VS船のボス
私は誰に見つかることもなく船長室に向かうことができた。見つかったところで強制意識シャットアウトを仕掛ける算段だったから特に問題もない。この姿は確かに不便なこともあるが、法という一番重大なものからは解き放たれている素晴らしい体である。
狭い船内で人間をボコったくらいなら、動物がストレスたまりすぎて暴れたんだろうな――くらいにしか思われないだろうし、何よりこの見るからに弱そうなプリティーボディである。だれも私がボコったとは思うまい。見た目が良けりゃ何だって大体許されるのが世の常だ。人間の時は不条理だなあと思ったが、今は都合がいい。ナイスプリティー!
船長室は鍵がかかっていたけれど、扉が木製だった時点で私にとっては開け放たれているのと同義だ。マゾヒスト、北国の猛獣、その他諸々にふるいつづけて威力を増したフリッパーは、軽い一振りで扉を破壊した。侵入成功である。チョロい。チョロすぎて笑えてくるぞ!
「うおっ!?」
綺麗なお姉さんの“せくしー”な姿が乗っている本をでかでかと広げていた船長の髭面は、私の登場にひどく驚いていた。こっちだって驚きである。鼻の下をのばしているところ申し訳ありませんでしたが、乙女になんてもの見せてんのよ! 男っていつもそうよね! まあ、無防備なところを狙えたので突入のタイミングとしては上々だ。
テンプレートな男への罵倒をペンギン語でひとしきり叫んだ後――船長からすればガアガアうるさかっただけだろうが――、私はそっと船長に近づいた。目の前の髭面は扉を破壊して入ってきた私に怖じ気付いたのか、小型のナイフをチャッと構えて立っている。バカめ。ナイフごときで怖じ気付くような私だと思ったか? ナイフよりあのマゾヒストの相手の方が怖いわ! いろんな意味でな!
まあ、私のこの見た目にも欺かず、きちんと警戒するそぶりを見せたところはほめてやろう。――というか、扉を破壊した時点で欺きようがないけれども。それでもまだ油断してたらただのバカだけれども。
私がじりじりと近づけば、髭面もじりじりと後ずさった。ナイフは構えたままだ。私はさらに近づいた。お、そのおびえる顔はなかなかよろしい。小物じみてて圧倒したくなる。
船長は私が近づく度に後ずさり、私はそのたびに彼に近づく。彼に近づけばあの、私の閉じこめられていた魚臭い船室の臭いが強くなった。やはりこいつはグルだったらしい。私を船室に閉じこめたのはもしかすると、というかやっぱりこいつかもしれない。
フフ、と私は鋭い嘴を構える。突き出しただけともいう。
髭面のおっさんもナイフを構えた。こちらも突き出しただけだけど。
一拍。緊張した空気が張りつめ、限界まで張りつめて――切れた。
髭面がナイフを振り上げる。私に向かってそれを振り下ろす。おっと危ない。私は避けた。これで正当防衛も成立しますね! 過剰防衛行為を今からしますけど!
振り上げたナイフは私をかすることもなく、私は船長の足に一発フリッパー。チョロいもんです。
人間にしては見上げたことに、船長はフリッパーの一打では倒れなかった。すごく痛そうにしていたけれども、私をしっかりと見つめてまたナイフをふるってきたのだ――おっと、これは予想外。
予想外の攻撃にはさすがの私も対応できず、私の黄金のフリッパーにナイフがかする。危ないなー! と思わずあげた叫び声に、髭面はにたりと笑った。
「この際、剥製でも――」
やめろバカ、そんなことしたらお前の足にぶら下がってるきったねェの真っ二つにしてやるからな! 恋人の右手と永遠におさらばさせてやるんだからな! そんな心持ちで私は髭面をにらみつけた。もちろん、そんなお下品で汚いことを私は致しません。高貴でお上品な皇帝ペンギンですからねオホホ。一番の理由は嘴を汚したくありませんってやつだけど。何度かフリッパーでぶったたくかもしれないけど。
しかしフリッパーをやられたのはそれなりに痛い。感覚的じゃなくて、戦略的に。まあ叩いてつついてジャンケンポン! みたいな戦法に戦略的も何もないけど。
とはいえ、引く選択肢はまるっきりないし、このまま戦っても勝てる自信しかない。だてに北国の猛獣を実力統治していたわけではないし、左のフリッパーがやられたって右のフリッパーはある。ちなみに、最終手段は嘴である。大抵の動物はこの鋭い嘴をみただけでビビる。痛さを知っていたらなおさらだ。
さてどうやっていたぶってやろうかと私が一瞬思案した瞬間に、髭面が視界から消えた。
朱く染まった革の鞭に横っ面をはたかれたのである。髭面はその勢いで床に倒れ込み、ぐふっと息を詰まらせた。髭面が吹き飛ばされた勢いで、彼の手からこぼれた小型のナイフが倒れた髭面の顔スレスレに突き刺さる。惜しい。あと拳一個ぶんくらい横にそれてたらばっちり鼻に刺さってたのに。鼻をリンゴに見立てて、ナイフが矢でウィリアム・テルだったのに。あれ? ウィリアム・テルだっけ? まあいいや。
「――俺の相棒に何してんだコラァァ!」
見事な巻き舌でそう言い放ち、私が破壊したせいで穴のあいた扉を、完全に蹴破ってぶっ壊したのは北国の誇る最強のマゾである。ちょっと物憂げに見える美貌が母性本能をくすぐるらしい青年である。職業は獣使いであり、私にデレッデレな下僕である。将来が心配だ。非常に心配だ。性癖が一番心配だ! だが、今の登場の仕方はマゾじゃなかったらちょっと惚れてた。ものの見事に“ヒーロー”のタイミングだった。本人はヒーローどころかアレでソレなひとだけども。でも格好良かったと思う。多分。鳥類にはかなわないけど。
彼はいとも簡単に髭面の船長の襟首をがっしりと掴むと、片手だけで宙に持ち上げた。髭面の足が床から離れてる。ぶらんとブランコのようにかすかに揺れた。船長が。ホッキョクグマと相撲してた過去は無駄になってないっぽい。馬鹿力というのはこのことだろうか。
船長がさらに持ち上がった! 足が完全にぶらぶらしている! あっすごい! 意外と凄かったぞマゾヒスト! 殴られて悦んでるだけじゃなかったんだな! ちょっと見直したぞマゾヒスト!
