帰るということ 〜東京から田舎へ逃げ帰った私〜
目の前に、ディーゼルエンジンがガラガラと音を立てながら、一両の汽車が止まっている。先程まで私が乗っていた汽車だ。
駅舎も無く、かろうじて残っているような吹きさらしのプラットホームに降り立った私は、グォーと野太いエンジン音を響かせて、黒煙を吐き出しながらゆっくりと駅から離れていく汽車をただ見つめていた。
汽車が線路の果てへ消え、BGMがエンジン音から風の音に変わる。スーツケースをガラガラと引きずりながら、誰もいないプラットホームを離れ、ひとの気配がない未舗装の駅前広場を出れば、二車線の道路が線路と並行するようにまっすぐ続いている。道路の彼方に見える実家のある集落を目指し、私はゆっくりと歩みを進めた。
三年前に歩んできた道を、時間を巻き戻すように戻っていく。あの頃のことを思い出しながら。
私は東京から逃げ帰ってきたのだ――
五年前、高校生だった私は、陸上の女子短距離走者として青春を謳歌していた。大好きだった幼馴染みの彼とも付き合うことができ、帰り道は毎日彼と一緒で、本当に楽しい高校生活を送っていた。
そんな私の人生を大きく変えたのが、県大会への出場だった。
トラックを疾走する私の写真が陸上専門誌に掲載された後、しばらくしてSNSで話題になったのだ。
『百年にひとりの美少女スプリンター』
それから私の周囲が変わっていった。みんなが私をちやほやし始め、会話を交わしたことのなかった憧れの先輩からも交際を迫られたりした。私の彼からは「自分を見失わないように」と言われていたが、そんな言葉は人気のある私への僻みにしか聞こえず、自らを省みることはなかった。私は徐々に狂っていったのだ。
『ぜひ当事務所でタレント契約を』
高校卒業直前、芸能界に疎い私ですら知っている大手芸能事務所から声をかけられた。両親は、私がタレントになることに猛反対だったが、私は絶対に折れなかった。結果、半ば勘当状態での契約に。もう実家に帰ることもなくなるだろうし、それで良いと思った。私は大都会、東京の人間になるのだ。
こうなってくると、大好きだった彼は単なるお荷物。
「私は東京で芸能人になるの。このままこんな田舎でくすぶっていたくない。だから、さようなら」
私が別れを突きつけると、彼は「応援してるよ」と寂しく笑っていた。それを見ても、私の心は何も感じることはなかった。
故郷を離れる日、たくさんの見送りの友人たちを従えて、駅へと向かっていく。でも、そこには両親と彼の姿はない。
みんなの応援を背に受けて、私は故郷を旅立った。二度とこんな田舎には帰らないと心に誓って。
上京後は事務所の寮で暮らすことになり、一年間はレッスン漬け。寮とレッスン場を往復し、寮に帰れば疲れて寝るだけの毎日。そして、テレビデビュー。地方のローカル局での女性レポーターとして、何本かに出演させてもらえた。地元で放送されないのが残念だけど、それでも業界の評判は上々だったらしい。その後、キー局の番組プロデューサーからお声がかかったらしく、マネージャーからオーディションへの参加を促され、会場へと向かった。大きな夢を胸に抱きながら。
しかし――
雑居ビルの一室でのオーディション。相手はプロデューサーだけ。他に参加者はいない。プロデューサーが求めていたのは、私のタレント性ではなく、私の身体だった。
『全国ネットのテレビに出て、人気芸能人になりたくないなら、帰れ』
我慢すれば有名タレントになれる。そう思った。
コイツにバージンを捧げれば、私は芸能人になれるんだと。
でも、肩を組まれ、胸に触れられた瞬間、私はコイツを殴っていた。
「私は売春婦じゃない!」
身体を代償に芸能人という対価を得るのは、つまりそういうことだ。
私は逃げ帰った。
暴力を振るって逃げ帰った私に、もう二度と仕事は回ってこない。
『チャンスをみすみす逃した馬鹿な女』
『身体なんて減るもんじゃないのに』
『下手に関わると、他のタレントにも影響する』
事務所でも腫れ物扱い。先が見えない中、事務所に契約解除を申し出る。
「二度とこの世界には帰ってこれないね。キミにはあの田舎がお似合いだ」
さっさと出て行けと、モメることもなく退所。
この大都会に住み続けることもできるだろうけど、自分の居場所があるとは思えない。東京にしがみつく理由がないのだ。
私には、恥を忍んで田舎へ帰るしか選択肢がなかった。
私にとって「帰る」とは、都落ち。恥ずべきことだ。
あれだけの大見得を切って、家族と彼を捨て、友人たちの期待を背負って上京したのに、たった三年で逃げ帰ってきたのだ。
