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1 ペストマスクと古書店と

 私、あなたに会えて良かった。

 あなたといると楽しくって、

 とっても、とっても幸せだったよ。

 彼女は、二つに結わえた長い髪を揺らしながら、タレ気味の目をきらきらさせて、まだ将来に何の希望を持っていなかった俺に向かって、とびきりの笑顔でそう言ったんだ。そうして、自分自身の夢に向かって、一切のためらいも恐れもなく、軽やかに去っていったんだ。


………………


 侑哉(ゆうや)のカバンに入っているライトノベルは、伯父の古書店には見当たらない。薄暗い店内には、天井まである本棚が規則正しくずらっと並んでいた。厳密に言えば本棚の上と天井の間には十五センチほどの空間があるのだが、壁側にある本棚のそこには本がびっしり、平積みで詰められている。

「そこのも売り物なんだけどね。場所がないときに一時的に上げて、そのままで」

 侑哉の視線を感じたのか、ニイノ古書店の主人、新野(にいの)友義(ともよし)はのんびりと説明する。

 侑哉は、パーマをかけた耳下までの茶色の髪に手をやりながら本棚をじっと見ていたが、友義のいるレジに顔を向けた。

「取るときは?」

「脚立があるでしょ。まあ、もし脚立使っても本棚の一番上まで届かなくなったら、そんときはいよいよ店じまいかな」

 カッターシャツになぜかアウトドア用の青いジャケットを羽織っている友義は、年齢は五十六歳だが白髪は少なく姿勢も良いので、十八歳の侑哉から見てもまだ若いし、そもそも自営業に定年はない。

 加えて彼は独身のため、子供に店を譲って引退すると いう選択肢も今のところないだろうが、店じまいという言葉を聞いて侑哉は少し驚いた。

「店じまいしたら、ここにある本はどうなるの?」

 侑哉は、店内を歩きながら棚の本を手に取る。色褪せ 具合から年期の入ったのがわかる、人文系の学術書だ。

「ご近所の同業者に引き取ってもらうのが一番かねえ」

 友義の返事に、ふうん、と相槌をうちながら、侑哉は学術書を棚に戻した。


 本棚にさえぎられて照明の届く範囲はせまいが、レジに座る友義の気配はこじんまりした店内どこからでも感じられる。逆にいえば、それは客があやしい動きをしても店主にはすぐわかるということなのだ。

 けほ、と侑哉が一度咳をしてパーカーの襟元を引き上げると、友義は苦笑した。

「はたきはかけてるんだけどさ、そもそも建物が古いからねえ。ああ、ちょうどいいのがあった......ちょっと待ってね」

 そう言うと友義は、レジの背後にうずたかく積まれた箱を移動し始めた。段ボールと行李のようなものもあるが、とりわけ侑哉の目を引いたのは、ファンタジー映画に出てきそうな渋い色をした革の箱。

 スーツケースより大きな箱から友義が取り出したのは、これまたゲームや漫画で見たことのある、巨大な鳥の嘴だ。

 顔がすっぽり隠れるお面状の形で、目の部分には丸いレンズがはまっている。

「......おじさん、何これ」

「ペストマスク。知らない?」

 友義はマスクの全面が見えるように、くるくると回す。

「いや、名前はなんとなく聞いたことあるんだけど、なんでおじさんがこれ持ってるの、って意味で」

 思いきり眉間にしわを寄せている侑哉に向け、友義はペストマスクを掲げる。

「なんかね、あるんだよ。まあ模造品だけどさ。皆、研究室に本とか物が溢れるとうちに持ってくるんだよね、近いし。これは確か史学科の教授がシャレで買ったんだけど、思ったより学生の食い付きが悪いからってくれたんだ」

