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左利き  作者: uta
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左利き





「スプモーニ、下さい」


「スプモーニ、ひとつ」


「あ、じゃあ、4人、皆スプモーニで」


「頑張った今日は、カンパリ系で、スプモーニを!」


「今日はスプモーニな気分かなー」


 気分かな、じゃねぇよ、このバカ! と罵声を浴びせたくなる気持ちをぐっと堪えて、俺は営業用の笑みを頬に張り付けながら、手にしたタンブラーに氷を入れて、毒々しい赤色を帯びたカンパリをそこに注いだ。






 閉店まで後一時間を切った頃、頭が2倍になる程に盛った常連客のキャバ嬢が、カウンターのスツールに腰掛けて、仕事帰りの深い溜め息と共に、「スプモーニ」と呟いた。


 本当に、今夜はスプモーニの注文が多い。おそらく最後の客となるだろう彼女のために、俺はスプモーニを作り始める。


 足元の冷蔵庫を開いてグレープフルーツジュースを取り出すと、その軽さに残量がいささか気になったが、日付変更線をとうに超えた時間だし、今日はギリギリ持ちそうだ。


 今日何度目になるか解らない手順を慣れた手つきで繰り返して、仕上げにトニックウォーターを入れ、軽くステアした。


「スプモーニ、お待たせしました」


「あぁ、ありがとう。ふふっ、スプモーニって響きが可愛いよね」


「えぇ、イタリア語みたいですよ。『泡立つ』って意味らしいです」


 へー、と抜けるような感嘆と共に相槌を打ちながら、彼女はスプモーニを喉に流し入れた。


 その姿を見て、改めて思う。スプモーニは華奢な女の子のための飲み物だと。少なくとも、アイツのような男のための飲み物ではない。女尊男卑と後ろ指刺されようと、それは動かしがたい事実だった。


「今日は、何かあったんですか?」


「何かって?」


「いや、今夜はやけにスプモーニの注文が多くて」


「……そーなの? 私で何杯目?」


「記念すべき10杯目です」


 あははっ、ラッキー、と明るい笑い声が店内に響き渡る。崩れたアイメイクに囲まれた瞳が柔らかに弧を描いた。目尻に愛嬌を帯びた笑いシワがきゅっと寄った。


 サービスです、と言いながら、白い皿にミックスナッツを乗せて、彼女に差し出した。ありがと、と弾むように彼女は皿を受け取った。


「あのね、私、本当はもっと強いのを飲もうと思っていたの」


 手入れの行き届いた指先でカシューナッツを摘んで、彼女は口に放り投げた。


「でも、アナタの顔を見たら、何だか『スプモーニ』って言っちゃって。もしかして、アナタの名前って……『スプモーニ』さん、とかっ?」


「もしかしなくても、違います。残念ながら、先祖代々日本人の家系ですよ。」


「そっかぁ。何でだろうね、アナタの顔に『スプモーニ』って油性マジックで書いてある訳でもないのに」


「あはは、お客さん、面白いこと言いますねー。……好きだったんですよ」


「スプモーニが?」


「いや、俺は甘い酒苦手なんですけど、俺の元・恋人がスプモーニばっか飲む奴で……、ってすみません。こんな話しちゃって」


 もう家路に着いたであろう客の下げたグラスを、カウンターについた流しで洗いながら、俺は口元だけで笑って、そう告げた。


 夜明けの方が近い平日の店には、店長に鍵を託された俺と、キャバ嬢の彼女しか残っていなかった。


「うふふ、お互い恋にまいっちゃってるわね。私もね、好きな人が今日結婚しちゃったの」


 乾いた表情で綺麗な笑みを浮かべ、彼女はグラスを傾けながら話を続けた。


「愛人のままでもいいって思ってたのにね。そんな手の届く人じゃないって解かってたのにね。やっぱ、結構切ないね。……ね、私だったら、何の名前が浮かぶと思う?」


「そうですね、……『ウォッカティー二』でしょうね。……そして、ボンド・ガールのあなたは『楊貴妃』ですよ、きっと」


 彼女といつも一緒に来ていたスーツの男性は、『007』シリーズが好きだった。


 いつか、ジェームズ・ボンドが好きなカクテルなんです、と作って出したら、それ以来、彼はウォッカティーニばかり頼むようになった。


 俺は、彼の顔も名前も覚えていない。でも、多分、一生会うことはないだろう。真昼間に、街中で鉢合わせたとしても、気付かないふりをするのが、夜に逃げてしまった後ろめたさを抱える彼に出来る最大限のサービスだろう。


 夜の街は、甘くない。でも、昼間とはズレた感覚で、変な所に甘い所を持つ。


「そうね、奥さんが彼を見たら『楊貴妃』が浮かんでくれるといいわ。……ねぇ、『スプモーニ』の人ってどんな人?」


「あー、アイツは正直『スプモーニ』って柄じゃないですよ。『生中』って感じですね」


「それは、酷いわよー。せめて『レッドアイ』とかー」


「あはは、単品ずつなら、そんな感じですね。お姉さんみたいに華奢でも、女の子っぽくも、綺麗でも、全然無いんですよ。トマトジュースとビールが大好きって感じのヤツでした」


 飲み終えた彼女のグラスの中を、氷がカランと音を立てて滑った。お互いに視線が重なり合い、それぞれの作り方で、力のない笑みを浮かべた。


「じゃあ、今度は『ウォッカティーニ』をひとつ」


「かしこまりました」


 慣れた手付きで、俺はグラスを手にして、後ろの棚からウォッカの瓶を取り出した。






 日常が戻ってくる。それは、俺がアイツと出会う前の何でもない日々の繰り返しだった。


 アイツがいただけで、人生薔薇色になったとかそういうのじゃなくて、アイツがいたから毎日が長く感じられた。記憶すべき事が毎日たくさん記憶の中に降り積もっていた。


「おまたせしました。ウォッカティーニになります」


 閉店まで後二十分。剥げかけたルージュの唇で、彼女はグラスに口をつけた。



 新しいアパートは店から徒歩十分の位置に借りた。近くには夜中までやっているスーパーもあるし、地下鉄の駅も近い。飲み屋も本屋もファーストフードの店もある。


 ただ、それらは景色となって俺の周りを覆っているだけだった。アイツがいなくなって、街が急によそよそしくなった。


 まさか、考えすぎだ、どんだけ乙女だよ、と心の中で自嘲して、俺は酒瓶を後ろの棚に返す。


 彼女がメンソールの細い煙草に火をつける音だけが、静けさに染み入った。涙が流れたら、煙草のせいにしてしまおう、と決して零れない涙を想った。


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