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左利き  作者: uta
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左利き





 立春過ぎたとはいえ、まだまだ寒い二月の終わり。二月と共に、俺は恋人の元を逃げ出した。


 脱色し過ぎた髪を綺麗に巻いているお姉さんに差し出された風俗のチラシを見た俺は、申し訳程度に笑いながら視線を外して、何もないようにして再び歩き始めた。口角を上げた瞬間、ぴりぴりと鈍い痛みが広がった。


 おにーさぁん、と誰かに向けた甘ったるい声が後ろから聞こえる。早朝の青い空気に俺の存在は流されてしまったようだ。


 自動システムが搭載された機械のようだと思った。コンビニで自動ドアを開けて店内に入ると、やけに軽快な電子音が流れるのと同じだ。形だけのサーヴィスに満足するのは、馬鹿だけど、皆馬鹿だから、形だけのサーヴィスを求める。


 まだ目覚めていない朝の街中を歩いていた俺は、道に面して立つ店のショーウインドーに顔を向かわせて、右の頬を確かめた。店の中には明かりがついておらず、静寂の暗闇だけが漂っていた。大丈夫、まったくもっていつもの頬だ。乾いた空気にカサカサになった唇を舌で軽くなめる。


 特に外傷の見えない様子に、軽く肩を竦めて俺は再びまばらな人込みに紛れ込んで、歩き始めた。行き先なんてひとつもない。仕事の時間まで、どうやって時間を潰そうかと、ネット難民に成り下がった俺はぼんやりと考えた。




 昨日の夜、泣きながら、頬を何度も何度も打たれた。泣きたいのも痛いのも、全部こっちなんだよ、と相手を殴り返していたら、すっきりしたのかもしれない。


 ただ、俺と向き合って悔しそうに涙を流す彼を見ていたら、俺の拳は握られたまま、だらんと力なく伸びた腕の端につけたまま動かなかった。そっか、そうだよな、と思う。お前はもっと痛いんだよな、って。

 

 拳で殴れば良かったのに、彼は平手で俺を何度も打った。ぱんっと軽い音が自分の右から聞こえてきた。彼の手のひらの形を残して、真っ赤に腫れる頬を、彼は痕をつけるように、何度も何度も打っていた。


 あの時、俺の瞳から涙は流れなかった。ぱんって自分の頬から響いた音が、まだ耳の奥で響いている。


 お前も、結局そうなんじゃん、と吐き捨てて、俺はアパートを飛び出して、ネットカフェの深夜パックで一晩眠った。


 ムダに豪華なリクライニングの椅子にまるまって眠ったら、腫れは引いて肌の色も元に戻っていた。


 彼は俺の仕事がバーテンだって知っている。青紫色や緑色の頬をして行ったら、マスターからクビを言い渡されるだろう。


 アルコールを出す仕事柄からか、強い衝撃を受けると人間の肌は鈍い色に染まってくれることを知っていた。刺青をいれるより、お手軽なイメチェンだ。ただ、難点は綺麗に染まってくれない事だろう。


 白々しく輝く蛍光灯に照らされて、目を覚ました俺は、ネットカフェのトイレで最悪な起き抜けの気分を振り払うように、手が痺れるような冷水で顔を洗った。頬が引っ張られるように、地味な痛さを感じさせた。右手で右頬にそっと触れて気付いた。アイツ、左利きだったんだな、って。

 

 思えば、俺を愛撫するあのやけに無骨な手のひら(今はエンジニアだが、大学時代はレストランで料理を作っていたそうだ)も、俺の店に来て大好きだとボトルキープまでしたフランス産の梅酒(円柱型の瓶で、浮世絵に感銘を受けたモネが描いた梅の絵のようなシルエットが白く印刷されている)も、左の手のひらで触れていた。

 

 基本的に、イイヤツなんだよな、と黒のダウンのポケットに冷たくなった手のひらを突っ込んで、俺はずんずんと人の少ない平日の道を行く。


 俺の勤め先の繁華街と、彼の勤め先のオフィス街は案外近い。真ん中の駅に住もうと決めたが、4つという偶数になってしまい、結局アイツがゴネて、俺の勤務先に一個近い場所にアパートを借りた。


 表札にお互いの名前を並べて書いた日が、嘘のように遠く感じられた。次の部屋はどうしようかと考える。貯金もあるし、職場付近にアパートを借りようと思ったが、不動産屋が開く時間はまだまだ先だ。


 急がなくても、元々持ち物は少なくする主義だったから、数時間であの部屋から出て行くことは簡単だと思う。家具家電は騒がせ賃としてアイツにくれてやる予定だった。貯金通帳の数字を思い出しながら、俺はぼんやりと道を歩き続けた。




 

 愛せないよ、って言ったはずだった。お前が悪いんじゃなくてさ、俺は人を愛せないんだよ、って一番最初に言ったはずだった。それなのにアイツは、じゃあその分も俺が愛する、って大見得切った。


 それなのに、平手打ちがオチだった。結局、お前も他のヤツと一緒じゃねぇか、身体だけなら他当たれよ、とか。興味本位で男と付合うなんて馬鹿だぞ、馬鹿、フツーに考えてキモがられるって、とか。一方的に声を荒げて、たくさんたくさん山のように言ってやったから、もう俺なんか嫌いになっただろう。

 

 俺は現実からも自分からも逃げている。本当は、怖いんだ。好きだ、愛してるって言っても、それは口に出した瞬間、空気の中に虚しく霧散するだけで、本当に相手に届いているのか解らない。


