第二話 館の住人②
夕食のメニューは具がたくさん詰まったミートパイ。山菜ときのこのソテー。かぼちゃのスープ。そしてデザートにレモンケーキ。ふっくらと焼かれたパンもとても美味しかった。
しっかりと胃に栄養を貯め込んでからが本番だ。ワインによく合うチーズやスモークサーモン、生ハムもたくさん用意されている。今日の夕食担当がヨハンネスだったこともあってか、全てが美味しくて思わず食べ過ぎてしまいそうになる。
ぐびぐびとワインを飲み干していき、気持ちいい具合に酔ってきた気がする。
「はぁ〜、禁酒明けのお酒は美味しいわねぇ」
昼間の陰鬱な気分とは打って変わって、陽気な気分になっている。流石、お酒様様である。向かいに座るジギスは呆れた様子でワインを飲みながら、アタシに目を向けた。
「なんだよ。俺には飲み過ぎるな、とか言っといて。自分もそこそこ飲んでるじゃねぇか」
「まだ二瓶だけじゃない。こんなの飲んだうちに入らないわ」
そういうジギスだって、アタシよりも飲んでいる。アンタに言われる筋合いはないのよ、と注いだばかりのワインを一気に飲み干す。そんなアタシを見て、若干顔を赤くしているリーゼが笑った。
「ふふっ、アンネはお酒が強いね」
「だが、今日は少しペースが早いのではないのかね。外の風にでも当たって来てはいかがかな」
そう皮肉交じりに言ってきたのは、エルマーと一緒に夕食を作ったヨハンネス。美しい金糸のような髪をした、汚れ一つないカソックに身を包んだ男性だ。料理上手なところは尊敬するが、皮肉めいた、人を見下したような発言は今でも苦手に感じる。多分、これからも慣れることはないでしょうね。
「外の風って、アタシに暴風に煽られろって言うのー!?」
今なお、外は滝のように降る雨と、強い風の荒れた天気は続いている。そんな中で「外の風にでも当たって来い」だなんて、とんでもない男だ。
「まぁまぁ。では、新しいワインを持って来て頂けませんか」
「はいはい、行けばいいんでしょう」
エルマーがアタシに用事を言いつけることも珍しい。確かに、少しペースを上げ過ぎていたかもしれない。酔い覚ましがてら、アタシはジギスと一緒にもう一度ワインセラーへと向かった。
それにしても結構な量を持って来たのだけれど、なくなるのが異様に早い気がする。誰かこぼしたのかしら、と疑問に思うくらい。
それにしても、さっき来た時より階段が長く感じられる。
「はぁ、少し酔ったかしら」
「少しぃ?」
「本当よ。アタシが嘘をついているとでも?」
「あぁ」
「まぁ。酷い男っ――――」
ジギスを小突こうとして、アタシは足を引っかけられたかのような感覚を覚えた。ぐらり、と視界が転じて、重心が前方に傾く。
「キャッ!?」
「危ねぇっ!」
ぎゅっ、とジギスに支えられて、アタシは転ばずにやり過ごすことが出来た。けど、勢いに負けてその場に尻餅をついてしまう。
その拍子に後頭部を彼の胸板にぶつけてしまった。ちょっと痛いし、硬かった。筋肉の塊か、コイツは。なんて心の中で言っているけれど、ジギスが助けてくれなかったら、アタシは今頃階段の下まで転げ落ちていたかもしれない。打ちどころが悪かったら骨折……下手をすれば死んでいたかもしれないわね。
「大丈夫か、アンネ」
たいそう焦った様子で、ジギスはアタシの顔を覗き込む。後頭部に伝わってくるジギスの鼓動は、ばくばくとうるさかった。彼も驚いたのね。
「えぇ……助かったわ。ッ、いた……足を挫いてしまったみたい。悪いけど、肩を貸してくれないかしら――――」
そう頼み、ジギスの肩に腕を廻そうとして、アタシは気付いた。アタシが躓いた辺りの段差に、ワイヤーのようなものがぴん、と張られていたのだ。まるで、何かの罠のように。
「何、この糸……」
「さぁ。ネズミ捕りの罠じゃなさそうだな」
アタシの視線の先を追ったジギスも、怪訝そうに眉を顰めている。この館に客なんて来ないし、何かしらの罠を張ったのなら連絡がまわって来るはず。ましてや夕方に来た時には、こんなものはなかった。
「もう意味分かんない。最悪だわ」
「ま、こんな日もあるさ。運が悪かっただけだよ、きっと」
「……そうね」
ひとまずそう区切りをつけることにして、アタシ達は一度戻ることにする。歩けないことはなさそうだったけれど、一応悪化しないようにとジギスが抱えてくれたので、楽ではあった。けれどせめて横抱きにして欲しかったわ。どうして担がれているのかしら。
アタシがそんな風に運ばれているのを見て、ヴィムは「何かの余興ッスか?」って真面目な顔で言ってきたから、恥ずかしくて堪らなかったわ。
躓いて足を挫いたことを説明して、ようやく皆が慌てた様子を見せた。ヨハンネスだけは「躓いた程度で良かったな」なんて口の端を上げていたけれど。コイツ本当に聖職者なのかしら。
そして、リーゼが部屋から薬箱を持って来て手当てをしてくれた。……いえ、自分で出来るのだけれどもね。リーゼはアタシが酷く酔っ払っていると思ったみたいで、「わたしがやるよ」って譲らなかったの。正直言うと、さっき転んだので大分酔いが覚めた。
リーゼは小説家だけれど、医療の心得がかじった程度だけどあるらしい。その手際はいいものだった。てきぱきと綺麗に捻挫に効く薬を塗って、包帯を巻いてくれた。
「これでよし。お医者さんに言うのも可笑しいけれど、しばらく安静にね」
「助かったわ。まったく、とんだ災難だわ」
明日にならないと分からないけれど、まぁそう酷い怪我でもないでしょう。一日経てば治るんじゃないかしら。
それでも、どんな意図で張られたのかも分からないワイヤーに引っかかるだなんて、最悪過ぎる災難だわ。明日、改めて問い詰めることにする。皆そこそこ酔っているし、真面目な話をする雰囲気じゃないもの。
「でも、ジギスがいて良かったね。アンネ酔っ払っていたし、一人だったら階段から転げ落ちていたかも」
マリウスが指摘した通り、ジギスがいなかったら大変なことになっていたかもしれない。酒のことしか考えていないような男でも、たくましい一面を見れた気がする。あと、筋肉の塊だということも知れた。
「本当よ。助かったわ。ありがとう、ジギス」
でも、助けてもらったことには変わりない。改めてお礼を言うも、それまでアタシの傍にいたジギスの姿がなかった。きょろきょろとジギスの姿を探していると、彼はもともといた席に戻って飲酒を再開していた。しかしアタシのお礼の言葉は聞こえていたらしく、片手をあげて快活な笑みを浮かべる。
「気にすんな。ま、お前は安静にしなくちゃなんねぇみたいだし、お前の分のワインは俺のものってことで」
「それはズルいわ……って、それアタシがとっておいた葡萄酒じゃない! 返しなさいよ!」
ジギスがグラスに注がず直飲みしている葡萄酒、それはアタシのお気に入りのものだった。高級ワインなので年に一度しか買えないし、誕生日の時にしか開けない貴重なもの。それをあろうことか、個別のコーナーから取ってきてアタシの許可もなしにガバガバとこの男はっ!!
