夜のプール
「今日のプール授業は、なくなりました」
担任の森本先生がそう言うと、3年2組の皆は一斉に「えー!」と叫んだ。
クラス委員の結衣が、手を挙げた。
「どうして、なくなったんですか?」
「誰かが、夜の間にプールの水を抜いてしまったからです」
3年2組の児童たちは、顔を見合わせてわいわいとしゃべり出した。
「先生、誰かって誰?」
「まだ、分かりません。でも、とても悪いいたずらなので、おまわりさんに電話してあります。きっとすぐに捕まるでしょう」
「パトカーが来るの?」
声を弾ませた児童を、先生はめっとにらんでみせた。
「はしゃいではいけませんよ。君たちがきちんとお勉強していなかったら、おまわりさんは君たちのことも捕まえにくるかもしれませんからね」
それで、プールの話はおしまいだった。楽しみにしていたプールの時間は算数の時間に
なり、皆がちょっと不機嫌なまま授業を受けた。
中でも一番がっかりしていたのは、お調子者の晃一だろう。彼はプールを楽しみにするあまり、朝からパンツの代わりに水着をはいて来たのだ。(もっとも、着替えのパンツを家に忘れてしまったので、プール授業がなくなって正解だったかもしれない)
晃一はその日ずっとふさぎ込んでいた。給食の青りんごゼリー争奪戦にも参加しなかった。教室の窓からプールを見下ろすとたしかに空っぽで、寂しい気分になった。今週プール開きをしたばっかりで、青々と澄んだ水がプールいっぱいに満ちていたのに。
「晃一!」
昼休みのことだ。クラスメイトの佑介が、空っぽのプールをぼんやりと見下ろしている晃一の背中を叩いた。
「何だよ」
「すげえこと、聞いちゃった」
佑介の目はきらきらと輝いていた。彼が、いたずらを思いついた時の顔だ。佑介は、教室にいたクラスメイト全員に聞こえるような大声で言った。
「職員室で先生がしゃべってたんだけど、夕方、プールにもう一回水を張るんだって!」
おおっと教室中がどよめいた。
「じゃあ、明日はプールに入れるんだ!」
晃一は興奮したけれど、結衣がさっと口を挟んだ。
「でも、明日は体育の時間がないわ。次に体育があるのはしあさってよ!」
皆、一斉にため息をついた。もう3年の仲になるせいか、クラス全体でとても息が合う時がある。
クラス1頭が良い孝文が、暗い声で言った。
「次のプールの時間までに、また水を抜かれちゃうかもしれないよ」
「そんなのいやだ!」
口々に文句を言うクラスメイトたちの顔を見回し、佑介がにんまりと笑う。そして言った。
「いいこと、思いついたんだ。皆、もっと近くに来いよ。先生には絶対ないしょだからな」
3年2組の皆で、おしくらまんじゅうのように教室の真ん中に集まった。夏だから、くっつくだけで汗が出る。真ん中の佑介がひそひそ声でこう言う。
「今日の夜、皆でプールに入ろうぜ。誰かにいたずらされる前に!」
結衣が真っ先に反対した。
「夜に学校に来ちゃいけないのよ」
「でも、しばらくプールに入れないかもしれないんだぞ」
佑介が結衣に言い返した。晃一は、佑介の肩をつかむ。
「おれは行く! プールが、早く遊んでくれって言ってるんだ」
「プールはしゃべりません!」
クラスメイトたちも、晃一に賛成した。誰もがプールで遊びたくてうずうずしていたのだ。とうとう、反対しているのは結衣一人になった。
「行きたくないんだったら、結衣は来なくていいぞ。でも、先生に言いつけるなよ」
「誰も、行きたくないなんて言ってないでしょ」
結衣は怒った。実は、誰よりも楽しみにしていたのは結衣なのである。
「皆で行きましょ。わたし、家から宝探しのおもちゃ持ってくる!」
「決まりだな。何時に集まる?」
おしゃれな女の子、涼花が提案した。
「10時にしよう。寝たふりして、こっそり抜け出すの」