「アキバに持っていった方が売れたんじゃない」

「それがさ、アキバのコスプレ店から買ったらしいんだよね。あ、侑哉もアキバいくときは自転車貸すから。十分くらいで着くからちょうどいいよ」

 で、と友義はペストマスクを自分の顔の前に持ってきた。

「似合う?」

「......うん。似合う、かもね......」

「大学生のわりにノリが悪いなあ。まあいいや。埃よけになるだろうからあげるよ、これ」

 友義はレジ脇においていたタオルでマスクを軽く拭き、侑哉に差し出した。

「え」

「古書店のバイトが咳こみながら店番してたら、印象悪 いでしょう。あとね、侑哉は美弥に似て顔がいいから何を付けても大丈夫、うん」

 確かに、母親と同じはっきりとした二重の侑哉なら、コスプレ感満載の小物でも意外に似合うが、そもそもこれを付けたら顔は見えない。

「ほら、侑哉さ、大学入ってから髪も染めて、パーマもかけてイケメン度が上がったし。あ、俺の時代は大学デビューって言ってたんだけど、今もそう言う? 言わない?」

 侑哉は、曖昧な様子で首を傾げた。進路が決まり、卒業式も終えた侑哉に「せっかくなんだからオシャレしなよ」と進言したのは四歳年下の弟で、「あらいいじゃない」と張り切ってスポンサーになったのは母である。高校までは恰好に無頓着だった侑哉は、自分でも、変えたばかりの髪型に慣れていないのだ。


 しかし意味なく指でくるくると髪をいじる侑哉を見て、友義は違うものを連想したらしい。

「最近写真集を探しに来た演劇サークルの子は、中学ジャージに縦ロールのかつらをつけたままだったけど、違和感なかったよ」

 友義は、手を軽く丸めてくるくると縦ロールをジェスチャーで表現している。

 入学早々キャンパス内であらゆるサークル勧誘の洗礼に遭い、学内にいながら異世界転生した気持ちを味わった侑哉は、ジャージ縦ロールがどういうものかもすぐ想像ができ、おそらく演劇の練習をしたまま買い物に出たのも予想がついたが、どういう内容の演劇なのかは皆目見当がつかない。

 なんにせよ、大学から徒歩五分の距離に店を構え、何十年もそんな学生たちと接している友義には、縦ロールがペストマスクに変わったところでたいした違いは無いようだった。侑哉は重い足取りでレジに近づき、ペストマスクを受けとる。しみじみ見ると意外によく作られているが、実用的ではない。

「店員がこんなの付けてたら、お客さんは嫌がんない?......あと普通に視界悪そうだし」

「そう? まあいいや。じゃあ、とりあえず授業がない時間に店番してもらって。時給はこのあたりの書店バイトと同じでいいかな?」

 友義の言葉に、侑哉はこくりと頷いた。

 この春、晴れて第一希望の大学に受かり埼玉の実家から通うことになった侑哉だが、せっかくだからバイトをしたいと母親に話したところ、思わぬことを言われたのが実に昨日のことである。

「ちょうどいいわ、侑哉。あんたトモ兄さんの店を手伝ってあげて」

 侑哉の母、美弥は、友義の十才下の妹だ。

  母は四人兄妹だが、長男の友義と美弥は首都圏在住で行き来しやすいのか、侑哉も小さい頃から自宅に遊びにきた友義に可愛がってもらっていた。

 祖父母が始めて伯父が継いだ古書店は、数えることしか来たことのない侑哉からしても愛着がある場所で、バイトの提案を断る理由もなく気軽に引き受けたのである。

 友義は飄々という表現がよく似合う人で、海外旅行にもよく行っていた。土産も一風変わったものが多かったが、なるほど、現地調達以外にも、こういう経路で手に入ったものをうちに持ってきていたのか、と侑哉は納得する。

「あー、良かった。俺もたまには店を気にせず、コーヒーを飲みに行きたかったんだよねえ」

 今までは店を気にしつつも外出していたということなんだろうか。侑哉は、常々胸のうちに秘めていた「伯父

 は変人である」疑惑を今日確信に変えたので、あえて突っ込まないことにした。

「あ」

 友義は、何か思い出したように少し目を見開いた。

「......え?」

「いやね、まあ、うん」

「うん、なに?」

 歯切れの悪い、というよりはもったいぶった言い方の友義に、侑哉は不信感をあらわにする。

「ヤバいことでもあるの?」

 バイトを引き受けて厄介なことに巻きこまれたのでは、たまったものじゃない。侑哉の懸念はもっともで、友義は笑いながら釈明した。

「そんな怖いもんじゃないけどさ、出るんだよね」

「出る?」


 そう、と友義はペストマスクを箱の中にしまいながら言う。

「ピンクでふわふわしたのが、本を読みに来るんだ。まあ見たらわかるよ。大丈夫、害はないから」

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