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遭難したら自称神さまと出会いました

作者: 綾呑
掲載日:2026/02/01

「ここ、どこー!?」


 木漏れ日の差す静謐な森のなか、(たちばな)由香里(ゆかり)の悲痛な叫びがこだました。


「ど、どこで道を間違えたの……私は……」


 先ほどの声に驚き、軽やかにさえずっていた鳥たちが飛び去った今、あたりは完全な静寂に包まれている。


 がっくりと地面につきそうになる膝を支え、一縷の望みに縋りながら周囲を見回す。けれど見渡す限りの木、木、木。どれだけ目を凝らそうと、この目に映るのは方向感覚を損なうほど一面の木々である。


「もしか、しなくても……」


 さあ、と全身から血の気が引いていく。


 手元のコンパスはどういうわけかくるくると針をぶれさせ、正しい帰り道を示してはくれない。


 これまで多少の違和感を持っても、大丈夫と自分に言い聞かせてきたツケが回ってきたようだ。いまさら、脳が心臓へ焦るべきだと合図を出しても手遅れである。


「万全な準備をしたのにー!」


 楽観的に言えば『迷子』、絶望的な状況を飲みこむならば『遭難』してしまっていた。


 どうしてこんな山奥で一人、途方に暮れることとなったのか。こうなるに至った要因は、つい昨日のことだ。


「橘さん、やっとロッカー片づけてくれたんだね」


 にこやかに話しかけてきたのは教育係であり、直属の上司である。細かい年齢は知らないが、三十代くらいの見目をした女性だ。


 なんでも由香里が初めてできた部下だそうで、それなりに可愛がられているという自覚がある。


「よかった。処分してくれて――」

「あ、はい……!」


 どこか歯切れが悪く、それでいて勢いのある返事に、上司はそっと目線を下に落とした。


「その段ボール」


 由香里はきゅっと唇を結び、まるで、いたずらがばれた子犬のように目をそらした。そして、上司が漏らしたため息が、はっきりと聞こえた。


「それ、先週退職した塚本さんが置いてったもので合ってる?」

「はい、そうです」


 由香里のデスクの下、足元には小さな段ボールが置かれている。中身はインクがなくなりそうなボールペンとハンカチ、マグカップの三点だ。


 ボールペンとハンカチはロッカーに、マグカップは給湯室に残されていた。今朝回収したのだが、もう間もなく終業時間になろうとしている今も、それらはここにある。


「どうして掃除のときにゴミ捨て場に持っていかなかったの」

「その……ボールペンはともかく、ハンカチとマグカップは大事なものなんじゃないかと思って、なかなか」


 捨てるに捨てられなかったのだ。


「塚本さんが辞めてもう一週間も経ったじゃない。必要なものなら取りに来てるし、連絡よこすでしょ? そうしないってことは、いらないってことなんじゃないの?」

「はい、すみません……」


 上司の言うことはもっともだ。退職者が持ち帰らなかった私物を、いつまでも会社に保管しておくことはできない。


 それは、頭では理解しているのだが。


「それも仕事だから」


 割り切って、と踵を返した上司は部屋を出ていく前、最後に振り返って念を押した。


「じゃあ、帰りにゴミ捨て場に持ってってね」


 由香里はちらりと時計を見やる。


 定時まであと一時間もなく、それまでに覚悟を決めなくてはならなかった。


 ただ、捨てる。それだけのことが由香里には難しい。その理由もはっきりと自分のなかにあって、いまだに昇華できないでいる。


「由香里ちゃん、大丈夫? 怒られちゃった?」

「あ……はは、はい。大丈夫です」

「まー、他人の私物を捨てるのって抵抗感あるものね」


 同情してくれるのははす向かいのデスクで作業をしていたパートの女性だ。由香里が入社するよりもずっと前から働いているいわゆるベテランで、持ち前の包容力に何度も救われた。


