おしゃべり女将
どうしようもなくなった富勇は、諦めて立ち止まる。
どこだ、ここ?
そのときだ。
人の気配がしたかと思えば、曲がり角から背の高い垂れ目の中年女性が現れた。
とっさに富勇は「あっ、どうも。不審者でも侵入者でもないです」と聞かれてもいないのに、そんな言葉が口を衝いて出てしまう。
割烹着姿をした垂れ目の女性はというと、見るからに驚いている様子だった。
「あれま! あんた、富勇くんじゃないの。どうしてこんなところにいるんだい。まさか、この複雑な迷路みたいな家で迷ったの?
そんな、まさかね。そう、まさかだよ」
「そのまさかなんだが……なあ、あんた、ここの家の者か?」
「…………」
「…………」
史上最も妙な沈黙のあと、割烹着を着た垂れ目の女性はうなずいた。
「アタシはね、大宮里子っていうのさ。見てのとおり、ただの古臭い割烹着を着たおばさんだよ」
「あぁ、大宮っていうと……」
「既婚者だよ。間違っても、こんなシワが増えたおばさんを狙わないでおくれ」
「あぁ、ということは……あんた――」
「旧姓は木下さ。……まっ、今や実家には帰れないけどね。帰るつもりはあるよ? でも何せ帰省できないからね、この嫌な国からは」
「うん、となると――」
「やっぱりそば屋の女将となると、忙しいねえ。うちで働く子たちは皆、忙しさのあまり、早々と辞めていくんだよ。
まったくねぇ、これだから若い子は……気合と根性と継続力がないっていうか、なんというか、やるせないねぇ。
うちの旦那みたいに、やるときはやってくれないと、困るんだよ、本当に」
この女は相当おしゃべりだ、と富勇は唾をゴクリと飲みこんだ。
「ああ、分かる、分かるさ、分かるぜ」
「分かるだろう? 分かってくれるのは、ありがたいねえ。
あぁ、そうそう、ところであんた、仕事はしたことあるのかい? アタシの直感じゃあ、あんたは無職だよ。なぜってあんた、年上相手にですます口調もできないようだからね。
たとえあんたがうちで働きたくとも、とてもとても多忙なうちで働くのは無理だよ。それからね――」
「お、お茶の間ってどこだか分かりますか? 里子さん」
「お茶の間? お茶の間なら、これからアタシも向かうところだよ。……そうそう、それとね――」
「お願いします、俺……いや、僕をそこまで案内できますか? 僕、お茶の間がどこにあるのか、分からないんです」
「あらやだ、それは大変じゃないの。それじゃあ、朝餉には間に合わないんじゃなくて」
「ええ、そうなんですよ。ですから僕を案内してください、お願いします、里子さん」
富勇は頭を下げて、里子に頼みこんだ。
てっきり富勇はため息をつかれる覚悟でいたが、そんなことはなかった。
里子はアハハと笑い出すと、親指を立てた。
「いいよ、案内してあげるからね」
「ありがとうございます……!」
「どういたしまして。――まっ、うちで働こうったって、そうはいかないからね」
「それは……さすがに辞退します」
「それがいいよ。なんて言ったって、うちは普通の飲食店とは違って、きついからね。よそを当たりな」
「……はい」
「そういえば、富勇くん」
「はい……?」
ペラペラペラペラ……ペコペコペコペコ。
富勇はおしゃべりが止まらない里子の案内を受けて、ようやく朝食の場――お茶の間にたどり着く。




