たゆたうわかめ
《ホントに誰もいませんねえ》
《割と大げさに話してるのかと思ってたけど。本当にみんな森から抜けたんだね。……あの子たちと一緒に、【北海の迷宮】に向かってもよかったのに。懐かしい場所なんでしょ?》
《それはそうなんですけどね。でも、知らない人たちと一緒に行くのってちょっと照れちゃって》
えへへ、一緒に来たかったんですう、と照れ笑いをするクラーケン。ちょっとかわいいと思わないでもない。
クラーケンと私は、角狼たちと別れて問題の森に乗り込むことにした。
最初、角狼たちも共に来ると主張していたのだが、そこはフリッパーで黙らせておいた。一度ドラゴンに逆らって森を出た身なのだ。
もし、森でドラゴンに出会ったりしたら――あまりいい状況とは言えないだろう。
その点、私とクラーケンは相手方に面も割れていない。うっかり出会ったとしても、相手には敵か味方なのかもわからないだろう。
私からすれば相手は敵でも味方でもなく攻略対象だけれども。
《とりあえず、相手がどんなのかを見極めてから潰したいんだよね。だから、最初は【究極熊】のあなたに囮をしてもらいたい》
《喜んで! 森を出たはずの【究極熊】がいたら相手のドラゴンも気になりますもんね》
《うん。ちょっと危険だけど。……どうせ、痛いのは大好きでしょ?》
《……えへへ》
怪しい笑いを浮かべつつ、私を頭に乗せたまま、真っ白い森の中をのしのしと歩いている白い熊。
私が頭に乗っていなかったら、この場でその身をくねらせることくらいはしたに違いない。
動くかまくらとでもいうべきその巨体は、この雪国では比較的メジャーなフォルムである。
この地で【白熊】と言ったら、十中八九は【究極熊】のことを指すので覚えておくように。ちなみに、今私を頭に乗せているのは本物の究極熊ではなく――形態変化をしたあのクラーケンだ。
もとがタコだかイカだかよくわからない頭足類にあるまじき便利さである。気まぐれで仲間にしたあのころの私をほめたい。
こういう時にマゾは大活躍なのだ。何しろ苦痛が大好きなのだから。
普通なら囮なんて痛い目を見るかもしれないし、下手したら死ぬかもしれないのに――それすら求めに行くのがマゾという生き物だ。
私にはよくわからない。そして理解しようとしてはいけない生き物なのだ。今までの経験から私は学んだ。
マゾについて考えてはいけない。感じるべきなのだ。彼らの【困難】という名の【快楽】にまみれた煩悩だらけの生きざまを。
私にはそれを見届ける役目、許容する役目があるのだ――ウワァ、我ながら嫌な役目だ。
しかしマゾに落としたのは私の責任であるからして。
彼らに苦痛という名の餌を与えるのも私の役目なのだ。需要と供給が一致しているから、何ら問題はないだろう。ちょっと、いやかなり気持ち悪いくらいで。
《それにしても、ほんとに頭足類とは思えないね。蝙蝠にもなってたでしょ》
《蝋燭類?》
《頭足類。イカとかタコとかの仲間のことをひっくるめていうとそうなるの。前々から思ってたんだけど、イカなの? タコなの?》
のしのしと雪を踏み分け進んでいく白い熊の頭上で、イカだのタコだのと口にする日がこようとは思わなかったが――それを言ったらおしまいな気がした。私なんか今やペンギンなのだ。人として暮らしていたころは、ペンギンになる日が来るとは思わなかったのだから。もっとも、ペンギンになるだろうと予測して生きている人間がいたらそれはそれでどうかしていると思う。
イカなのかタコなのかという私の問いに、「タコだと思うならタコですし、イカならイカなんじゃないでしょうか」と白熊姿のクラーケンは答える。
別に哲学的な答えを要求したわけじゃなかったのだけれども、クラーケンはその気になればいろいろなものに姿を変えられるらしかったし――ある意味では正しい答えなのかもしれなかった。
《セクシーなの? キュートなの? って聞かれたら『キュート路線です!』って答えるんですけど》
《ゲテモノ路線の間違いでしょ》
《そんなあ。結構人気なんですよ、この触手。いろんなところにまさしく引っ張りだこで。たこだけに。――あっほら、特殊な性癖をお持ちでいらっしゃる方に大人気で》
《触手プレイのことを言っているなら、好意的にとってもセクシー路線だよ。キュートさはない》
《身もふたもない……》