「そうだ。最近ね、ハイキングにはまっているんだけど」

「ハイキングですか?」

「そうそう」


 脈絡のない話に、由香里はうつむきかけていた顔を上げた。


「山から見る景色って綺麗でねー。最初は筋肉痛がひどかったんだけど、今度は旦那も連れて登ろうかなとか思っちゃったりして」


 普段より少しだけ明るい声に気を紛らわせようとしてくれたのだと気づく。


「由香里ちゃんも、気が向いたら行ってみてね。綺麗な景色を見たらすっきりすると思うから」

「はい。まずは初心者向けの山を調べてみようと思います。ありがとうございます」

「それじゃあ、私もう帰るけど……ついでに置いてこようか?」

「いえ、自分で持っていきます。すみません」

「謝ることじゃないよー、気にしないで。お疲れさま。お先に失礼します」


 ぱたんと閉まった扉から目を戻し、小さく息を吐く。


 ――捨ててもらえばよかったかな。


 ありがたい提案を反射的に断ってしまった。しかし、上司の言うようにこれも自分の仕事である。いつまでも人任せにはできない。


「帰りにゴミ捨て場に置いて、帰るだけ……」


 終業後、由香里は段ボールを持ってゴミ捨て場へと向かう。帰り際、上司の視線が少しだけ痛かった。


 夕日が沈み切っていない外は、驚くほど橙色に染まっていた。


「お疲れさまです」

「お疲れさまー!」


 定時を迎えた社員たちがぞろぞろと建物を出ていき、それぞれの帰路についていく。由香里はそんな人の波に逆らい、ゴミ捨て場へと向かった。


「えっと、まずはボールペンを……」


 スマホの明かりをつけ、分別先を確認する。しかし、いざ捨てようとすると手が止まってしまった。


 ――やっぱり、無理!


 由香里は踵を返し、段ボールを抱えたままその場をあとにした。


「私はただ、現実から目をそらしたかっただけなのに……」


 まさか、現実から切り離されることになるとは聞いていない。


 退職者の私物を持ち帰ってしまってから迎えた週末。現実逃避するため、パートの女性に勧めてもらったハイキングに繰り出した結果が、今回の遭難である。


「スマホも圏外……終わった」


 意気揚々と登山装備を揃え、入山届を出し、疲労と戦いながら景色を楽しんでいただけのはずだったのに。


 いつの間にか登山道を外れてしまっていた。


「たしかに、こんな急斜面登る? みたいな場面があっておかしいなとは思ったけど!」


 ひとしきり騒いだところで由香里は天を仰ぐ。清々しいほどの青空が目に沁みた。


「こういうときって下るより、登ったほうがいいんだっけ……? いや、まずは来た道を戻って……」


 まずは深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。これまで、目印がつけられた木を何本も見た。おかしいと思い始めてからは見なくなったが、一時間も経っていない。


「よし、戻ろう」


 くるり、と由香里は身を翻す。相変わらずどこも木ばかりだが、目印さえ見つけることができれば登山道へと戻れるだろう。


 ――なんて、楽観的すぎたかも。


 スマホは圏外のまま、当てもなく地図を開いても現在地など見当もつかない。


 挙句の果て、ふと見上げた空は橙色を滲ませていた。ふるり、と体が震える。


 ――まさか、このまま……山で!?


