第三話 発見①
《sideアンネ》
自分で言うのも何だけれど、アタシは睡眠に関しては誰よりも困った癖があると思う。寝ようと思えば一瞬で寝られるけど、それからは例え隣で喧嘩が起きていようと時間まで目覚めることはない。……まぁ、殴られでもしたら目覚めるんじゃないかしら。
昨夜は片付けをした後、エルマーに慰めてもらって、結局眠りについたのは夜中の二時頃だったかしら。今日も空を暗雲が覆っているから、陽の光を浴びることは出来なさそう。
壁にかけられている時計を見上げれば、時刻はもう朝の七時を指していた。あまり眠らない人や、朝から用事のある人は、もう活動を始めているだろう。
「ふわぁ……頭が痛い……これは完全に二日酔いだわ」
今日の朝食当番はアタシとマリウスだったはず。眠いし、頭も痛いし、本当は二度寝に興じたいところだけれど、一応は集団生活なのだから役目は全うしないとね。
「エルマー、エルマー起きて」
「んん……」
隣で寝ているエルマーをゆさゆさと揺らして起こす。
彼は一週間のうち二、三回ほど、すこぶる寝起きが悪い時がある。そういう日は二度寝、三度寝は当たり前で、酷い時はお昼になっても起きてこない時もある。でも、起こしてあげないと今度は「どうして起こしてくれなかったんですか!?」なんて言って拗ねるのだから、可愛い人だと思ってしまう。
「今日アタシ朝食当番なの。起きて準備しましょう」
「分かりました……」
寝起き、機嫌が悪いのを見せないように努めてはいるようだ。明らかに目が死んでいるが、指摘はしないでおく。もそもそと起き上がったエルマーを確認してから、アタシは持って来ていた普段着に着替える。それから洗顔とメイクも済ませて、アタシの準備は万端よ。
そして朝食を作るために、エルマーとともにダイニングへと向かう。
廊下にはダークレッドのカーペットが敷かれているのだが、ある部屋の前だけ、ぐちゃっ、と歪んでいた。神経質……というわけではないと思うけれど、妙に気になって仕方ない。それにここは……。
「ジギスの部屋の前……どうせ引っかけてそのままにしていたのね」
昨夜、アタシのとっておきの葡萄酒を飲んだ、憎きジギスヴァルトの部屋の真ん前。ガサツなのは知っていたけれど、何だか今日は一層腹立たしく感じられる。「そんなに気になるほどではないかと……」と引き止めるエルマーを振り切って、アタシはまだ眠っているであろうジギスの部屋の扉を叩いた。
「ジギス! 中にいるの?」
昨夜あれだけ酒を飲んでいた彼だ。きっとまだ、ぐーすかぴーすかと眠っているに違いないわ。くそぅ、叩き起こしてやるんだから。
「廊下のカーペットが歪んでいるわよ。ジギス!」
バンバン、ドンドン、激しい音を立てて扉を叩くけど、ジギスが出てくる様子はない。そろそろアタシの手が痛くなってきた。
……もしかして、いないのかしら。だとしたらかなり恥ずかしいのだけれど。
後ろでそっと見守るエルマーの視線が、妙に痛く感じられる。いたたまれなくなって、アタシはジギスの部屋に入ってやることにした。いなかったらその時は……ジギスの部屋のカーペットを引っぺがしてやるんだから。
「ちょっと! いない、の……」
…………。
最初に訪れたのは、鼻の奥を衝くような異臭だった。アタシはそれが血の匂いだと、一瞬で理解出来た。
次に、部屋の真ん中に転がっているそれに目がいった。真っ赤な液体で汚れて、至るところから、通常ならば皮膚の中に隠れている肉が見えてしまっている。腹部のところなんんて、酷い有様だった。
ここはジギスの部屋で、変わり果てた姿の人が死んでいる。血に塗れた人でも、その顔はまだ判別がつく。間違いなく、昨日までくだらないことを言い合っていた、ジギスその人が、部屋の真ん中で倒れていた。
こんな悲惨な姿になった人は、今までにもたくさん目にしてきたし、慣れているつもりだったけれど。
昨日まで一緒になって笑い合っていた人の死体を目の当たりにして、アタシは耐え切れなくなって、悲鳴をあげた。
「き、きゃぁぁぁああ!?!? ジギス、ジギス!?」
「大丈夫ですか!?」
そうだ、まだ死んでいないかもしれない。適切な処置を施せば、体力もあるジギスなら持ちこたえてくれるかもしれないじゃない。薬師のエルマーもいるのだから、止血剤も使える。
アタシとエルマーは部屋の中に駆け込んで、ジギスに呼びかける。傷口の状態を見て、息があるか確認して、脈も計って。
「どうしたの……って、ジギス!?」
「ひぃっ!?」
「……死んでいる、の……?」
アタシの悲鳴を聞きつけた他の住人達が、何事かとやって来るけれど、質問に答えている余裕はない。
…………でも、駄目ね、もう。
急所に深い傷があって、息もしていなくて、脈もない。生きていないのだから手の施しようが、ない。
……え、ジギスが死んだの? あのジギスが? ジギスは強いのよ? 誰かに殺されるような軟な男じゃないし、昨日までアタシのとっておきのお酒を飲んで、けらけらと馬鹿みたいに笑っていたじゃない。
どうして、動かないの? って、死んでいるからで……だからどうして死んでいるのか、って話で……原因は身体中にある殺傷のせいなのだろうけれど、だからどうして元国軍兵士の彼を殺せたのか……そもそも犯人は誰なのよ、どうしてジギスが死んでいるのよ…………???
