訳ありガール
「さて、今日は何にしようか」
中華料理にしよう、そう思ったとき、この二〇二号室の壊れかけのチャイムが鳴った。
チャイムの音は擦り切れ、それも途切れ途切れなので、まるでノイズにしか聞こえないが、チャイムはチャイムだ。
すぐに富勇はサイダーナイフ(よほどのサイダー愛好者のみが扱えるサイダー製の珍しい変幻自在のナイフ)を長ズボンのポケットから取り出すと、受話器に出た。
「あいよ、こちら中華料理屋サンダー」
「わあ? 中華料理店だったの、やだ!」
妙齢女性とおぼしき特徴的なハスキーボイス。
聞いたような声でもないし、かといって忘れたとも言い難い声。
まるで邪気のない声だった。
かといって、富勇は警戒心を緩めはせず、サイダーナイフを固く握りしめた。
「あいにく今日は休業日でね。具材といえば、消費期限切れのものしかないんだ。悪いね」
「あはは、きみってば、こういうときは居留守を使えばいいのに~。ついチャイムに出ちゃうのは、ノンノン。それじゃあ、命がいくつあっても足りないよ?」
そんなことは知っている、と富勇はついムキになって反論した。
「……居留守ではダメなんだ。居留守でも留守でも、“彼ら”は扉を壊して、ズカズカと中に上がりこんでしまう。居留守を決めこんだ場合、そうしてパニックに陥った“俺ら”を発見した“彼ら”は、“俺ら”を虐殺していくんだからな」
「でもきみは生きているよ」
「ああ、それは週に一度、日本人の大家に上納金を差し出しているからな。それに……」
「それに?」
「俺はサイダーナイフの使い手だ。ここらへんでは、名の知れた日本人キラーで知られている」
「それは日本人を殺したってこと?」
希望が入り混じった声を聞いて、富勇は彼女が日本人ではなく、このエリアとは別の如月人だということに遅ればせながら察した。
「いや、そういう噂を流したんだ、俺自らがな」
「さっすが~。だからこの号室の扉だけは壊された痕もないんだね」
「そういうこと」
受話器を持つ手が疲れてきたので、富勇は反対の手に受話器を持ち換えた。
「あんた、何しにこんなところまで来たんだ? 俺のことを知らないってことは、歳月エリアの人間じゃないだろ」
「そんなことより、部屋の中に入れてくれな~い? いつまでもこんな寒いところにいるのは、いやんいやん」
アパートのドアノブをガチャガチャと回す音が、玄関のほうから聞こえてくる。
訳ありか。
わずかに富勇は逡巡するが、すぐに「ああ、もちろんだ」とうなずき、受話器を置こうとした、そのとき。
「あんたじゃなくて、あたしは佐々木涼香だよー。よろしくね。ね、富勇くん」
彼女――涼香は富勇の名前を最後に口にした。
おかしいな、ネームプレート、出していないはずなのに。
富勇は再び受話器を耳に当て、思わず「俺の名前、誰から聞いた?」と言いそうになるのをこらえ、「あぁ、よろしくな」と余裕のある言い方で言葉を返した。
富勇は静かに受話器を置くと、迷わずサイダーナイフはポケットに仕舞ってから、玄関の扉を開けた。