 ど、ど、と心臓が早鐘を打つ。


 目に見えて暗くなっていく周囲に、血の気が引いていく。


「だ、誰かー! いませんかー!」


 助けを求める声に、応えが返ってきたことはない。それでも叫ばずにはいられなかった。


 葉の擦れる音、動物の鳴き声、悲鳴のような風の音。それらをかき消さなければ、気が動転してしまいそうだった。


「あっ……!?」


 ふらふらとした足がなにかに引っかかり、由香里は膝をつく。


「ったた……なに? 石?」


 由香里がつまずいたのは、四角く切り出されたような石だった。長い年月をかけて埋まったのか、地表から顔を出したのかはわからない。


「え、これ」


 あたりを見回すと、ぽつぽつと同じようなものがあった。


「……階段」


 顔を上げた先、石段が続いていた。


 気づけば、あたりは薄暗くなっている。完全に陽が落ちれば真っ暗になり、身動きが取れなくなってしまう。


「行ってみよう」


 ごくり、と由香里は息を呑み、導かれるようにして石段を上がった。


「うわ……とか、言っちゃいけないよね。ごめんなさい、神さま。許してください」


 石段を上りきると、崩れかけた鳥居に迎えられた。奥には同じく廃れた神社があり、雰囲気も相まって鳥肌が立つ。


 ――もしかしたら人がいるかもと思ったけど。


 さすがに管理されているとは思えない風貌の建物たちに、ここが廃れてしまっていることを察する。


「背に腹は代えられない」


 不気味で身が引けるが、この場所で一夜だけでも世話になることを決める。


 神社があるということは、かつてはここに人が出入りしていたということ。どこかしらに道が続いているだろう。


「祟られたりしませんように」


 念のため鳥居を避け、拝殿へと続く石畳を進む。


 鈴や賽銭箱がそのまま残されており、物寂しく感じる。


「失礼します」


 扉は半分開いたところでガッと止まった。少し力を入れてもガタガタと揺れるだけ。入ろうと思えば入れるが、由香里はまずライトでなかを照らす。


 板張りの床には土や枯れ葉がところどころに落ちていた。手入れされなくなってかなりの時間が経っているようだ。


 ――人は、いない。


 こういった場所は浮浪者や不良などが集まりやすいと聞く。そうでなくとも野生動物が住処としている可能性もある。警戒するに越したことはない。


「あ、ほうきだ」


 床にはほうきが転がっていた。そのほかにも儀式に使っていたであろう道具がちらほらとあった。


「動物に荒らされたのかな?」


 由香里は散乱した道具を隅にまとめ、ほうきで床をはく。


 一晩をしのぐスペースを確保して由香里は一息ついた。ずっと息を止めていたような感覚が消えた気がした。


「よかった。ライトつけて作業しておいて」


 レジャーシートに腰を下ろしたころにはもう外は真っ暗になっていた。夕陽だけを頼りにしていたら、闇に飲まれて身動きが取れなくなっていただろう。


「なんで、こんなことになっちゃったのかな」


 由香里は抱えた膝に頭をうずめる。じわりと目の奥が熱くなり、鼻をすすった。


 ――明日も帰り道を見つけられなかったら。


 一瞬、よからぬことを考えてしまい、勢いよく首を振ってその思考を追い出す。


「よし! せっかく神社に避難させてもらってるんだから、神さまにお願いしよう」


 バッと立ち上がった由香里の足がふらつく。一日中歩いていたのだ。少しの痛みと疲労感に再び座りつつ、ライトで照らしながら表に出る。


「綺麗な星空」


 ここには星の瞬きを遮るものはなにもない。満天の星空に感動しながら、由香里は握りしめていた小銭を賽銭箱へと投げ入れた。


 木の底に当たる音が小さく響き、由香里は手を合わせる。


 無事に帰れることを願おうとし、やめた。


「――あるべきものが、あるべき場所へ帰れますように」


 部屋の一角に置かれた小さな段ボール。手放さない限り、まだ、持ち主のもとへ帰れる。戻すことができる。


 だから、こんなときにも、こんなときだからこそ、願わずにはいられなかった。



 ◇◇◇



「う……ん?」


 ちゅんちゅんと鳥のさえずりが聞こえた。


「あっ!?」


 がばりと体を起こすと、全身に痛みが走った。完全に筋肉痛である。


「ったた。そっか、いつの間にか寝ちゃったんだ」


 欠伸を一つ落とし、由香里は目をこすった。


 けだるげな体に鞭を打ち、荷物をまとめていた由香里はふと外に顔を向ける。


「え?」


 参道に、人影のようなものが見えた。


 ――か、帰り道を聞けるかも!


