第二話・・・妹がブラコンになってしまったわけ
妹である杏は今年の春から高校生だ。重度のブラザーコンプレックスを抱えている少々残念な妹ではあるが、やはり唯一の兄妹なので素直に喜ばしい。
僕が北海道の大学合格が決まった日、杏は最後の抵抗に出た。
「私もお兄ちゃんと引っ越す!だってお兄ちゃんと私は生まれてから死ぬまでずっと一緒にいるって決まってるんだから!お兄ちゃんがいないと私、生きていけないの!ねぇ、なんで?なんでお兄ちゃんは離れちゃうの?嫌いになった?私のこと嫌いになったの?どうして北海道なんて行っちゃうの?お兄ちゃんは将来、私が養ってあげるから大学なんて行かなくていいんだよ?こんなに想ってるのにどうしてわかってくれないの?答えてよ、お兄ちゃん!私のこと愛してるならここに残ってよ!」
杏はそんな言葉を僕が親の説得に費やした文量と同じかそれ以上、近所迷惑になるくらいの叫び声で訴えた。杏は今までに見たことがないくらいひどく泣いていた。僕は今でもそれを忘れられない。
僕が中学三年生ぐらいになるまで両親は共働きだったので二人で過ごすことが多かった。僕には兄として妹を両親がいない間は守らなくてはという責任感というか義務感があったため、杏に対して過保護だったのは認める。
でも普通、どこの兄妹でもそうだと思う。妹が何か困っていたら家族として助けてあげたいし、勉強に関しても将来、妹が困らない程度の学力は維持させるため家庭教師としても頑張った。
だから、そうなったのは必然だったのだ。妹が僕に強く依存してしまったのは。
でも今、客観的に考えると僕もたぶん寂しかったのかもしれない。両親がいないことで妹が僕に依存する以上に僕は妹に依存していたのだろう。
僕が地元の普通科高校に進んでから状況が少し変わった。
父親の会社での地位と給料が増したこと、母親が仕事を辞めて家に常にいるようになったこと。その二つの理由により、僕と杏が夜遅くまで二人っきりになることは急激に減っていった。
二人であることに対してあれだけ依存していたのに僕はあっさりとその状況変化に対応した。
それも普通のことだろう。いや、一般的な兄妹からすると離れていく時期が遅かったのかもしれない。その時、杏は小学六年生で多感な時期だったはずだ。思春期を僕と二人で過ごすなんてお互いに良い影響を与えるはずがない。
僕も高校では人並みに青春しようとした。好きな人もそれなりにいたし、自分でいろいろなことにも挑戦した。そうしてあれだけ寂しがり屋だった僕は、いつしか一人で生きていきたいと思っていた。
でも、杏は依存が解消されることはなかった。そのことの対処法として微妙に距離を取ってしまったのが間違いだった。
完全に離れられなかった。
こういう話を聞いたことがある。子供は、例えば男の子であれば母親などの近くの異性を意識するそうだ。しかし、母親には父親という存在がいる。だから幼いながらもダメだと知り、マザーコンプレックスから脱出するのだろう。
杏の場合、残念ながら僕に彼女、恋人、フィアンセと言える人物がいなかったため、僕を異性として認識するプロセスはあっても、そのコンプレックスから抜けるプロセスに達することができない。
僕が北海道にきたことで、杏がコンプレックスから抜けてくれるといいのだけれど・・・・・・。
今、杏がどんな人間になっているのか僕は知らない。
北海道に移ってから最初こそは毎週手紙をやりとりしていたが(これは杏と十分話し合った上での二人の妥協点だった。僕としては月一で電話をかけるかかけないかぐらいにしたかったが、この条件を飲まなければ確実に刺されていただろう)、受験勉強が杏にはあったためそれに集中しなさいという両親の命令が下ったので渋々、杏はそれに従いここ半年は全く連絡を取っていない。
どのぐらいの高校に進学したのだろうか。自慢じゃないが杏は僕より賢い。教えられたことはすぐに吸収するし、それを応用することができている。たぶん、頭のいい学校に進学できただろう。
パーティーと称して、本来はあまり自宅で一人でお酒を飲むことはないのだけれど、コンビニで買ってきたクリアアサヒを一人で二缶ほど空にしたところでピンポーンとチャイムがなった。
時計の長針と短針は午後十時半を指していた。おや、こんな時間に誰だろう?
僕はゆっくり立ち上がり、玄関のほうに向かった。