政略結婚から始まった私たち
彼とは政略結婚だった。
「僕たちは政略結婚ですけど、お互いに相手を尊重して支え合っていけたらと思います」
初夜の時に彼はそう言ってくれた。
だから、その言葉通りお互いを支え合って添い遂げられる、そう思った。
*
最近、夫の様子がおかしい。
ちょこちょこ私の前で挙動不審だ。
それに、心ここにあらず、と言ったような時もある。
話をしていても上の空というか。
今までそんなことはなかった。
最初の言葉通り、彼は誠実に私に向き合ってくれていた。
それなのにここにきて挙動不審とあらば何かあったのだと思うのが普通だろう。
誰かいい人でもできたのかも……。
はっきりとしたことは何もない。
だけど、漠然とした不安が付き纏う。
結婚してからそろそろ一年が経つ。
だがいまだに子供のできる気配はない。
することはしている。
だけど現実として子供はできていない。
貴族としては当然嫡男を産むことを求められる。
それなのに一年も経つのにその兆しすらないとなると他の女性に目が行くのもわかる。
もともと政略結婚だ。
そこに愛だの恋だのはない。
ない、はずだった。
だから子供ができないのであれば離婚して新たに妻を迎えるなり、愛人を作ったりすることは当然のこと。
そう割り切れればよかった。
いつの間にか私は彼に惹かれていた。
彼が他の女性を求めるのはつらい。
考えただけで胸が切り裂かれるようだ。
だけど現実問題として、子供ができていない以上、離婚を切り出される可能性はあり、私はそれを拒否できないのだ。
*
今日は夫が休みで、夫に誘われて二人で出掛けた。
街中では手を繋いだほうが安全だからと握られた手。
結婚当初から街中を歩く時はこうやって手を繋いでいた。
その手からふっと力を抜いた。
いつ離婚を切り出されてもいいように覚悟だけは決めておかないと。
この手を離す日が来ても、慌てず、動じず、縋りつかずに手を離せるように。
ぎゅっと強く手を握られた。
「どうかしましたか?」
思わず彼を見上げると怪訝な顔をしていた。
「いいえ、何でもありませんわ」
そう言って何事もないかのようにきゅっと手を握る。
「何か気になるものでもありましたか?」
どうやら彼は何か気になるものがあってそちらに気が行ったので手が離れそうになったと思ったようだ。
一瞬それに乗ろうかとも思ったが、やめた。
「いいえ、ありませんわ」
立ち止まって顔をのぞきこまれる。
「具合でも悪いのですか?」
「いいえ、大丈夫ですわ」
手を繋いでいない反対側の手で頬を包まれた。
「少し顔色が悪いですね。帰りましょうか」
「いえ、大丈夫ですわ。行きましょう」
「……わかりました。ですが、具合が悪くなったらすぐに言ってください。約束ですよ?」
「わかりました」
彼はまた私の手をしっかりと握って歩いていく。
*
不安にちりちりと心が苛まれているからか、最近食欲がない。
心配させたくないから彼の前では無理矢理にでも食べているけど、一人の時は本当に摘まむ程度になっている。
見かねた料理人が食べやすいように色々工夫してくれるのだけどやはり入らない。
申し訳なくなる。
屋敷の料理人の料理は本当に美味しく優しさに満ちているのだ。
使用人たちには心配かけたくないから夫には言わないように頼んであるけど時間の問題かもしれない。
一応夫と一緒の時は食べているので様子見をしているような感じだ。
ただこれ以上食べれない状況が続けば夫に報告するだろう。
それは避けたいところだが、気持ちだけではどうにもならない。
知られたくない。
心配かけたくない。
……面倒だと思われたくない。
そんなふうに思うことはないと思うのだけど、どうも気持ちが不安定になっている。
彼に思い切って訊いてしまえば案外大したことのない答えが返ってくるかもしれない。
だけど、訊けない。
決定的な答えが返ってくるのが怖かった。
私はいつからこんなに臆病になってしまったのだろう。
*
その日、昼食が済んでから一休憩を挟んだ後、侍女たちに全身磨き上げられた。
急にどうしたのかと問えば
「今日の奥様は特別ですから。念入りに磨き上げて誰よりも綺麗になっていただかなければ!」
との答えが返ってきて困惑する。
誰か来るのかしら?