 建てつけの悪い扉から転がるようにして由香里は駆け出す。


 鳥居の前に誰かが立っていた。


「あの!」


 声をかけた瞬間、正面から強い光が視界を覆った。ちょうど、鳥居の向こうに太陽が顔を出したのだ。


 ――子ども?


 逆光に飲まれる人影は小学生くらいの背丈をしていた。


 あまりの眩しさに由香里はぎゅっと瞬きをした。そうして再び目を開いたとき、それは朝陽をじっと見上げていた。


 ――じゃ、ない。


 自分の年齢とそう変わらないであろう二十代くらいの中性的な人だった。艶やかな黒髪が風でなびき、あの朝陽のように煌めいていている。


 あまりに神秘的な光景に目を奪われた。


「ん?」


 こちらを向いた黒い目に、呆けたように口を開けた由香里の姿が映る。不思議そうに瞬いていた目が、ふっと細められた。


「世界はかくも美しい」

「は、はい……?」


 聞き惚れるほど凛とした声に絆されそうになるが、由香里は口元を引きつらせた。


 ――なんて? 今、『世界はかくも美しい』って言った? え、なに?


 どっと疑問が頭のなかに溢れた。


 冷静になってみると、目の前の人物は白い和服の上に黒い長羽織をまとっていることに気づく。


 ――もしかして、この神社の管理人みたいな人?


 神職の方なら和装でこの廃神社にいても納得できる。


 ――ちょっと、若い気もするけど。


 多少の違和感を覚えようと今は目を瞑ろう。関係者ならば帰り道を知っているのだから。


「すみません、この神社の方ですか?」


 意を決して話しかけると、目の前の人物はきょとんとして由香里の後ろへと目を向けた。


「神社……うむ。そうだ! あれは私のものとなった」

「そう、ですか」


 屈託のない笑顔が可愛らしいが、口調が気になる。


 ――最近、跡取りになったとかそういうことなのかな?


 悪い人ではなさそうなのだが、なぜか不安が拭えない。知らない地で出会った、知らない人への警戒を、ただ簡単には解けないからだろうか。


「そなた、名をなんという?」


 言い淀んでいるうちに、一歩距離を詰められた。


 ――そなた!?


 なかなか癖の強い二人称に呆気にとられ、正直に名乗ってしまっていた。


「えっと、由香里です」

「ユカリ、いい名だ」

「あ、あなたは……」

「私にはまだ名がない」


 由香里はきゅっと口を結ぶ。


 ――小説みたいなこと言ってる! 名前がないってなに!?


 情報量の多さにめまいがした。


「なにせ、生まれたばかりの神だからな。そなたが名をつけてくれてもいい」


 詰められた距離だけ後ずさる。


 ――明らかに不審者……いや、まだ重度の中二病の線もぎりぎり。


 もしかするとまだ学生なのかもしれない。そう思うと、どことなく顔も幼く見えてきた。


「じゃあ、神さま……ここから」

「うむ!」


 元気な声に遮られ、怯みそうになるところを声量でカバーする。


「帰り道を! 教えてもらえませんか? 私、昨日から迷ってしまっていて」

「そうか、そなたは――」


 ほんの一瞬、『神さま』は悲しそうに、けれど慈しむような眼差しをこちらに向けた。


「帰り道とは、この山を出ていくということだな?」

「そうです。登山道まで出られたら……ん?」


 ぽた、と鼻先に雫が触れた。


 空は青く澄んでいるのに、大粒の雨が降り注いだ。


「雨っ!?」


 由香里は神社の軒下へと駆けこんだ。


 ――山の天気は変わりやすいって聞くけど……雨雲とかないの!?