 そりゃあ、セックスしてる間に荒い呼吸と共に言えばそれなりに、興奮材料になる。シラフの時でも、ちょっと嬉しいと感じてしまう。


 ただ、俺等は人間だ。いくらでも嘘をつくことが出来る。口先では何とでも言えるし、セックスして、お互い高ぶっちゃったら、さっさとイってスッキリしたいじゃん。アイツのデカいし、一生懸命腰振ってる姿見ると、何だか大型犬とじゃれ合ってるみたいで、楽しかった。


 でも、終わると空しくなるんだ。こいつはいつ俺に愛想尽かすのかなー、こいつはどんな風に俺をなじってあの扉を出てくんだろうかなー、こいつはいつまで俺のこと好きでいてくれるかなー、って。




 もう失ってしまった昨夜までの生活。明け方近くに仕事から帰って、出掛ける支度しているアイツと一緒に朝飯食ってから笑顔で送り出していた。


 忘れ物しても、もう戻ってこないだろうって思う10分後、俺はトイレで液状化した朝飯を全部吐き出していた。胃袋が誰かに握りつぶされそうな程、痛かった。便器に突っ伏していると、何度も突き上げるように吐き気が込み上げて来て、最後は胃液さえ出なくなった。それでも、苦しさは収まらなかった。


 夜の仕事だから昼間に寝なきゃならないのに、怖くて一人でベッドにいられなかった。広いダブルベッドの果てしない孤独を噛み締めながら、これまた広い真っ白なシーツに転がっていると、まるで葬式に送られる死体になったような気持ちに襲われた。菊が供えられていたら、完璧に葬式だ。


 だったら、同業者と付合えば良い話なのだが、思うと、俺は学生やら会社員やら、昼の世界に生きる人間としか付合ったことがなかった。自分の面倒くさい性格に、ほとほと嫌気がさしそうだ。




 夜の世界は嫌いじゃない。大変なのは昼の世界も一緒だって、酒の勢いを借りて愚痴を零すスーツの人々を見ていて思う。別に夜に起きて、昼に寝る生活がしんどいって訳じゃない。むしろ、早起きの方がずっとつらい。


 結局、無いものねだりだ。俺は闇の匂いが染み付いてしまったから、光の匂いのする誰かが欲しいと思っていた。光の世界にいる人々が、闇の世界に憧れて、その入り口で戯れ、遊ぶように。

 




 朝焼けの大通りで、髪の毛が崩れたキャバ嬢が、胸の大きく開いたドレスの上に紺色のロングコートを羽織って、タクシーを止めた。大きなアクビをしながら、大きな鞄を手にした彼女がタクシーの中に吸い込まれた。





 俺の朝はいつだって、アイツがいつも着ている紺色のはんてんを羽織り、居間のこたつでころがっていた。テレビのスイッチを入れて、朝の情報番組を聞き流しながら、俺は重い瞼を閉じていた。


 きっと、今もこたつの机の上には、アイツの実家から送られてきた温州みかんが籠の中に山盛り置かれているに違いない。朝刊も綺麗に揃えられて置いてある。きっと冷蔵庫には麦茶が冷やしてあるだろう。


 甲斐がいしい良妻を持ったら、こんな気分なんだろな、とガタイの良いアイツがひらひらの白いエプロンをしている様を想像して、思わず吹き出していた。それは、あまりに幸福な記憶だった。




 幸せな気持ちが心を満たすたび、駄目だと思った。終わらせたいと思った。幸せと不幸は表裏一体だと痛いほどに感じていた。


 アイツがいるから幸せだけど、アイツがいると不幸だ。それはアイツと出会わなかったら、感じなかった想いだった。不幸が嫌で、いつか終わることが嫌で、俺は幸せを手放した。




 アイツのアパートでこたつに潜って、仰向けに寝転ぶ自分を想像した。天井を見上げると、蛍光灯から垂れた紐の先にアイツがゲーセンで取ったキティちゃんのキーホルダーが、朝の光に照らされてぶら下がっているのが目に映る。


 確か、アイツに誘われて初めて外で会った日だ。俺は、はちみつを食っているプーさんが欲しかったのに、アイツは何を聞き違えたか、ウインクをしているピンクのキティちゃんを取った。しかも、色は俺が一番嫌いなパステルピンク。


 男二人の部屋にパステルピンクのキティちゃん。想像しただけで、気持ち悪くなる、と俺は高くなる朝日に向けて、白い息で笑いを溢した。



 俺がバーテンをやっているバーに、大学生だったアイツがよくやって来て、俺を外に誘いだそうとしていた。聞けば同じ歳のようだった。


「お気楽な学生と違って、社会人は暇じゃないんですよ」とまだ猫を被ったまま、客に対しては随分とキツい言葉を吐いたはずなのに、アイツはめげずに何度も何度もしつこく誘ってきた。


 接客は慣れていたはずの俺に「ああウッゼーよ、お前」と言わせた張本人は、したり顔で「やっと本性出してくれた」と喜んでいた。「マゾかよ、バーカ」と言って、ヤツのスプモーニを作ったのを覚えている。


 アイツはスプモーニが好きだった。華奢な女の子が似合いそうなあの薄桃色のカクテルばかり飲んでいた。




 足を止めて、ダウンのポケットから右手を出す。そっと右頬を手のひらで包み込むように触れた。


 朝の空気に冷やされた頬に、手のひらの熱が吸い込まれていくのを感じた。感じないはずの痛みが、頬から全身に広がっていった。


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