冷やし青年始めました
昼でも薄暗く、厚ぼったい雲が空を覆っている。春になれば我先にと花が開きはじめるこの地は、今は雪に覆われて白い。見渡す限りの白、白、白――。雪の下で眠るのは植物たちで、雪のない場所で眠るのは動物たちだ。私の僕のような存在である獣たちも、この時期になると冬眠してしまうものがいる。
遠くで狼が遠吠えているのが聞こえた。それと同時に、吹雪の唸りと雪の花が舞い上がっては大地につもっていく。
なつかしい光景。ほう、とため息が漏れた。
冷えた空気に私の吐息は、白く曇って溶けていく。
さて、私は今北国にいる。
また舞い戻ってきたのだ。この、第二の故郷にッ!
旅に出てから半年もたたずにこの地に戻ってきたのは、マゾヒストの青年が戻ることを望んだからだ。あの少女から越境者云々の話を聞かされて思うところがあったのだろう。事実、私も気になり始めていた。
――“越境者と魔王のかけら……この世に産まれた破壊衝動が混じり合い、一つになったときに“魔王”は誕生するんです”。
少女は確かにそう言っていた。
私には魔王なんぞは何の関係もないし、あのマゾヒストの青年と同じで魔王の復活を阻止しようなどとも思っていない。私がしたいのはこの世界の統治であり、支配であり、征服だ――あれ、もしかしてこれ私が魔王になれば良いんじゃないか?
人の身から遠くかけ離れたペンギンの姿では、煩わしい世間体に縛られることもない。
越境者がどうだのと聞かされてから物思いに耽ることの多かった青年とは逆に、私はむしろ水を得た魚のようだった。何故か分からないがテンションは上がりっぱなしだ。見慣れた私の北国帝国に帰ってきたせいもあるかもしれない。ナイス吹雪! ビバ雪国!
私は久しぶりに踏みしめた雪の上で、ぼんぼんと跳ねていた。――やっぱりこの雪の感触は最高である。ごろごろ転がっちゃうのもオツなものである。暑いところよりは断然、こちらの方がいい。猛吹雪だってペンギンにはさほど関係ないし、困るところがあるとすれば視界が悪くなるくらいだ。何の問題もない。
私のすぐ近くには、凍りかけたような、枯れたとも言えない微妙な切り株に腰掛けている青年がいる。
もともとこの切り株は生命力が強く、馬鹿みたいに吹き付ける吹雪の中でも問題なく生きていた大樹だったのだが――私と青年がここを旅立つ日の少し前に切り倒されていた。何でも、木の中が傷み始めていて危険だったのだそうだ。
この木がまだ大樹として存在していた頃、コウフクロウがよく巣作りに来ていたのを思い出す。コウフクロウ――つまり幸福ろう。幸せを運んでくるフクロウだといわれているその鳥の居場所を奪ってしまうのは、と村の皆もあまり良い顔をしなかったが、木が折れて人が怪我をしてしまっては困るからと木を切ったのである。
「――越境者かー……」
ほう、と膝に肩肘付きながらうなだれる青年は、見た目だけなら絵になるだろう。猛吹雪の中で“考える人”のようなポーズを取っていても、イケメンとは許されるものなのだ。むしろ、イケメンだから許されるようなものなのだ。ただしイケメンに限る。この言葉ほど世の中の無情さを的確に表すものはない。顔面偏差値が高ければ猛吹雪の中で“考える人”のポーズを取っていても絵になるのだ。
――もう一度言おう。
――猛吹雪の中で“考える人”のポーズをとっている。
普通なら考える人のポーズをとる余裕などない猛吹雪だが、あいにく普通という言葉が駆け足で遠ざかっていくような青年である。旅に出る以前からこの北国で寒中水泳を繰り返した青年の体は普通ではなかった。寒さ耐性がここにすむ動物の遙か上を行っている。だからこそ、ごくごく普通に、春の木漏れ日の中で考えているような気楽さで悩んでいた――いや、悩んでいる時点で気楽ではないが。