 髪や肩についた雨粒を払っていると、先ほどの位置で佇む神さまの姿が目に映った。


「早くこっちに来ないと濡れちゃいますよ!」

「む?」


 なんてことない顔をして、神さまはゆっくりと軒先をくぐった。


「え?」

「どうかしたか?」

「い、いえ……」


 由香里は顔をそらし、リュックから出したばかりのタオルをそっと戻した。


 ――濡れてない……? こんなに雨が降ってるのに?


 よほど撥水性のある髪質と服なのだろうか。いや、いくらなんでもありえないだろう。


 ――神さま。


 その言葉が、どこか現実味を帯びたような気がした。


「帰るのではなかったのか?」

「こ、この雨のなか帰れるわけないじゃないですか!」


 思わず声が大きくなる。


 神さまはきょとんと目を丸くし、空を見上げた。


「……そうか」


 ふ、と眉が下げられた。


 ――え、なんでちょっと嬉しそうなの?


 由香里は肩を落とし、階段に腰を下ろした。


「狐の嫁入りだから、すぐに止むかな」

「狐の嫁入り?」


 神さまは小首を傾げた。


「晴れているのに雨が降る現象のことを、狐の嫁入りっていうんですよ」


 ほかにも呼び方があったはずだが、あいにく思い出せない。調べてあげようと取り出したスマホは圏外を表示し、現実に引き戻された。


「つまり、この山で狐が婚儀をあげているということか? 今まさに?」


 不可思議な現象に名前を付けただけで、実際に狐たちが結婚式を挙げているわけではないだろう。


「それはめでたい!」


 それでも、自分のことのように頬を綻ばせた神さまに、そうだったらいいなと思わされてしまった。


「あ」


 由香里はさっとお腹を抱え、背中を丸める。そんなささやかな抵抗もむなしく、ぐう、とお腹が大きな音を立てた。


「昨日のお昼からなにも食べてないんだった」


 言い訳を口にしながら、顔が熱くなるのを感じる。


 あんなにも晴れているのに、雨はまだ止む気配がない。しばらくここで雨宿りをすることになるだろう。


「神さまだったら、この雨を止ませることはできないんですか?」

「それは無理だ。私にはそのような強大な力はまだない」

「残念です」

「む……」


 神さまは悔しそうに口を尖らせた。


「なにをしている?」

「ゼリーを食べようと思って。腹が減っては……下山もできないでしょう」


 おやつとして持ってきたゼリーがたくさん残っている。小分けにされたもので、水分補給も兼ねて気軽に食べられるタイプだ。


「食べますか?」


 手のひらに二つ乗せて差し出すと、神さまはそれをまじまじと見つめる。


 ――ずっと見てるな……。


 自分は座り、神さまは立ったまま。そのため差し出す腕の位置は高くなり、筋肉痛の体にはかなり厳しい体勢である。


「いらないんですか?」

「い、いる!」

「なら早く取ってください。このままだと腕が死にます」


 ほしいと言ったものの、神さまは一向に受け取ろうとはしない。


「いらないってこと?」

「初めての供え物だ。快く受け取ろう。だが、私は触れることができない」

「は?」


 相手はきっと子どもだ。普段なら目くじらを立てることもない。しかし、疲労と寝不足、空腹が重なり、頭が痛くなる。


 ――中二病って、面倒くさい。


 こうも徹底的に『神さま』という人格になりきるのはもはや尊敬に値する。だが、今、それに付き合ってやれるほどの余裕が由香里にはない。


 帰り道を教えてもらってない以上、遭難していることに変わりはないのだから。


「な、ならば……」


 よほど目つきが悪くなってしまったのか、神さまはびくりと肩を震わせた。


「あの上に置いてくれ」


 神さまが指さしたのは賽銭箱だ。


「ええ……」


 由香里は一度立ち上がり、賽銭箱の縁にゼリーを二つ置いてからもとの場所に座り直した。


 それからゼリーのほどよい甘みと冷たさに、抱えた熱が冷めていく。


「そなたはなぜ、ここへ来たのだ?」


 ふいに話しかけられ、危うく喉にゼリーが詰まりかける。


 ――なんでって言われても。


 神さまには悪いが、別に好きでここに来たわけではない。山のなかで道を見失い、途方の果てに辿り着いただけなのだから。 


「パートさんが、山を登って、景色を見ると気分が晴れるって教えてくれたから」


 雨の向こうで輝く太陽の眩しさに目を細めたとき、遠い昔の記憶が脳裏に浮かんだ。


 捨てるべきだと思った。けれど、それが間違いだったと気づいたのは、ずっと、ずっとあとのことで。


 幼い由香里が善意でしでかしたことは、その人からしてみれば悪意でしかなかった。


 ――あの人は今、どう生きているんだろう。


 当時のことを鮮明に思い出してしまい、眉間をほぐす。


「そういう神さまは、どうしてここに?」


 異様に視線を感じて見上げると、神さまがなにか言いたげにじっとこちらを見下ろしていた。


 ――え、なに?