思考が、無意味にぐるぐるとまわる。人の死はたくさん見てきたつもりだけれど、頭がジギスの死を受け入れることを拒否している。そう、ジギスは誰かに殺されて死んでしまって、アタシはもう救うことが出来なくて……。
…………あぁ、どうして? そんなこと、皆が思っているでしょうに。声をあげて、泣き喚きたいわ。
アタシは顔を上げて、部屋の入り口でこちらを見ている他の住人達に視線を向けた。
ヨハンネスは糸目気味の目を見開いているし、テレーゼは自分を抱き締めるように腕を組んで縮こまっているし、リーゼは静かに目を逸らしているし、ヴィムは顔を真っ青にさせているし、マリウスはリーゼに縋りついて身体を震わせている。最後に向かいにいるエルマーに視線を向ければ、彼もまた拳を握り締めて、悔しそうに歯を食いしばっていた。
皆、驚いているし、恐怖を抱いている。誰だって、叫び出したいけれど、ぐっと堪えている。辛くて、困惑しているのは皆一緒。
アタシは心を落ち着けるために深く息を吐き出して、結論を口にした。あくまで動揺していることを悟られないように。
「死後硬直が始まりかけているわ。ひとまず、ここより涼しい場所へ移動させましょう。エルマー、ヨハンネス、お願いしてもいいかしら」
「分かりました。皆さんは先にダイニングへ」
エルマーはアタシの指示にすぐさま頷いて、ヨハンネスと二人でジギスの遺体を運び出す。血が飛び散って、ジギスの部屋はすっかり見違えてしまった。これじゃあ、まるで戦場だわ。
本当はもっと調べたいことが残っているけれど、一度皆集まっていたほうがいいと思う。エルマー達もじきに戻ってくるだろうし、先にダイニングに向かうことにする。アタシは去る間際に、少しだけジギスの部屋を見つめていたのだった。
アタシ達がダイニングに到着して数十分後。
遺体を運び終えたエルマーとヨハンネスが戻って来た。この館の涼しい場所といえば、地下にあるワインセラーくらいしか思い浮かばないけれど、おそらくそこまで行ってきたのだろう。戻ってきた二人を労いつつ、アタシは本題を切り出した。
「さっき見た限りでは、麻痺性のある毒が使われた形跡があったわ。それと、急所を鋭い刃物で斬られていた」
「ジギスは元国軍兵士。まずは毒で弱らせてから仕留めよう、という魂胆だったようですね」
エルマーも同様の見解を持っていたようね。でも、そうでもなければ、あのジギスを追い込むことすらままならないと思うもの。それこそ、ジギス以上に武道の心得がある人がこの中にいれば、話は別だけれど。
「問題は……何故ジギスは殺されたのか。そして、犯人は誰なのか」
考えたくはない話だけれど、ジギスを殺した犯人はこの館の住人であると思っている。連日の大雨のせいで、この館には簡単に出入りも出来ないだろうし、何より毒を使用された形跡がある以上、外部犯の可能性はかなり低い。
アタシの発言に、ヴィムは隻眼を見開いて驚きを露わにする。
「犯人って……もしかして、この中にいると思ってるんスか!?」
「ここ連日、移動もままならないような大雨が続いているのよ? アタシは状況から見て、この中にいる誰かが犯人なんじゃないかと思っているわ」
「そんな……」
信じたくない、といった様子ではあったけれど、納得はしているようね。
とはいえ、現時点ではまだ捜査も満足に出来ていないし、証拠も何もない。まず出来ることといえば……。
「ジギスが殺されたのは、おそらく今朝の四時から六時頃。皆、その頃に何をしていたのか教えてほしいの」
各自のアリバイを確認する。単純な話だけれど、まずはこういったことから確認しないとね。
「自分は、部屋で紅茶を飲んでいた。一人で」とヨハンネス。
「オレはドーリスに餌をやりに行っていたッス」
「ボクも同行してたよ。朝起きてからずっと一緒にいたから……」とヴィムとマリウス。