何言ってるんだこいつ、と私はクラーケンを半眼で見てしまった。貴様も十分に特殊な性癖もちだろうが。
食われて喜ぶ生き物なんて、私はこのクラーケンしか知らないのである。
《うう……でも、『イカか、タコか』ですか。そうですね。実を言えば本当に、イカでもタコでもないんですよ、僕》
《そうなの?》
《元は……なんだかよくわからなかったんですよ。スライムのような、ドロドロぐにゃぐにゃした生き物だったと思います。昔の話ですけどね》
《そうなんだ……》
どちらにしろ触手ぷれいに欠かせない存在であったということはよくわかった。
その『ドロドロぐにゃぐにゃした生き物』からタコだかイカだかよくわからない姿となったのだから、まあよかったのだろう。よくわからないスライムが自分の腕を食われて喜ぶというのも精神的にきつい。姿がはっきりしているだけましだ。
食えと突き出されたものが得体の知れないスライムの一部分よりは、タコだかイカだかの足の方が安心して食べられる。
《【北海の迷宮】にいたころは、そこにあった水辺に生息してるタコを食べてですね。しばらくタコになってました。ある時、思い付きで“ここから出られるんじゃないか”と思って。そのまま迷宮から飛び出して、北の海にいたんです》
飛び出た先の海で『海洋の怪物』を貪ったりするうち、あのタコだかイカだかよくわからない姿になったという。タコであった姿がイカだか何だかわからなくなるまで食べたというのだから、本家本元のクラーケンもさぞかし大迷惑だっただろう。
大昔は航海に出れば結構な確率で目にされたらしいクラーケンが最近なかなかお目にかかれなくなったのは、もしやこいつのせいなのでは……。
マゾヒストの所有していた海洋生物図鑑にも、【激減の一途をたどっているかも】という一文が添えられていたような。それにしてもなぜマゾヒスト所有の図鑑はこんなにも文言が軽いのか。
図鑑なら「かも」などというあいまいな言い方は避けて断定してほしいものである。
《僕、生き物のかけらを摂取したなら、その姿になれるんですよ。この前の蝙蝠もそうですし。今回の究極熊だって、角狼さんが持ってた熊の抜け毛を分けてもらいましたし》
《抜け毛……もらってたんだ……》
《仲間のしるしなんだそうです》
その【仲間のしるし】を食べた、という解釈をしていいものだろうかと、私は究極熊に変化したクラーケンの白い背中を見つめる。
――そもそも私は熊の抜け毛が仲間のしるしとは聞いてないぞ……!
ちょっと仲間外れにされたような気分ではあるけれども、部下が親交を深めるのは悪いことじゃないだろう。末永く仲良くしてもらいたいものである。
《でも、この抜け毛だけでも結構おいしくて……究極熊さんの本体の方がどれだけおいしいんだろうって思うとよだれが》
――仲良くする前に胃袋を満たしそうで心配になってきた。
しかし抜け毛すらおいしくいただくとは。食の好みも特殊なのだろうか。
***
「ここ……は?」
「『覇過多の死王』を封じた場所よ。私たちが『相棒』を倒した後、覇過多の死王は行き場を失ったの」
北海の迷宮の奥深く。私はかつての『英雄』であった獣使いの女性に連れられて、どんどんと洞窟の奥へ。
進むにつれて植物が増えていく。本当にここは洞窟の中なのかと疑ってしまうほどに。
獣使いの女性はゆったりと笑いながら、「普段はここまで来ないのよねえ」と迷いのない足取りで進んでいくものだから、私は何度か彼女の姿を見失ってしまいそうになった。
【北海の迷宮】の入り口付近……少なくとも、浅い階層の段階ではおぼろげな光をこぼす花しかなかったのに。
いまや、目の前に広がるのは手入れを怠った庭のような……というと聞こえが悪いけれど、ありとあらゆる緑色、草と木々の色に支配された空間だ。
冷たく湿った空気が頬を撫で、どこからか水の滴る音がする。鼻先をくすぐっていくのはまぎれもない潮の匂いなのに。
「森……?」
目の前に広がるのは、まぎれもなく森だった。
ほのかに光っている岩肌には光る苔か、菌類か。よくわからないけれどそういったものが密集し、手で触れればしっとりと私の肌を濡らす。
細い蔦のからんだ木が、赤い実をつけて甘い香りを漂わせている。
――北国の、しかも洞窟の中で見られる光景じゃなかった。
どう考えても、自然というものに逆らって存在している【自然】だ。