 もしかしたら聞いてはいけないことだったかもしれない。それこそ、由香里と同じで現実逃避をしている可能性もあるだろう。


 ――学生なら、時期的に春休みかな。


 二、三年前までその立場だったはずなのに、もう懐かしくすら感じる。


 ――明日、会社休もうかなぁ。


 さすがにこの二日間の疲れは、一晩寝ても回復する気がしない。


「憂鬱だなぁ」

「なにを憂いているのだ?」

「ああ、声に出てましたか。すみません、気にしないでください」


 ゴミを片づけながら、由香里はリュックのなかで指に引っかかりを覚える。そのまま引っ張り出すと、それは地図だった。


 ――ここから出発して、この道を通って……。


 入山届を出した場所から、指を滑らせていく。


 ――ここら辺に、登山者たちが目印にしてるっていう岩があって。


 その岩はたしかに見て、通過したはずだ。けれど途中から、どこから道を外れたのか。それすらわからなかった。


「この一帯の地形か?」


 神さまは身をかがめ、興味津々といった面持ちで覗きこんできた。


 その視線を少し煩わしく感じていた由香里だったが、はっとして顔を上げる。


「む?」


 ばちっと神さまと目が合う。


「この神社の名前、教えてもらえませんか!?」


 由香里はさっと顔を戻し、地図に書かれた文字を片っ端から確認していく。


 現在地さえ把握できれば、あとは太陽の位置から方向を知ることができるだろう。


「すまないが……名は知らぬ」

「いやっ……そういうの、いいですから。ほんとに」


 語気を強くしてしまいそうなところをぐっと押さえる。


「……本当に知らぬのだ。私はそなたの祈りで」

「もういいです」

「ユカリ!」


 由香里はレジャーシートを雨除けにして飛び出した。


 どこかに神社の名前が書かれた石などがあるはずだ。それを探すため、ぱしゃぱしゃと石畳を進む。


 ――鳥居には、書いていない。


 崩れかけの鳥居をぐるりとするが、残念ながら神社の名前は見つけられなかった。


「ユカリ――」

「自分で探すので、大丈夫です」


 石段を下りていた由香里が振り返ると、鳥居の下まで追いかけてきていた神さまの姿がふっと見えなくなる。


 ――突き放しすぎた? でも、さすがにあれは……。


 こちらは深刻なのに、ふざけられたら誰だって腹が立つだろう。それでも、少し冷たくしすぎたことを反省しつつ、由香里は石段の周りを探索する。


「あっ」


 諦めかけたとき、小さめの石柱が倒れているのを発見した。石段とは明らかに形の違うそれに、名前が書いてあると直感する。


「この台から落ちたんだ」


 石柱に指をかける。冷たくて、体温が奪われていくのを感じた。


「うっ」


 石柱は地面から膝くらいの大きさだが、それなりに重い。体重をかけながら何度か踏ん張ると、ようやくひっくり返すことができた。


「嘘……」


 なにも、書かれてはいなかった。正確に言えば、なにかが彫られていたことは間違いない。だが、風化や劣化により、それを読み取ることは不可能になっていた。