そんな話は聞いていないのだけど。
どこかに出掛ける予定もない。
は? まさか愛人候補か愛人が来るとか?
それを察知した侍女たちが私の味方になって対抗しようとしてくれているのだろうか?
などと一瞬馬鹿なことを考えた。
夫の帰ってくる夕方までかかって私は念入りに飾り立てられた。
彼の瞳の色である青色のドレスには私の瞳の色である金色の糸と彼の髪色である灰色の糸で繊細な刺繍が施されている。
まとめた髪を留めているのは彼から初めて贈られたバレッタだ。
極上のサファイアの耳飾りは結婚後初めて贈られたものであり、胸元で輝くサファイアの石を嵌め込んだ金細工の首飾りは今年の誕生日の贈り物だ。
これでもかとばかりに彼に関わるものばかりで全身を覆われている。
姿見に自分の姿を映しながら、ここまでする必要があるのかと思ってしまう。
扉が叩かれ、声がかけられた。
「入ってもいいですか?」
夫の声だ。
帰っていたらしい。
出迎えもしなかった。
慌てて答える。
「ええ、どうぞ」
扉が開かれ、彼が入ってきた。
「お帰りなさい。出迎えも行かずに申し訳ありません」
「ただいま戻りました。いえ、身仕度を優先するように言っておいたので気にしないでください」
彼は私の前まで来ると上から下まで私の姿を眺めて満足そうに微笑んだ。
「とても綺麗です。僕の妻は世界一綺麗です」
「あ、ありがとうございます。貴方もとても素敵です」
「ありがとうございます」
夫の今日の服装は私の髪色である茶色の上下で上着には金糸で繊細な刺繍が施されている。
襟元のピンブローチは琥珀のついたもの。今年の彼の誕生日に私が贈ったものだ。
カフスボタンにも琥珀が使われている。
ポケットチーフはよく見たら私が初めて贈った刺繍入りのハンカチだ。
私が全身彼仕様なら、彼は全身私仕様だ。
お互いに相手仕様の正装姿だが、どこかに出掛けるのだろうか?
聞いていないのだけど。
「あの、どこかに出掛けるのですか?」
「いいえ」
「なら何故ここまで正装する必要が?」
彼は楽しそうに微笑って肘を差し出してきた。
答えるつもりはないということだろう。
私は諦めて彼の腕に腕を絡めた。
向かった先は屋敷の食堂だ。
晩餐会の予定も入っていないはずだ。
首を傾げた私に彼は悪戯っぽく微笑う。
扉が開けられて中に入ればあちらこちらに花が飾られている。
晩餐会でもないのに華やかだ。
私は傍らの夫を見上げる。
「僕たちの結婚一周年のお祝いです」
悪戯が成功した子供のような笑顔だ。
私は目を見開いた。
まさか結婚一周年を祝ってくれるとは思わなかったのだ。
そしてここのところ気が沈んでいたので、今日が結婚記念日だと気づいていなかった。
「料理長たちも張り切ってご馳走とデザートを用意してくれていますよ」
「まあ。それは楽しみです」
微笑めば優しく微笑み返してくれる。
そしてそのまま席までエスコートしてくれ、自ら椅子を引いて座らせてくれる。
「ありがとうございます。あの、最近どことなくそわそわしていたのは、このためですか?」
対面に座った彼が笑顔で答えてくれる。
「ええ、貴女を驚かせたくてみんなに協力してもらってこっそりと準備しました」
「そう、だったんですね」
よかった。離婚したいとか愛人がいるとかではなくて。
それはまだわからないけど、でももう大丈夫な気がする。
「お気に召しませんでしたか?」
「いいえ。貴方が一生懸命考えてくれたのが嬉しいです。ありがとうございます。みんなもありがとう」
使用人たちにもお礼を言えば笑顔が返ってくる。
「さあ、食事にしましょう」
「はい」
その言葉を合図に料理が運ばれてくる。
久しぶりに食事を美味しく食べることができた。
*
美味しい晩餐を終え、侍女に手伝ってもらって湯浴みをし、夜着に着替えた私は、寝る前に寝室の長椅子に彼と並んで座っていた。
楽しかった晩餐の余韻が残っていた私はほっとしてついぽろりと言ってしまった。
「離婚したいと言われなくてほっとしました」
途端に空気がぴしりと固まった。
はっとして口を押さえたがもう遅い。
「どうして離婚を切り出すと思ったのか、じっくり話し合ったほうがよさそうですね」
うっすらと微笑んで言った彼にぶるりと震える。
あら?