ガラガラというスーツケースを転がす音が、青い空に吸い込まれていく。視界に迫ってくる集落に胸が痛くなる。
集落へ入り、幼い頃によく遊んでいた公園へ行った。誰もいない田舎の公園。古びたブランコと滑り台が子どもの訪れをずっと待っている。
童心に帰り、ブランコに腰掛けて軽く漕いでみた。ゆらりゆらりと振れる私。でも、いつしか元の位置へと自然に帰ってきて、その振れも止まる。どんなに高い位置に上がっていても、だ。分不相応な夢を見ていた私の人生のようだ。
三年間、連絡先も教えずにいた実家へ、どの面下げて帰れば良いというのか。父や母はこんな馬鹿な私を赦してくれるだろうか。友人たちだって、きっと「ほれ、見たことか」と嘲笑うだろう。彼だって……考えれば考えるほど、身体は動かなくなる。もうどうしたら良いのか分からない。
気がつくと日は落ち、空はゆっくりと夜化粧をし始めている。でも、私はブランコから動けなかった。
「紀子?」
懐かしい声に顔を上げると、心配そうな顔をした彼がいた。昔と変わらず、優しさが雰囲気から滲み出ていてる。陽に焼けた肌の黒さが、農家として毎日仕事を頑張っていることを物語っていた。私はこんな真面目で優しい彼を捨てたのだ。その現実に後悔し、すぐにうなだれる私。
「連絡も取れないし、心配したんだぞ。東京で元気にやってるのか? 今日は里帰りか?」
彼は優しいままだった。私のような馬鹿で愚かな女を気遣ってくれている。
そんな彼の優しい言葉に、情けないくらい涙が溢れてきた。
「紀子、東京で何かあったのか?」
私は、嗚咽混じりに東京での出来事をすべて打ち明けた。そして、東京から逃げ帰ってきたことを。笑われちゃうかな。馬鹿にされちゃうかな。
「三年間もよく頑張ってきたな。本当に偉いよ」
彼の口から出たのは、そんな予想外の言葉だった。
私の隣のブランコに腰掛ける彼。
「きっと紀子は『都落ち』だとかって考えているんだろ? それは違うぞ」
私は顔を上げられず、ただ身体を震わせて涙を零していた。
「いいか、逃げ『帰る』っていう考えは違うからな。紀子はこれまでの歩んできた道に見切りをつけて、新しい道を模索することを決心したんだ。だから、故郷に『帰る』選択をした。紀子自身を『変える』ために」
『故郷に帰って、自分を変える』……できるかな、そんな『カエル』を私が……。
彼の私への言葉が力強くなっていく。
「紀子はここに逃げ帰ったんじゃない。新しいスタートラインに立つために帰ってきたんだ。そうだよな、紀子?」
彼の励ましの言葉に涙が止まらない。
ブランコから立ち上がった彼は、私の目の前に立ったようだ。
うなだれたままの私は、そんな彼の姿を直視できない。
彼は大きな声で叫んだ。
「第一コース! 大倉南高校! 山下紀子!」
彼の叫びに、陸上トラックで手を挙げる自分の姿が思い浮かんだ。
「ON YOUR MARK!(位置について)」
公園に彼の声が響き渡る。
彼の言葉に、私への強い思いを感じ取った。
彼は私へ必死に訴えかけているのだ。
失敗や挫折を受け入れろ。
自分から逃げるな。
陸上も、人生も、常にトライ・アンド・エラーだ。
決して歩みを止めるな。
次のゴールを目指して、新しいスタートラインにつくんだと。
私は目をギュッと瞑った。
彼は叫び続ける。私へのエールを込めて。
「GET SET!(用意)」
彼の叫びに、涙を拭かず顔を上げる私。
彼は真剣な顔つきで、私を見つめていた。
そして――
「GO!」
――私は、彼の胸に飛び込んだ。
身体を震わせる私を、彼は抱き締めてくれた。
「お帰り、紀子」
耳元での彼の囁きが、私の鼓膜を優しく震わせる。
あんな別れ方をした私を心配してくれた彼。
その優しさに包まれて、安堵の涙を零す。
私は、彼と一緒に実家へと帰っていった。
その後、彼の仲介で両親の赦しを得た私は、実家で暮らすことになり、彼の家の農作業を毎日手伝うことになった。農作業は本当に大変で辛いことも多いけど、彼も、彼のご両親も優しいし、やりがいが物凄くある。だから、毎日が充実していて、本当に楽しい。
私の次のゴールは、いつか彼と一緒に新しいスタートラインに立つこと。そして、『帰る』ことは「愛」や「安心」を意味するものだと、彼にそんな風に感じてもらえるようになりたい。
見上げれば、目が痛くなるほどの青い空と、それを彩る白い雲。
周囲を見渡せば、一面の畑の緑が爽やかな風に揺れている。
さぁ、収穫だ。
私は彼と微笑みを交わした。