋ねる。
私はそれに、喉をならすことで応えた。
***
「ちょっと──なに、この龍は?」
私のとなりで困惑した声を出したのは、あの【獣使い】の女性だ。雪の積もった森をかけ、異音のした方へ。走りきった私たちの目の前に現れたのは、【獣使い】の青年と、それから同じ年頃の青年が一人。八百屋のような格好をしているけれど、あれは何の冗談なのか? 雪国であんな薄着で外を歩くとは、およそ正気とは思えない。
が、それよりもっと信じがたいものがひとつ。大きな白い龍が、その彼らの前に立ちはだかっていたのだ。
「お袋!」
切羽詰まった声をだし、青年はどうしたら良いのかという顔をしている。その一方、私のとなりの女性はある一点を見つめ、呆然として──持っていた鞭を、取り落とした。
「──」
微かに、彼女の唇が動く。風にかきけされて、彼女がなんといったのかはわからなかった。けれど。
「久しいな、フルーシュタ。実に……何年ぶりだ?」
龍の胸の辺りに埋まった、謎の人らしきものが親しげに彼女に話しかける。知り合いなのだろうか? いや、こんな異形のものと知り合いであるはずはないだろう。目の前のそれは確実にこの世の理から外れたものだった。
「どうして……! どうしてまた、戻ってきてしまったの!」
今度の叫びは、風にかきけされることなどなかった。そうして私は理解する。
この龍は、甦った【魔王】なのだと。