「っ」


 由香里は絶望に打ちひしがれながら、石柱を台に立てかけた。


 手は泥で汚れ、かじかんで痛い。じわりと目じりが滲んだ。


 由香里はとぼとぼと石段を上がる。そこに、神さまの姿はもうなかった。


「え?」


 だが、鳥居をくぐった瞬間。目の前が揺らぎ、神さまが現れた。


「ユカリ! ああ、こんなに汚れてしまって」

「え、え?」


 由香里は目を瞬かせる。


 石段を上がり切った時点で神さまの姿はどこにもなかった。てっきり、居心地が悪くなって帰ったのだと思ったのだが。


「な、なん……っ」


 頭が真っ白になり、由香里は後ずさる。すると、空気が揺らいで神さまの姿がふっと消えた。


 一歩前に出ると、現れる。一歩下がれば、また消えた。


「もうよいだろう!」


 前に出て、再び下がりかけたところを神さまに止められる。


「さ、錯覚? なんか、こう……光の屈折みたいなので……」

「錯覚ではない。説明をするから、ひとまず向こうへ」


 神さまが指さしたのは神社のほうだ。


 たしかに、雨よけのレジャーシートはほぼ意味をなしていない。由香里はまだ戸惑いながらも軒下へと入った。


「私は、そなたの祈りによって生まれた神だ」


 中二病、とはもう思えなかった。


「そなたが領域内にいれば顕現できるが、外に出れば形を保つことすらできないのだ」

「ほ、ほんとに……本物? 本物の神さまなの……?」

「……最初からそう言っただろう」


 神さまはむっと顔をしかめる。


「じゃあ、この雨も止ませられるんじゃ?」

「それも無理だと言ったはずだ。私も驚いたが、この雨は偶然だ」

「ほんとに神さま……?」

「私は天候を司る神ではない! そもそも、生まれたばかりの身でそのような大業を成し遂げられるわけなかろう。信仰もないため、無力に等しいのだ」


 由香里はぎくりとする。


 ――だって、中二病をこじらせた人だと思ってたんだもん。


 はっきりと『信仰がない』と告げられ、いたたまれなくなった。


「私は、そなたが場所を整え、祈りをささげたからここに生まれた。だから、私は領域から出ることもできない」

「ちょ、ちょっと待ってください」

「む?」


 先ほど、神さまが言ったことを思い出す。


「じゃあ私が下山したら、神さまはどうなるんですか?」

「消えるだろう」

「消える!?」


 目を見開く由香里に対し、神さまは目を伏せた。


「そなたがいなければ、私はこの世界に存在できないからな。見方を変えるなら、そなたが忘れてくれたら私も消えることができるのだ」


 どくどくと心臓の音がうるさくなる。


 さらりととんでもないことを言っていないだろうか。


 ――私が、生み出した。私が。


 漠然とした事実がざらりと心を撫で、由香里は息を詰める。


 一晩をしのごうと拝殿の一角を片づけたから。身勝手な祈りで心の整理をつけようとしたから。


 ――また私は、取り返しのつかないことを……?


