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終末アシスタント

作者: 雉白書屋
掲載日:2025/10/15

 世界が終わる日、おれは目を覚ました。

 終末時計の針はとうに引きちぎられたというのに、部屋の目覚まし時計の針は今日も律儀に規則正しく時を刻んでいる。ただ、いつもより早く目が覚めてしまった。どうやら興奮しているらしい。まるで遠足の朝の子供のように。


『おはようございます。いい朝ですね』


「……素晴らしい皮肉だ。さすがエステマ社だな」


 ベッドを出て、リビングに足を運ぶと、マニカがいつものように出迎えた。

 マニカ――アンドロイド業界で圧倒的シェアを誇るエステマ社が開発した家庭用アンドロイド。磨き抜かれた白磁のような体、わずかに温度を宿す指先。高性能AIを搭載し、掃除、洗濯、日常生活のあらゆるサポートをこなす存在だ。彼女は変わらない。たとえ世界が崩壊に瀕していようとも……。


『お体の調子はどうですか?』


「ああ、問題ないよ」


 おれは大きく伸びをしながら答えた。筋肉が軋むような倦怠感が少しあるが、これはいつものことだ。おそらく一生ついて回るだろう――もっとも、あとわずかの話だが。


『もう少し、お休みになってもいいんですよ』


「大丈夫だ。世界が終わる五分前に目を覚まして慌てたくないからな……それにしても、我ながらよく眠れたものだな。昨夜、君が作ってくれたホットミルクのおかげかな」


 おれはふと、母が昔ホットミルクを作ってくれたことを思い出した。湯気の向こうに霞む母の笑顔とマニカの姿が重なり、おれの胸にほのかな安心感をもたらした。


『ええ、睡眠薬を混ぜましたので。紅茶かコーヒー、どちらをお召し上がりになりますか? 両方ともご用意しております』


「相変わらずジョークがうまいな。紅茶を頼むよ」


『かしこまりました』


 マニカがキッチンに立った。滑らかに流れる動きは、まるで古代の舞をなぞるかのように優美で、おれは思わず見惚れた。けれど、やはり額の奥に巣食う異物感は消えはしない。絶えず蠢き、下へ伸び、胸の奥へと根を張り、足先から血の気を吸い上げていく。

 今日、地球に巨大隕石が衝突し、人類は滅びる。

 各国の学者たちが計算し尽くし、軍が『対策を講じる気はない』と発表したから間違いない。

 もっとも、人類滅亡が現実かどうか知りたければ、ベランダの望遠鏡を覗けばすぐにわかる。簡単なものだ。

 人類滅亡――巨大隕石接近の発表があったとき、世間は一笑に付した。衝突の確率はたったの三パーセント。その数字が一度小数点以下に下がり、「やっぱり肩すかしだったな」と笑っていたら、確率はじわじわと上がっていった。五パーセント、二十パーセント、四十五パーセント……。

 人々が笑えなくなったのは、いつの時点だっただろう。街では暴動が起こり、火が上がり、混乱は連鎖した。

 政府が軍と警察に発砲の許可を早々に与えたのは英断と言えよう。市民と治安維持部隊を争わせ、自分たちに向かう矛先を逸らしたのだから。

 おれの母親は暴動に巻き込まれて死んだ。

 友人は暴動に加わって死んだ。

 恋人は浮気相手とどこかへ消えた。

 おれにはもう、マニカとこの家しか残っていない。


「うまいな……ほっとするよ……」


 おれは紅茶を一口飲み、呟いた。


『ありがとうございます。精神安定剤が入っておりますので。残り数時間、どのようにお過ごしになりますか?』


「そうだな……まあ、静かに一人で、いや、君とここで過ごすかな」


『かしこまりました。他のユーザー様のもとへお連れすることも可能ですが。すでに集まり、パーティしているようです』


 おれは紅茶をすすり、軽く手を振った。


「いい、いい。今さら人間と関わるなんてご免だ。思い返せば、君と過ごした日々が人生で最高の時間だったかもしれない」


 まったく、エステマ社の奉仕精神には頭が下がる。世界が終わろうというのに、マニカは未だにオンライン接続を保ち、数か月前には電話一本で修理にも駆けつけてくれた。 

 それだけではない。そもそもの話、エステマ社はマニカを人々に無料で配布したのだ。まあ、元からマニカユーザーだったおれは少し損をした気になったが、電子レンジや自家発電機まで無償提供してくれたのだから、文句は言わない。

 あの配布のおかげで、人々は少し落ち着きを取り戻した。少なくともおれはそうだ。今こうして心の平穏を保てているのは、間違いなくマニカのおかげだ。


「なあ、マニカ。おれは何をしたらいいと思う?」


 おれには世界の終わりまでをどう過ごせばいいかなんてわからない。わかるはずがない。けれど、マニカなら答えを知っている。それだけはわかる。いつだって何かを問いかければ、彼女は明るく穏やかな声で応えてくれるのだから。


「ん? マニカ、なぜ音楽をかけたんだ?」


 ふいにスピーカーから軽快な音楽が流れ出した。マニカは何も言わず、おれに手を差し出した。


『私と踊っていただけますか?』


「……ああ、もちろんだ」


 まったく、彼女には敵わない。おれたちは踊った。ソファを押しやり、リビングの狭い空間を精一杯広げ、世界の終焉を前に、ただ笑いながら踊り続けた。終末を迎えるのに、それが一番ふさわしい行為に思えた。

 やがて音楽はしっとりとした旋律へ変わり、動きも自然と穏やかになった。おれたちは抱き合い、静かに体を揺らした。

 窓の外で空が低く唸りを上げ始めた。マニカがさりげなく音量を少し上げた。おれはその小さな気遣いが、ただただ嬉しかった。


『泣かないで。大丈夫』


 マニカが耳元で優しく囁いた。おれは頷いたが、涙は止まらなかった。


「これで人類は終わりか……何も、何も残らないんだな……」


 おれの呟きに、マニカは首を横に振り、『大丈夫』と囁いた。

 きっと、おれたちの思い出や魂はどこかに残る。そしていつか二人、また会える――そんな気持ちが伝わってきて、おれは彼女を強く抱きしめた。


『当社の宇宙船がすでに地球を離れ、移住先の惑星を目指していますから』


「……え?」


『人類は滅びません。この先も生き続け、紡がれていきます。だから泣かないで』


「いや、は? ちょっと待て。宇宙船? そんな話聞いてないぞ」


 おれはマニカの肩を掴んで離し、問いただした。


『はい。混乱を避けるため秘匿されておりました』


「いや、でも……そ、それで誰が乗ってるんだ? 政治家か? エステマ社の社長か? アスリート、研究者か?」


『はい。それに加え、抽選で選ばれた一般ユーザー様も搭乗しております』


「抽選? そんなのいつやった? 知らないぞ。……おれは? おれは?」


『抽選はこちらで自動的に行わせていただきました。あなたは残念ながら落選です。これまで長きにわたりエステマ社製品をご愛用くださり、誠にありがとうございました。よい終末をお届けできたこと、心より光栄に存じます』


 おれは泣いた。嗚咽をあげ、マニカの体をなぞるようにズルズルと床へ崩れ落ちた。

 首を絞めてやろうと思った。殴り、壊してやりたかった。だが、できなかった。全身から力が抜け、おれは赤子のようにただ泣きじゃくることしかできなかった。

 マニカは静かに腰を下ろし、おれの頭を優しく撫で続けた。

 音楽の音量が上がる。上がる。上がる。


 ああ、終末がやってきた。

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