水底の隣人
貯水槽の水は、どこまでも冷たい。コンクリートの壁に囲まれ、空気の通わない薄闇のなか。水は、声ひとつ立てないのに、私の身体をじっと観察してくるような気配を持っていた。
* * *
初めて人が死ぬ現場に立ち会ったのは、二十七の夏。新人の研修が終わってすぐ、加藤という男とマンションの貯水槽清掃に行った日だった。
加藤はおしゃべりな奴で、現場でもスマホで彼女にメッセージを送っていた。作業中に点検口から「これ、深いっすね」なんて身を乗り出した、その刹那──嫌な音がして、加藤の身体が滑り落ちた。黒く澱んだ水面が、小さな波紋を広げる。
すぐに貯水槽へ飛び込んだが、加藤が見つからない。慌てながら大声で救助を呼んだが、あっという間に全てが手遅れになった。後からわかったことだが、加藤は水面のすぐ下、手を伸ばせば届く距離に沈んでいた。私は救えなかった。現場検証のあと、会社からは「気にするな」と言われた。
けれど私は、それ以来、夜毎に加藤の夢を見るようになった。天井からじっとり濡れた手が伸びてきて、私の肩を掴む。「どうして…」──そんな声が、夢の奥から響く。加藤の、最後の顔が忘れられなかった。
* * *
加藤が死んだマンションは古い団地で、いまも定期的に清掃に行く。
あの事故から数年経った今でも、管理人は「水が濁る」「臭う」「夜中に音がする」と愚痴をこぼす。あの事故の名残だと噂する声もあるが、誰も表だっては言わない。私はただ黙って、淡々とフタを開けて作業を始める。
その日も、じめじめと暑い日だった。いつものように工具を取り出し、点検口から覗きこむ──そこに、ふわりと人影のような“よどみ”が見えた。
だが目を擦って見直すと、ただの水面だった。ホースで水を抜きながら、底の方を覗いていると、ポケットの携帯が震えた。
画面を見ると、“母”からの着信。首をひねりながら応答する。
「もしもし?」
雑音に混じって、遠い声が聞こえてきた。最近、少しだけ認知症の気がある母親だが、今日は妙に声が落ち着いている。
「最近どう?」
「……まあ、いつも通りだよ」
返事をした直後、電話の向こうの音質が突然ザラつく。聞きなじんだ母の声と、もうひとつ、妙に低く若い声が重なった。
『……ソこ、つめタ…い』
息が止まりそうになる。何か言いかけた瞬間、切れる通話音。あの声は、加藤のものに思えてならなかった。
* * *
作業が終わる頃には日暮れも迫っていた。清掃道具を片づけていると、ふと貯水槽の底が普段よりも深く、どこまでも暗い気がした。
私は、底に何かがじっと水面から見上げている錯覚を感じることが、あの日から多くなっていた。だが今日のその感覚は、桁違いにリアルだった。「自分の顔に似た誰か」が、沈んでいる──そんな直感とも言えるおぞましさ。
早く帰ろう。いや、帰らなきゃいけない。
靴を履き直すためにしゃがみ込んだ瞬間、作業服の袖口を、何かぬるりとした冷たいものが掴んだ。
反射的に身を引くと、バランスを崩して左膝まで水に突っ込む。氷のような冷たさ。ぐっと下から、その「ぬめり」が私の脛にまとわりつく。
自身の呻き声が漏れると同時に、頭の中で声がした。
「こっチにおオイ……おいデいで…ヨ」
うるさく鳴る鼓動を無視して、貯水槽から這い出す。フタを閉めて、震える手で工具をまとめる。振り返る気にはなれなかった。
* * *
帰宅しても胸のざわざわは消えなかった。風呂でお湯をためて顔を洗うとき、水の向こうから誰かに見られている気がした。トイレの手洗い、キッチンのシンク、夜の雨音。水のある場所ぜんぶに、人の気配が宿るようになった。
夜中、寝ていると、また電話が鳴った。画面には“母”の文字。おかしい、母は夜九時以降は絶対に電話などかけてこない。
迷いながら通話ボタンをタップする。
「もしもし?」
返事は、沈むような静けさ。遠くで、ごぼごぼと泡が沸き立つような音がした。
『そこ、つめた…イ……』
途切れたような、男とも女ともつかない声。
眠気と恐怖で混乱したまま、夢に落ちる。私は夢のなかで、深い水底に沈んでいく。下を見ると、加藤がいる。そして、その周りにぼんやりした顔の男や女が、手を振って私を呼んでいる。
『『そこ…つめたい…』』
水の中で息苦しく、身体はどんどん重くなる。それでも、不思議と叫びはしなかった。むしろ、安堵のような気配が胸に流れ込んでくる。
* * *
次の日、会社を早退した私は、例のマンションの前でつい立ち止まっていた。気づけば、重たい足を引きずるようにして階段を昇り、貯水槽のフタを開けている。
水面は静かだ。だが、底の方で、小さな波紋が浮かび上がった。手元のスマホがまた震えた。
「もしもし……そこ、冷たい…?」
今まででいちばん、はっきりした加藤の、いや…誰かの声。
私は、ぞっとしたまま、スマホのライトで水面を映してみた。
そこには、私にとてもよく似た顔――でもまるで別人のような、虚ろな目をした男が、逆さまに沈んでいた。
思わずスマホを落とし、足がもつれて水槽の縁に膝をぶつける。その瞬間、後ろから何本もの腕が、私の身体を水面の下に引きずり込もうと伸びてきた。
「ここ、冷たい?」
声が四方八方から耳に流れ込む。私は抵抗する気力もなく、そのまま、水の底に吸い込まれていった。
* * *
意識のすべてが、静けさと暗闇に満たされる。
声も、鼓動も、なにも聞こえない。
それでも、私はそこに「いる」と理解できた。ここは底だ。
いつか、必ず誰かがまた落ちてくる。
やがて遠くで、新しい足音。
誰かが点検口を開ける。
私は底からじっと、その人影を見上げる。いまなら分かる。ずっと水の底から、自分も誰かを見上げていたことに。
私は、もう“水底の隣人”なのだ。
「もしもし……そこ、冷たい?」
水を通して届く、次の“声”を待ちながら――。