 ぐるぐると後悔が押し寄せて、ずんと重くのしかかる。


「ユカリ」


 するりと耳に入ってきた呼び声に、はっと顔を上げる。


 神さまが鳥居のほうへ指をさしていた。由香里もそちらに顔を向ける。


「あるべきものは、あるべき場所へ帰らなくては」


 昨夜、願い、ささげた祈り。


『――あるべきものが、あるべき場所へ帰れますように』


 つん、と鼻の奥が痛くなった。


「大丈夫だ。そなたは帰れる。……私にこの世界を見せてくれてありがとう。そなたのおかげだ」


 屈託のない笑顔に、由香里は賽銭箱の縁に置いたゼリーを掴み、リュックを肩にかけて走り出していた。


「――最後に、神さまらしいことをさせておくれ」


 いつの間にか雨は上がっていて、近くの空に虹が見えた気がした。


「これも……っ」


 階段を下りた先で、台に立てかけた石柱を前に足を止める。


 罰当たりなことだと思う。けれど、しなければいけないと思った。


「ッ!」


 石柱をもとあった状態に戻し、再び走る。罪悪感に苛まれながら、けれどこれが贖罪なのだと振り返らない。


 長い間、走り続けた。息が上がり、肺が痛んだ。それでも、足がもつれようと走り続けた。目印はなくとも不思議と、道は間違っていないと思えていた。


「っ……?」


 ふいに、どこからか人の声が聞こえた。


「要救助者発見!」


 目の前に現れたのは救助隊だった。


 助かった、そう思った瞬間、堰を切ったように涙があふれる。安堵からか、しばらく声を上げて泣いていた。



 ◇◇◇



 由香里は病院へ搬送されながら、入山届から救助隊が要請されたことを教えられた。そして、ずっとゼリー二つを握りしめていたことも指摘され、恥ずかしさから涙は引っこんでいた。


 それから翌日、会社に遭難したことを説明して有休をとり、さらにその翌日、由香里は普段通りに出社することとなった。


「橘さん、ちょっといい?」


 遭難したという噂は広がっていて、尋問のような質問攻めが終わってようやく一息ついたころ。由香里は上司に呼び出された。


「昨日、連絡もらったときはなんの冗談かと思ったけど……体調は大丈夫なの?」

「はい。お医者さんからも問題ないと診断をいただいています。怪我もしていないですし、問題ありません。今回はご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「謝ってほしいわけじゃなくて……その、一つ聞きたいことがあってね」

「なんですか?」


 上司はどこか居心地が悪そうに切り出した。


「塚本さんの私物って、金曜日の帰りに捨てちゃったよね?」

「あっ!」


 大きな声が出てしまい、慌てて口をふさぐ。


「す、すみません。私、結局捨てられなくて持って帰っちゃって……忘れてました! 今日帰ったら捨てて――」

「待って!」

「へ?」


 上司はほっとしたように息を吐いた。


「あのね、昨日……塚本さんから会社に電話があって。置いていってしまったもの、残していないかって」


 塚本の退職は急であった。なんでも、身内に不幸があって気を病んでしまい、衝動的にやめてしまったそうだ。


 本来ならば一か月前より申請が必要だが、事情を鑑みて早急な退職が許されたらしい。


「ハンカチがあったでしょう? あれね、亡くなった方からいただいたものなんだって」

「じゃ、じゃあ……」

「明日、持ってきてくれる?」

「もちろんです!」


 胸の奥が熱くなりながら、由香里は大きくうなずいた。


「こんなこと言うとあれだけど……橘さんが持っていてくれてよかった。金曜日、きつく言っちゃったのに」

「やっぱり――あるべきものは、あるべき場所へ帰るんですね」

「そうね……?」


 上司はピンと来ていないようで、少し不思議そうな顔をしていた。


 そうして定時、由香里は残る仕事に後ろ髪を引かれつつ、帰宅の準備を始めた。


「橘さんは残業しないで帰ってね。少しでも体を休めないと」

「はい、お疲れさまでした!」


 由香里は小走りに帰路へ着く。


「――」


 いつもは、目もくれないで素通りしてしまうそこに、由香里はふと目を向けた。住宅街の一角に突如として現れる、綺麗な石段。その上には、小さな神社がある。


「神さまって、本当にいるんだね」


 鮮やかな朱色の鳥居の下、少年が笑っていたような気がした。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

少しでも心に残るようなお話になっていたら嬉しいです。

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