早く豚箱へ入れて下さい!
マゾヒストが皮肉にも素晴らしいサドっぷりを見せつけた日から二日後。
マゾヒストは見事に同類に堕とした船長に舵を取らせ、他の乗客を目的地におろした。それから何故か麻ぶくろに入っていたあの二人、船長に補給物資を補給させると、船をUターンさせた。何故か?
――シャチに“遊んで”貰うためである。
普段は気持ち悪いくらいに温厚な青年だったが――訂正しよう、気持ち悪い性癖の温厚な青年だったが、今回は本当にブチ切れたらしい。後は役所に任せればいいのにと私は思ったが、彼の調教方針は“目には目を、歯には歯を”であるらしかった。
彼は船長に舵を取らせ、船を冷涼な海水が存在している場所まで運ばせると――ちがうな、正しく言うならあまりの遅さにじれた青年が、クラーケンを使って船を冷涼な海水が存在している場所まで運ばせた、だ。海の怪物もこの船の船長も、今や立派なマゾヒストの下僕である……。あの鞭とは恐ろしい!
クラーケンはあのアホみたいに長かった船旅を二日に短縮した。つまり、私とマゾヒストは本来の目的地である南の地方の港から、二日足らずであの北国の海域に舞い戻ったのである。驚きである。さっさとクラーケン使っておけばよかったと思った。時は金なりである。
目的地――北の海のど真ん中――につくと、マゾヒストはクラーケンに“ちょっとシャチ呼んでくんねえ?”とまるで暇人を呼びつけるような気軽さでそういった。シャチとて暇人――暇シャチではないだろうに。私はクラーケンに《私が呼んだって言っといて》と付け足しておいた。これで急いでくるだろう。マゾヒストにもこれくらいのお礼はしておかねば。借りは作りたくない。
集まったシャチは私の姿を見て悦んで――いや、喜んで――私は《このおっさんたちと遊んでくれない?》と声をかけたのだ。シャチは全員一致で《食用可能っすかね?》と聞いたから、《下僕予定》と答えたら残念そうに《了解でさァ》と返した。従順でよろしい。
そんなわけでおっさん三人はシャチに遊んで貰っている。
冷たい海に浮き輪が三つ。そのまわりを取り囲む海の殺し屋。クラーケンは触手をわきわきとうねらせていたが、《食べものじゃないから》と私が釘を刺すと残念そうに波間にたゆたうおっさんを眺め始めた。見せ物だけどちょっとかじるくらいなら許してやろうかと思ってしまう。ちょっと可愛いのだ。落ち込んだ姿が。
「つ、つめてええ」
「北の海だからなあ」
マゾヒストはやんわりと笑いながらぷかぷかと浮いている船長たちを見ている。――今度から私はこいつのことを嗜虐趣味と呼ぶべきだろうか……。たぶん密猟者だけにこんな態度をとるんだろうけども。
シャチたちは波間の船長たちの周りをぐるぐると回りながら、ときおりその体をすり付けている。そのたびにヒッとおっさんたちは息をのんだ。こんなにフレンドリーなシャチさんたちにあんまりな対応である。これだから人間は。私の世界にいた水族館の飼育員を見習い給えよ。あのひとたちはシャチの口元に乗りながら泳いでいたぞ。勿論、こんな風な命の危険はなかったろうけど。
「たっ、頼む……! 引き上げてくれ!」
「シャチに喰われちまう!」
「密猟からも密輸からも手を引きますから!」
「やだ」
ばっさりである。すっぱりである。今度は密漁をしないことを先に宣言したのにも関わらず、いっそ潔くその命乞いに似た何かを青年は切り捨て、じっと波間に浮かぶおっさん達を見つめた。かわいそうに、おっさんたちは鼻水を垂らして歯をがちがち言わせている。人間には寒いことだろう。でも助ける気は起こらない。アンデスフラミンゴちゃんの恨みを私は忘れるものか。
シャチは段々ノってきたようで、ときおり口をかぱっと開いて男たちに脅しをかけている。そんなサービスは船長たちからすれば心からいらないだろうが、出血大サービスである。もっとやったれと私が密かに指示していたら、ボスのシャチがざばーっと出てきて船長に抱きついた。一瞬、船長の姿が海上から消える。海に顔をつっこまれたのだ。おっとこれは水没大サービスだ!
マゾヒストはそれを助けるでもなく淡々とみつめ、「海ん中気持ちいいかァ?」とチンピラよろしく語尾を上げた。気持ちいいのはお前くらいだよ。船長がざばりと蒼白な顔を出した。「さっ、寒いです……」とこたえる。
それが普通の人間である。寒中水泳でも気持ちよく泳いでいたヤツとは違うようだ。マゾに堕とされてもやはりシャチは怖いし海は寒いようである。まあ、当然か……。そうなると、私の隣でぷかぷかするおっさん三人をチンピラのごとく見ているこのマゾヒストはマゾの中でもおかしいやつということになるのだけども……本当になんなんだこの青年は。
「俺はさ、獣使いっていう職業についてる。でも、お前らみたいにそんなふうに獣を使いたいとは思わない。密猟とかアホかって話だよ、俺からすりゃあな。――でも、お前らみたいなのって絶対いるんだよな。生活とかあるだろうし、しかたがないとは思うけどさ、でも、俺の相棒にしたことは許さねェ。密猟云々はこの際どうでもいいんだ。俺は俺の相棒を盗ったのに腹立ててんだよ。人のものを盗ったら泥棒だろうが。せめて嘘ついて泥棒始めやがれ。気持ちよく騙されてやるからよ」
マゾヒスト――今はただのサディスト――はにっこりと吹雪を背負いながらほほえみ、ぴいっと指笛を吹き鳴らした。沈黙を守っていたクラーケンがぬっと現れる。海の男たちはさらに震えた。
「本当はクラーケンの食事にしてやりたいところだけど、それはやめとく。変なモノ食べて腹壊されても可愛そうだろ?」
《えっ、食べさせて貰えるなら食べたいんですけど》
クラーケンは物欲しそうな目でおっさんたちを見つめている。お腹壊すからやめておきなさいと私も言い添えた。いくら人のこない海上で、しかも目撃者もいないとは言え殺人はアレだろう。今後の私の活動に支障が出るからやめてくれ。一応周りには私はこの青年のパートナーとして認識されているわけで、その“パートナー”が殺人を犯すとなると私の行動まで制限されてしまう。
「反省したよな? してないなんて言わないよな?」
マゾヒストのそれに三人はこくこくと真剣に頷いた。命がかかっていたら首が痛くなるのもアホみたいに首を振るのも気にしないだろう。後で私もあいつらの額にアホみたいに首を振って嘴を当ててやろうかとおもう。私だって命かかってたもんね! 売られるところだったもんね! 売られる気はなかったけど!
