竹林奇譚 外伝一 かけがえなき大切なもの
それはある晴れた秋の日のできごと。
この日、雲隠は日課の早朝の散歩から戻ってくると、これまたいつものように、朝食を求めて居間へと足を踏み入れた。
が、いつもとようすが違う。
通常であれば、雲隠が戻ってくる時間を見計らって、学然が朝食の準備をしてくれていた。
が、この日は違ったのだ。
居間は、雲隠が早朝に出たときとなんら変わりなく、卓の上にも何も置いていない。
しんと静まり返った居間を抜けて、台所を覗いてみる。
「学然?」
だが、台所の主はそこにはいなかった。
明らかに朝食の準備をしていたのだ、とわかる小麦粉やら野菜やらはそここに散乱したままで、学然は忽然と姿を消していた。
(何かあったのでしょうか……?)
食事を作っている途中で、それを投げ出すなど、学然らしくもない。
何かがあったとしか思えなかった。
心配になって、しばしの間、台所をうろうろした後、雲隠はふと思い立って居間へと戻る。
そこから中庭に続く扉を開けた。
もしかしたら、そんな勘が働く。
扉を開けたとたん、雲隠の視界に飛び込んできたのは、見事な竹の青。
その中に、これまた見事に色づいた楓の樹。
いつみても、この対比はとても美しい。
雲隠が思ったとおり、学然はその傍らにいた。
背後から声をかけようとして、寸前で雲隠はそれをやめた。
心あらず、といった感じで学然は楓を見上げていた。その瞳は深い悲しみで満たされていた。
そうして、何度も学然はため息をつく。
雲隠は心がぎゅっと締め付けられる思いで、彼の背中を見つめる。
思えば、学然はいつもこの季節になると、考え込むことが多くなる。
それがなぜなのか、雲隠は知らない。
彼に聞いたこともあったけれど、学然自身、どうしてなのか皆目わからぬ、という感じで苦笑された。
もしかしたら彼がここに来る前に、何かあったのかもしれない。秋という季節に――。
(いえ……でも、学然は――)
静かに首を振ると、雲隠は背を向け歩き出す。そうして、そのまま庵を出ると、先ほど散歩で訪れた泉のほとりへと、再び足を向けた。
こぽこぽと清らかな水を湧き続けさせる泉を前に、雲隠は瞳を閉じた。そうして、ゆっくりと息を吐くと、近くにある石へと腰を下ろす。
(わたくしは…なんと役立たずなのでしょう……)
彼があんなにも何かに心を痛めているというのに、自分は何もできない。
学然が落ち込んでいる理由を打ち明けてくれないのも、自分がそれだけ頼りがいがないからかもしれない。
妙に情けなくなり、雲隠は視線を地に落とす。
と、そのとき。
ぽん、と肩に触れるやわらかい感触。
振り向けば、そこには虎が一匹いた。
「どうした? 雲隠」
「ああ、あなたでしたか」
珍しい来客に、雲隠の頬は緩む。
「しばらくお見かけしませんでしたね」
「んー、ちょっとな」
虎は傍らにおいてあった小さな袋を口でくわえると、それを雲隠の手に置いた。
「ほらよ」
これまた珍しい虎の行動に、雲隠は笑った。
「どうしたんです?」
「そりゃあ、こっちの台詞だ。何があった?」
問われて雲隠は憂い顔で答える。
「わたくしは、やはり役に立たない人間なのです」
「そんなことないだろ?」
人間で言えば、まるで首を傾げるかのようにして、虎は雲隠の言葉を否定する。
「お前を訪ねてたくさんの人が来る。お前はそいつらの願いを叶えてやる。――十分役に立っているよなあ?」
ゆっくりと雲隠は首を振った。
「けれど、わたくしは身近な人間一人の心を救うことすらできていないのですよ……」
雲隠は視線を地に落とすと、自嘲気味に笑った。
「んー、イマイチよくわからないんだが、具体的に何があった?」
「学然のようすがおかしいのです」
「学然……」
ええ、とうなずき、彼の先ほどの様子を伝える。
「そ、そうか」
急にそわそわし始める虎。
「どうか…しましたか?」
「い、いや」
否定はするものの、明らかに挙動がおかしい。
目を泳がせ、何度もぱちぱちと瞬きをした。
「よ、用事をな、思い出した! 帰る…帰る!」
腰を上げると、くるりと踵を帰してあわただしく、その場から去ろうとした。
そんな虎に向かって雲隠は思わず叫んだ。
「月芳!」
ぴたりと虎が立ち止まる。
声をかけてしまったものの、次に何を言うべきか考えてもいなかった雲隠は、しばらく次の言葉を発することができずにいた。
つい口にしてしまった彼の本来の名。
彼は何も言わず、雲隠の次の言葉を待っていた。
「もし……」
雲隠がようやく口を開く。
「もしあなたが望むなら……」
虎はしばし無言でいた。
だが、低く言葉を返す。
「いや……いい。今はまだ…このままで」
虎は振り返らずに、今度はゆっくりと歩き始めた。
「ゆーんーいーんー!」
虎の姿が見えなくなった直後、ものすごい形相で学然が駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? 学然、あなたその顔……よくないですよ」
眉をひそめた雲隠になぞかまいもせず、学然はまくし立てた。
「トラはどこいきやがった!」
「は?」
「トラだ、トラ! あいつ、またしても俺の会心の作を~」
「学……然?」
ぎらっと学然は雲隠をにらみつける。
「まさかかくまったりしてないよな?」
「――学然……」
ふぅと雲隠は息をつく。
「どこ行った?」
何がなんだかわからないままではあるが、学然に聞いても今はまともな回答など返ってきそうもない。
雲隠は諦めたように、虎が去っていったほうを指差す。
「もう帰っていったと思いますが?」
「くっそーっ!」
学然はバッと雲隠を振り返り叫ぶ。
「食事は卓の上にできてる! 饅頭はないけどな! 恨むならトラを恨め!」
言って、そのまま走って虎が去った方向へといってしまった。
まるで嵐のように去っていった学然を見て、雲隠は優しいまなざしを向けた。
やっぱり学然はああでなくては。
(本当に、彼には救われてばかりですね……)
彼がいてくれたから、自分は今もこうして……待ち続けることができているのかもしれない。絶望せずに――。
心地よい風が雲隠の傍らを駆け抜けていった。
今日も竹青庵のあるこの竹林には、穏やかな時が流れている。
このお話は『竹林奇譚』の外伝になります。
もともとはサイトできり番のお礼として書かせていただいたものとなります。
ここで出てきた虎の「月芳」は、この後様々な物語に出てくることになります。