「わたしは……その、お恥ずかしながら車椅子から落ちてしまって……丁度通りかかったテレーゼに助けを求めたのだよ」とリーゼ。
恥ずかし気に頬をかくリーゼは、そのまま視線をテレーゼの方に向けて言った。
「テレーゼはジギスを呼んできてくれて、彼に助けてもらったよ」
「それは何時頃?」
「えっと……四時くらい、だったかな?」
確認するかのようにリーゼが言うと、テレーゼは迷うことなく首を縦に振った。
「我が起きてすぐだった。その時間で間違いないわ」
テレーゼはあまり部屋から出てこないものの、規則正しい生活を送っていることは知っている。テレーゼがジギスを呼びに行った時点では、彼は確実に生きていたことになるけれど……問題はその後ね。リーゼを助けた後、ジギスは殺されたと考えるのが妥当かしら。
「しかし、我は伝えてすぐに部屋に戻ったから、結局アリバイはないということになる」とテレーゼ。
「わたしも、助けてもらってダイニングへ向かったから、実質その後は一人だったよ」とリーゼ。
「じゃあアリバイがあるのは、ヴィムとマリウスだけね……」
ヴィムとマリウスは幼い頃から仲が良かったらしく、この館に来てからも常に行動をともにしている。もしかすると友人以上の関係も……なんて考えた日もあるけれど、真偽のほどは定かではない。
……と、そんな与太話は置いておいて、二人以外には犯行が可能だった、ということね。
エルマーはどうかしら……アタシはずっと寝ていたから、彼のアリバイを立証することは出来ないでしょう。皆、アタシの睡眠の悪癖を知っているわけだし。
「あとは動機ですが……」
「こんなことは言いたくないのだがね、おそらく皆が思っているから、思い切って言うぞ」
動機の模索を始めようとしたエルマーを遮って、ヨハンネスが言う。
「アンネが怪しい」と。
……はぁ? アタシが怪しい、ですって?
思わず眉を顰めてしまう。一体どうしてアタシが犯人だと疑われているのか、はなはだ理解が及ばないわ。アタシの隣に座っていたエルマーが、庇うように声を荒げた。
「ヨハンネス! 冗談でもそういうことは、」
「でも確かに、アンネは昨日ジギスと喧嘩をして……」
マリウスの言葉に、アタシはハッとした。そういえば薄ぼんやりとしているけれど、「いつか痛い目見ればいい」とかそう言った類の言葉を吐いていたような……。
…………そりゃあ、疑われても文句は言えないわ……。
確かに、楽しみにとっておいたお酒を飲まれて腹は立っているけれども、だからって人を殺すにまで至るわけがないでしょうが。
「あんなの喧嘩の内に入らないわ」
「はっ、どうだかな」
とはいえ、嘘はいくらでもつける。慎重に重ねていけば、真実にだってなりうるのだから。アタシの本心も、彼等にとっては嘘と見なされても可笑しくはない。事実、マリウスは怯えた様子でアタシのことを見ている。
「でも、凄く怒っていたし……。それに、毒に詳しいのって」
「それは早急だと思うよ、マリウス」
ぴしゃり、とリーゼが言葉を遮った。
「毒の種類、扱いなんてものは、勉強すれば誰でも知ることが出来る。一概に医者や薬師であるアンネ達だけを疑う理由にはならないさ」
「そ、そうかもしれないけど……」
正直、リーゼがそう言ってくれて嬉しかった。種類にもよるけれど、使うだけなら素人でも出来る。毒薬物に関する書物も存在するわけだし、不可能ではない。そんなこと、ヨハンネスでも分かるだろうに……考えが及ばなかったのかしら。
「まぁ、アリバイがなくて、毒の扱いに詳しくて、前日揉めていた。アタシが犯人に思えるのも仕方ないと思うけれど……神に誓ってしていないと断言するわ。仮にもアタシは医者で、人を救う立場の人間なんだから」
「……よく言うわ……」
テレーゼが、聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう言った。アタシは気が付いたけれど、他の人達は気付いていないみたい。