青年が腰掛けているのは凍りかけたような切り株だ。北国ではそんなに珍しいものでもないし、私もたまにフリッパーを鍛えるためにガンガンぶっ壊していたこともあるそれだ。つまり堅いし冷たいし座り心地は最悪。何故そんな場所に座っているかと言えば――どうやら青年は、一人になりたかったらしい。
青年の家は、両親が有名なくせにわりとこぢんまりしている。ログハウス風の家はいつも暖かく、外よりは遙かに居心地が良い。けれど、部屋数が多くはないし、青年が一人になれる場所と言えば風呂場かお手洗いの二択になる。
どちらとも、そう長くは居座れない場所だから、と青年は慣れた屋外に出ることにしたらしい。外は猛吹雪だったが彼の両親は止めやしなかった。二人とも自分の息子の度を超した頑丈さをきっちり理解しているのだ。――まあ、幼少期から狼と追いかけっこをするような子供に心配は無用なのだろう。いわゆる「今更」ってやつである。放任主義にもほどがある。
「どーやって親父たちに聞くかなあ……」
ううん、と青年がうなった。頭を悩ませているのは仕草と表情で知れる。
ようするに青年は、“越境者”である自分の両親に話を聞くためにこの北国へと戻ってきたのだ。あの少女も一緒に。
青年は間違いなく少女ではなく虎目当てでこの旅への同行を改めて許可していたわけだけれど、虎にこの寒さはきついんじゃ無かろうかと私は少し心配していた。
が、虎の体調にはあの少女が特に気を配っていたし、青年の方も虎をしきりに気にしていたから、虎自身にはこの北国への旅路はあまり影響なかったようだ。虎の世話を通して青年と少女にほんのりと絆が芽生えたらしいことも、虎は私に教えてくれた。
――“いやあ、二人して私に寒くないか、辛くないか、なんて聞いてくれちゃってねえ。暴君虎と言われている私に、何を無駄な心配をしているのかと思ったが、悪くないねえ”
虎はあんがい陽気な性格のようで、私からすればまるっきり猫のようだった。たまに私の方を見てビビることを除けば、まあ気のいい友人かなと言えなくもない。船の中で虎の毛に埋もれながら眠ったが、あれは良いモノだった。なめらかなようでいてもふっとしたあの毛並みは少女と青年のブラッシングのたまものだろう。そのへんは褒めてやりたい。その調子で私の枕のお手入れをして差し上げろ!
ちなみにその虎と飼い主の少女は、青年の家でお世話になっている。青年が女の子を連れてきたことに青年の両親は色めき立ち、「息子がやっと人間に興味を持った!」「お赤飯炊かなきゃあ!」「ようやく心配事がどうにかなったッ!」と二人して手を取り合い跳ねていた。その気持ちは良くわかる。が、なんともぬか喜びになりそうな予感も――いや、信じるものは救われる、はず。
実の親にまでそう言われていても、青年は何の気にもとめずに「ちょっと戻ってきたよ」とほんの少し元気のない笑みを見せ、それから少女と虎を置いて外に出てきたというわけだ。
私は私で、私の帰還を北国の動物たちに告げるために外にでた。別に青年を心配したわけではないので勘違いなさらぬよう。ええ、別に何にも心配じゃありません。ほっとけばこいつ雪に埋もれるんじゃないかなんて思っちゃいません。むしろ埋まっておいてくれ、とすら思っています!
「真正面で――いやでも正面から聞くのはイヤだな……」
何をそんなに困ることがあるのか、と思う。聞きたいことがあるなら聞けばいいし、聞きたくないなら聞かなきゃ良い。
切りだした言葉が遠回しでも何でもいいから聞けばよいのに、青年はそれを迷っているようだった。
「――一回、頭冷やしてこようかなあ……頭冷やして、冷静になって、それから考えるべきだよな」
猛吹雪の中でも青年の囁くような小さい声は、わたしの耳にはよく聞こえた。そして思う。
――これ以上に頭を冷やせるところなんてあるのか。