三人に底冷えのする視線を浴びせかけた後、マゾヒストはもう一度指笛を吹き鳴らした。クラーケンが触手ビンタで男たちを海から弾き、船に無理矢理乗せていく。揺れるからやめてほしい。あと、お尻が痛そうである。船長はちょっと嬉しそうだ。船長もあの鞭のせいで完全に立派な変態に変態してしまったのか……。
「じゃあ帰ったら豚箱な」
青年はだめ押しのつもりで三人にそう告げたのだろうが、対する三人はほっとしたような顔をしている。それもそうだ、ムショの中では命の危険はあるまい。船長じゃない方の二人の男のズボンがシャチにかじられて破れていた。
予想していたお仕置きよりすこし生ぬるくないかと思われる方もいるのかもしれないが、考えてほしい。再三述べたが、この世からご退場願うわけにはいかないのである。この程度がぎりぎりだろう。年齢制限的にも。
***
あのあと超特急で私たちは本来の目的地にもどり、港で船長たち三人を警察みたいな人たちにつきだした。正しい名前はよくわからない。覚える気もないので警察みたいな人たちで十分だろう。
シャチとはまたお別れだが、私たちが海で人を消したいと思ったり、ちょっと簀巻きでぐるっとした人を食べさせたいなー、とか、怖がらせたいなー、とか思ったりしたら彼らと会うことになるだろう。そんなことにならないと良い、と――ここは良識的な人を装ってそう言っておこう。いつそんなことになって貰っても私は大歓迎です! 海の藻屑が増えて魚が肥えるだけです!
船長たちの件だが、犯罪の証拠である密輸リストがばっちり残っていたから言い逃れは全く出来ないようだ。
その上彼らはさんざん痛めつけられたのが身にしみたのか、「早く豚箱へ! 豚箱へつれていってください!」と訴え出るような有様だったから、そうとう堪えたのだろう。その言いようも聞き方によってはアレだよね。どれとはいわないけど。
連れて行かれる三人をマゾヒストは殺すような目で睨みつけ「あんなにフリッパーで叩かれるなんて……!」と悔しそうに唇をかみしめていた。エッ? そこなの?
せっかく格好いいなと小指の先ほどには思ったというのに、やはり残念である。お礼代わりに一発叩けば「はぁ……っ!」と気持ち悪い声を上げたので、私はやっぱり閉口するしかなかった。なんなんだこいつ。北国の生み出した災害か?
こうして、警察みたいな人たちに船長たちを引き渡し、私たちはようやっと改めて南の地を見ることが出来た。静かで荘厳な北国も良いけれど、陽気な南国も悪くない。なかなか良いじゃんと思いながらマゾヒストに抱えられたときに、私の首にひたりと奇妙なモノが触れあった。ちょっとひんやりしてイボイボとしたそれに、私はまさかとマゾヒストの首から見える長い腕を見てみる。
灰緑色のタコが、顔つきだけはまともな青年の首に巻き付いていた。間違いない、これはクラーケンだ。小型化してるけど! コンパクトサイズにメタモルフォーゼしてるけど! タコだ! 小型化タコだ! すごい!
一人でひとしきり空しく騒いだが、マゾヒストは「心配してくれたのか、ありがとうな」とにへにへと笑っている。別にあんたが首をタコに絞められてると思った訳じゃないんだからね! 本当なんだからね! ――おっと、図らずもツンデレ技法を披露してしまったが、本当に首を絞められているとは思っていない。こういう時に言葉が通じないのがもどかしいのだ。こいつは都合の良いように物事を解釈するからな……。
《海の外に出て平気なの》
《海の怪物ですから! これくらいなんてことないですよ!》
海の怪物だからこそ陸地はまずいんじゃないかと私は首を傾げたが、クラーケンは《塩が含まれている水さえあれば、ひとかけらからの再生も可能です! 塩は偉大ですよ! ナイスミネラルですよ!》と頼もしかった。
首に張り付いているのはもしかしたら青年の汗でも吸うつもりなのだろうか。というか、吸ってるんだろうな……。私は元の世界でおばちゃんたちが首に巻いていた濡らした布を思い出す。あれは本当に冷たかったのだろうか。あとでぬるくなりそうなものだけれども。
クラーケンを首に、私を抱えて歩く獣使いの青年には行きたい場所があるようだ。どこに行くんだろうなあ、とぼんやり考えていたら、彼はまよいない足取りで魚介類を取り扱っている食堂に入った――あれ? ここは……もしかして? 持ち込み可、調理いたします――って書いてあるけど、あれっ?