……まぁ、少し嘘をついたのも事実だけれども。
「ですが、どうしますか? 犯人も分からない今、それぞれ個室に戻るのは危険な気がします」
「そうだね、わたしもエルマーに賛成だ。今日一日は一箇所に固まっているか、グループに別れて行動した方がいいだろう」
エルマーとリーゼの意見も尤もだ。ひとまずアリバイを聞くことは出来たし、ジギスの詳しい検死や状況証拠も探し行きたいところだわ。
「そうね。それじゃあ……アタシとエルマーとマリウス。ヨハンネスとテレーゼとリーゼとヴィム。とりあえずこの二つに別れて行動しましょう」
一応、ヴィムとマリウスは離してみる必要がある。もしも彼等が手を組んでいて、口裏を合わせていた場合、発言や行動に何かしら矛盾点が出てくるかもしれないから。一応座っている位置で振り分けたし、不審にも思われないでしょうけれど、少し不安だった。
「気は沈むでしょうけど、まずは切り替えましょう。じゃあ、朝食を作ってくるわ」
チーム分けに不満が出る前に話を終わらせよう、とアタシは立ち上がりキッチンへと向かうことにする。今日の朝食当番はアタシとマリウス……好都合ね。それとなく話を聞くことが出来そうだわ。
当番ではないけれど、同じチームのエルマーも手伝いに来てくれた。こういう優しいところも、実は好きだったりする。こんな状況下で言うことではないかもしれないけれど。食欲がない人もいるだろうから、よく煮込んだ野菜スープをメインに、パンと魚のソテーの仕込みを始める。
「アンネは落ち着いてるね。やっぱり、人が死ぬのには慣れているから?」
芋の皮を剥きながら、マリウスはふとそう聞いてきた。
十年以上医者として働いているし、当然、人が死ぬ場面にも幾度となく直面している。だからといって、慣れるものではないのだ。救えなかった罪悪感にも苛まれるし、身近な人なら尚更だ。あんなことで怒らなければ良かった……、今はそう思っている。
「……実は相当堪えているのよ、これでもね。ジギスは十年以上付き合いのある子だったし、突然こんなことになって頭がおかしくなりそうだわ」
人間である以上、死は避けて通れない道だけれども、まさか誰かに殺されるだなんて思ってもみなかった。しかも、こんなに早く、お別れがきてしまうなんて。
「こんな大雨じゃあ警官も呼べないし、隣に立っている人が犯人かもしれない、って不信に陥りそう。正直、ここから逃げ出してしまいたい」
これは、紛れもない本心だった。それは多分、皆同じでしょう。
横目でマリウスに視線を向けると、アタシにかける言葉を迷っているのか、そわそわした様子で視線を彷徨わせていた。
「……さっきはごめんね。そうとは知らずに、酷いこと言っちゃって……」
最終的に選んだ言葉は、謝罪の言葉だった。
マリウスはどちらかと言えばか弱い印象だし、彼もまた動揺しているはず。アタシから見れば「マリウスが犯人かもしれない」と思えるけど、マリウスからしたら「アタシが犯人かもしれない」ということだもの。自分の身を守りたくて、誰かを責めてしまうなんてことはいくらだってある。
「いいのよ。マリウスの言ったことも正しいもの。ね、エルマー」
「首を縦に振りたくはありませんが……そういう客観的な意見も大事だと思います」
「さ、暗い顔してないで。よそ見していると危ないわよ」
「そうだね……うん……」
マリウスはどこか納得がいっていないようだったけれど、芋の皮むきをせっせと済ませていく。
この空気じゃあ、詳しいことを聞き出すのは厳しいかしら……。いえ、多少不自然でもこれだけは聞いておいた方がいいわね。
「ねぇマリウス。貴方……ヴィムとは本当にただの友人なの?」
「ッッッ!?!?!?」
結局、答えてはくれなかった。結論から言って、やはりめちゃくちゃ怪しいことが分かった。