「持ち物は?」
「バスタオルに、着替えに、プールセット。あと、懐中電灯もいるね」
話がまとまった時、昼休みが終わるチャイムが鳴った。
夜10時。静まり返るプールサイドに、およそ20人の児童たちが集まっていた。もちろん、3年2組である。
「いいか、あんまり騒いじゃダメだぞ。おまわりさんに見つかったらタイホされちゃうからな」
佑介の言葉に、皆がうなずいた。
夜空は晴れ渡っている。夏の星座と、帯のように空を横切る天の川が、灯り一つないプールをぼんやりと照らしている。児童たちは期待に胸を膨らませながら、暗い中で服を脱ぎ、水着姿になった。
だが、懐中電灯でいざプールを照らした時、児童たちはがっかりしてしまった。
夕方、先生たちがもう一度プールに水を入れているところをたしかに彼らは見た。それなのに、プールはまた空っぽになっている。
結衣が地団駄を踏んだ。
「悪い奴が、また水を抜いたんだわ! 最低! 大っ嫌い!」
「見つけたら、ぎたぎたにしてやる!」
晃一も腹を立てた。熱帯夜の暑い風が、むき出しの手足を攻撃する。3年2組のクラスメイトたちは、力が抜けてしまい、プールサイドに座り込んだ。アスファルトは、昼間とは違い、冷たくなっている。
その時、2組の中でも目立たない、物静かな女の子、美空が音もなく立ち上がって、優しい声で言った。
「みんな、これから起こることは、2組以外の誰にも言わないでね」
星空の下に立つ彼女の姿はとてもおごそかに見えて、晃一を含めて誰もがうなずいた。
美空は両手を空に向かって伸ばした。すると、夜空に輝く天の川が、さらさらと美空に向かって落ちてきた。
美空は両手を上げたまま、水のないプールに降りていった。天の川の水と星くずも、彼女と一緒にプールの中へ流れ込んだ。晃一がプールサイドから身を乗り出すと、プールの中の星屑が、ちりちりとまたたきながらゆっくりと動いているのが見えた。
やがて、プールは天の川の水でいっぱいになった。塩素の匂いとは違う、爽やかな、それでいてすごく濃い匂いがした。(後で美空に聞くと、オゾンの匂いらしかった)
「入って大丈夫よ」
美空がそう言うと、クラスメイトたちはわっと叫んでプールに飛び込んだ。ひとしきり冷たい水に潜ったり飛び出したりを楽しんだ後は、2組全員で鬼ごっこをした。それから競争をして、結衣の持ってきたおもちゃで宝探しをした。星が水の中で光っているから、夜でも探すことができた。
1時間ほどたっぷり遊んでから、児童たちはプールサイドに上がった。あんまり遅くなると、こっそり家を出たことがばれてしまうかもしれない。バスタオルで体を拭いた時のことだった。
誰かが、プールに近づいてくる。先生かと思って児童たちははっと息を詰めたけれど、やってきたのは知らない人だった。森本先生よりも若い男の人だ。
プールが水と星で満ちているのを見た男は、何故か怒りだした。
「せっかく俺がまた水を抜いてやったのに!」
そして、吸っていたたばこを、火がついたままプールの中に投げ捨てようとした。
だが、その前に晃一と佑介が男に飛びかかった。不意をつかれた男は転んでアスファルトで頭を打った。男を押さえつける晃一と佑介にクラスメイトたちが加勢した。
結衣が携帯を取り出し、美空に言った。
「美空! おまわりさんを呼ぶわ。プールの水は戻さなくて大丈夫?」
美空は首を振り、また両手を空に掲げた。
パトカーが駆けつけるより前に、天の川の星たちはまたさらさらと夜空に帰って行った。
おまわりさんにいたずらの犯人を引き渡した3年2組の児童たちは、家族と先生にたっぷり絞られた。
だが、それ以来プールの水が抜かれることはなくなった。下級生や上級生たちがプールの時間を楽しんでいるのを見るたびに、彼らは顔を見合わせて、自慢げに笑うのだった。