どこかで間違えてしまったみたいだ。
「ええと……」
逃げたい。今すぐ逃げたい。
「逃がしませんよ?」
獲物を定めた肉食獣のようだ。
私は悪くないのに。
「貴方のせいですのに」
拗ねたような声が出た。
仕方ない。
ここで私が責められ怖い思いをするのは理不尽だと感じるのだ。
「僕のせい、ですか?」
どういうことかと夫は首を傾げている。
ここまで来たら全てぶちまけることにする。
「貴方が最近挙動不審で、何かを隠している様子でしたので、離縁されるか愛人がいるのかと……。その、結婚して一年経つのに子供ができる気配がないので……」
だんだんと夫から視線を逸らしてしまったので、彼がどんな顔をしているかはわからない。
と、急に強く抱きしめられた。
「申し訳ありません」
「旦那様?」
「つらい想いをさせましたね。不安になって当然です。僕はその不安に気づきもしませんでした。申し訳ありません」
後悔の滲む声。
先程までは楽しそうにしていたのに。
本当に私を驚かそうとして、喜んでくれると思って楽しく準備してくれたのだろう。
「いいえ、いいえ。私が勝手に不安になっていただけです。貴方はずっと私に優しかったのに」
彼のその優しさを信じていればよかったのだ。
それができなかったのは、私の弱さだ。
彼の背中に手を這わせ、ぎゅっと抱きつく。
彼がますますきつく抱きしめてくる。
「貴女のことを愛しています。生涯妻は貴女だけ。たとえ子供ができなかったとしても生涯貴女と添い遂げたい」
ぽろりと涙がこぼれる。
「わ、私も、貴方を愛しています。ずっと、一緒にいたい。死が二人を分かつまでずっと隣にいたいです」
ぽろぽろとこぼれる涙を、身を離した夫が優しくぬぐってくれる。
「ええ、いてください。誰に何を言われようとももう貴女を手放す気はありません」
「はい」
涙が止まらない。
それでも嬉しくて私は微笑んだ。
涙に濡れる頬に彼がキスをしてくれる。
そのまま抱き上げられてベッドまで運ばれた。
*
心配事から解放されたからか食欲も戻ってきた。
そして、ふと気づく。
月のものが遅れているような……。
前回きたのはいつだったかしら?
記憶を手繰る。
そろそろ二ヶ月半ほどになるのではないだろうか。
まさか。
そっとお腹に手を当てる。
まだわからない。
だけど、そうだったら嬉しい。
ああ、でも、彼に言うのはちゃんと診てもらってからにしよう。
ぬか喜びはさせたくない。
ああ、でも本当だったら嬉しい。
そっとお腹を撫でる。
まだそうとは限らない。
それでも気づけば私の顔には満面の微笑みが浮かんでいた。
読んでいただき、ありがとうございました。