今にも唾をその顔に吐き捨ててやろうかというマゾヒストの顔ったらなかった。人間やればこんな顔出来るのねってくらい歪んでた。怒りに。
うおー! これはちょっと間近でみるの怖いかもしれないね! 今マゾヒストに見られてるの私じゃないしどうでも良いけど!
ひっ、と恐怖の言葉を漏らし、恐怖で命乞いを始めた船長に、マゾヒストはちっと舌打ちをする。それから船長を床に放り投げてゲシゲシとふんだ。踏みまくった。すみませんでしたこれから心を入れ替えて密輸からは手を引きますと涙ながらに訴える船長に、「そんなことはどうでも良い!」と怒号を響かせて踏んでいた。いや、良くはないだろう。うん、良くはないな。
「密猟はどうかって聞いてんだァ!」
「みっ、密猟もしませんッ」
「ふつうは密猟しねェのが先だろうがァ!」
あっ、そっちでしたか。
この人ほんとに動物好きだなあと思う私の傍ら、言葉を完全に間違えてしまった髭面は遠慮なくマゾヒストにボコられていた。
この人マゾじゃなかったっけ? と首を傾げてしまうくらいのサドっぷりだ。命乞いすら聞き入れてない。私だってあそこまではやらない。というか、命乞いする前に屈服させてる。
「どっ、どうか命だけは――」
「命だけは助けてやるぜ勿論なァ。でないと罪も償えねェもんなァ! なんとか言ってみろよコラァ! なんとかって言えよコラァ!」
「な、なんとか」
「舐めてんのかコラァ!」
「ヒイッ」
マゾヒストは父親仕込みのチンピラ口調とチンピラ技まで披露し始めた。あのコンボを回避する術は私にもわからない。多分マゾヒスト自身も分かってないから、髭面は理不尽の塊をその身に受けていることになる。どっちが被害者かわかったものではない。あ、被害者は私か。あっでも今の状況見てるとそうは思えないな。でも自業自得ってことでいいよね?
彼もどうやら動物の密輸、密猟の事実に気づいたようである。動物好きの「獣使い」には許せないことなのだろう。
彼は懐から日誌めいた冊子――あの動物の密輸リストだ――を取り出し、床に伏した船長の髪をつかんで顔を上げさせると、それでぺしぺしと船長の頬を叩いた。おお、マゾヒストが極めてサディスティックな行いをしている。あそこまでのは初めて見た。鞭でバシバシ叩いてるのはたまに見かけたけど。
「お前らみたいなのがいるから動物が迷惑してんだよコラ。聞いてっか? ああ?」
「ひえええ」
完全にスイッチ入ってるなあ、と思いながら私はそれを眺めていた。そのうえ俺の相棒まで傷つけやがってとマゾヒストはにっこりと笑い、鞭を再度構えなおした。背中には北国のブリザードが見える。
「なってねえ獣には“お仕置き”が必要だよなァ?」
理性を失った人間は獣と同じ。ならばお仕置きは必須――と、北国の期待の獣使いは雪崩に伴う轟音のように低い声で、船長の耳元でそう囁いた。船長の顔は恐怖に凍り付いている。凍り付き方は永久凍土並だった。でも、私は傍若無人な皇帝なので慈悲の心も痛ましく思う気持ちもないのである。残念だったな。
後の結末は言わなくてもいいだろう。数分後に船長室にいたのは、女王の茨鞭で散々にひっぱたかれて立派な豚となった髭面のみである。彼はしばかれた後に縄で縛られると気持ちよさそうな顔をし始め、マゾヒストはそれに大いに顔をしかめたが――お前も同じ穴の狢だよ!
――でも、今回は私のフリッパーを丁寧に治癒してくれたので、そのお礼も込めて叩かないことにした。下僕といえ受けた礼は返すのが私流である。
人だって獣!