寒い国では木々は育っても針葉樹だし、草は生えずに夏の間だけ苔が顔を出す――そういうものであるはずなのに。
「恐ろしい光景でしょう?」
私の隣に並んでいる女性は、あくまで優しい口調で私に語りかけてくる。
「北国の洞窟をここまで変えてしまう生命エネルギー。私たちが覇過多の死王を封じたのはもう何年も前になるけれど……そのころからずっと、この森はこうしてここにあり続けている」
「ここに、覇過多の死王は眠っているんですか……」
「ええ。この階層にある泉に沈めたわ。私はその泉に呪いをかけて、覇過多の死王をそこから出られなくしたの。……それから、その有り余る生命エネルギーをできるだけ浪費させようと、こうやって森を【育てた】わ」
「育てるって……」
「『覇過多の死王』の厄介なところはね、何にでもなれてしまうところなの。あれは……そうね。形で言うならスライムとか、アメーバの類かしら。魔王となりうる【越境者】がどんなものでも良いようにその姿をしているのだと思うけれど……」
だから泉に閉じ込めたのだと獣使いの女性は語る。
液体状のものを【泉】に閉じ込め、泉全体に呪いをかけて――その生命力のみを泉に溶け込ませて、この森を作ったのだと。
泉の水は少しずつこの洞窟全体にいきわたり、だからこそ覇過多の死王を封じ込めた泉周辺は森のような様相を呈しているのだと。
泉から遠ざかればあふれる生命力の供給も少なくなっていくから、木のような植物は育たない。その代りに、入り口付近に咲いていたような花などの比較的小さな植物が育つというわけだ。
「私と夫は、自分たちでこの地に眠らせた【覇過多の死王】の行く末を見届けようと思ったわ。だからこの地に根をおろした。この【北海の洞窟】に何も知らない人たちが踏み込むのも怖かったから」
「……そうですよね、こんな光景が広がっていたら……驚きますよね。最悪、その謎を解こうとする人がいるかもしれないし」
「そうなの。封じ込めたものを外に出されても困るし」
スープを作っている途中で丸鳥を出されてもねえ、と獣使いの女性はさらりと口にする。
あの覇過多の死王を丸鳥扱いしてしまうあたり、ものすごく豪胆だと思った。
「その……覇過多の死王は、今どうなっているのでしょうか」
「それを見に行くの。……最後に来たのは数年前だったけれど、大丈夫よ。ここまで森が存続しているなら逃げ出したりはしていないわ」
逃げたりしたら洞窟の入り口の花が真っ先に枯れるもの、と女性は付け加える。なるほど、と思った。
毎回毎回こんなに深いところに潜っていくのは骨が折れるし、今回は運よくモンスターなどにも出会わずに済んだけれど、一人で進む間にモンスターに襲われたりしたら面倒だ。
泉に異常があればすぐにわかる――というのは確かに便利だし、花屋である彼女が洞窟に花を摘みに来るのも不思議ではない。
「……あれ、でもここに花が咲いてるってこと、この集落の人たちは知っているんですよね?」
さっきちらりと出た話だけれど、ここに植物があるのだと知っているとしたら、その人たちがここに来てもおかしくはない。こんな雪国で北国なのだ。
花の存在は珍しいに違いないし、好奇心をくすぐるには絶好のネタだろう。
「知っているわよ? もちろんね。でもここは危ないモンスターがいるって話をそれとなく伝えているし――そんなところに私が入っていくのは【冒険者】だからって話で通しているから。花を見に行くためだけに恐ろしいモンスターの餌にはなりたくないんじゃない?」
「なるほど……」
咲いている場所が珍しいだけで、花自体は珍しくもない種類みたいだしね、と女性は続け。
茂る木々をものともせずに森に踏み入っていく。その姿は確かに森に生きるものというか……獣使い的だった。
あの青年はこの女の人のことは【調教師】だと言っていたけれど、【狩人】でも十分通じそうだ。
大雑把に分けてしまえばどちらも【獣使い】だから、そこまで大きな違いはないのかもしれない。
洞窟内の森を進めば、適当な場所で開けたところを見つけた。
そこに恐る恐る近寄った私は、泉の中を覗き込んで――ぞっとした。
泉に移るのは私の顔だけで、そこにはスライム状のモンスターなんていなかったのだ。
そこには――泉の中には、淡く輝いている太いタコの足だけが、まるで水面に漂うわかめのようにたゆたっていた。