「そうカッカすんなって。また買えばいいだろ」
その言葉に、コイツに抱いていた感謝の気持ちはいよいよ消え去った。アタシはだんっ、と机を勢いよく叩いて、身を乗り出してジギスを怒鳴る。もちろん、挫いた足に体重はかけていない。
「ふざけないで! 言っておくけど、アンタがひと月で稼いでくる給料の倍はするんだから!」
「大袈裟だなぁ、俺はもっと稼いでるよ」
「まぁまぁアンネ。ここは譲ってあげましょう。代わりと言ってはなんですが、今度街に行った時に欲しいものを何でも買ってあげますから」
「エルマー……」
エルマーに諭されて、アタシの怒りは少しずつ冷めていった気がする。確かに、ジギスと喧嘩しても、アイツに吸収されたお酒が返ってくるわけでもない。悔しいけれど!
それなら今我慢して、エルマーと買い物に行ったほうが……いえ、でもあのお酒は譲りたくない。……諦めるしかないのかしら……アタシの、誕生日のために用意した年に一度の楽しみを……。
「約束、してくれる?」
「勿論。アンネの我儘なら、何でも叶えて差し上げます」
……そうまで言われたら、諦めもつくかしら。そうね、エルマーからのプレゼントの方が嬉しいわよね。アタシの誕生日用のお酒はなかったことにして、恋人との幸せな時間を過ごすのも、らしくていいんじゃないかしら。
「そ、そこまで言うなら……それでいいわ」
「おーおー。お熱いことで」
けれども、コイツは本当に腹立つ。
人が楽しみにしていたお酒を飲んだことに対する罪悪感というものがないのかしら、この男には。
「飲みながら冷やかしてんじゃないわよ! このスカポンタン!」
「ほら、そう怒らないで。今日はもう部屋に戻りましょう」
「うぅぅ、ジギスのバカぁ。いつか痛い目見ればいいのよ!」
エルマーによしよしと頭を撫でられつつも、アタシの口からジギスへの不満が止まることはない。もうそれは無視することにしたのだろうか、リーゼが時計を見上げて言った。
「だが、あまり遅くなってもいけないね。そろそろお開きにしようか」
「じゃあ、食器片付けちゃうね。ヨハンネスも手伝って」
「分かった」
マリウス、ヨハンネスが開いた食器を重ねてキッチンへと運んでいく。そんな二人を見たヴィムも、グラスに残っていたワインを煽って、立ち上がった。
「じゃ、オレは暖炉の薪足してくるッス」
「ではわたしも手伝うよ。今夜は冷えているし、薪を切らしてはいけないからね」
「助かるッス」
そして、ヴィムとリーゼで館内の暖炉の薪を足しに行くらしい。
「あ、そうだ。残ったミートパイ貰ってっていいか? テレーゼに持って行ってやりてぇんだ」
「とか言いつつ、後片付けから離脱する気かなぁ?」
「ははっ、バレたか」
ジギスとリーゼがそんな冗談を言い合っていて、そういえばと思い出した。結局、テレーゼは姿を現さなかった。今日は本当に気分じゃなかったのかしら。自室に篭って何をしているのか、アタシ達は知らない。
本人曰く、占いの修行や趣味の裁縫等をしているそうだが、当番の日以外は部屋の外に出てくることすらない日もある。そんな時は、手の空いている誰かが食事を部屋に運びに行くのだ。
「では、彼女の好物のレモンケーキを持って行ってあげてくれないかい。ほら、丁度一切れ残っているからね」
「丁度って……最後の一切れをこっそり残していたのはリーゼじゃん」
「ふふっ、美味しかったからね。テレーゼもきっと喜ぶと思ったんだ」
お優しいことだわ、とリーゼの気遣いに感心してしまう。それを見ていたマリウスもそうだが、アタシはそこまで頭が回らなかった。というか、多分「テレーゼの好物だから残しておこう」という発想はなかったかもしれない。アタシ、割と自己中心的な女だし……それは、この館の住人のほとんどがそうかもしれないけれど。
「お優しいことで。そんじゃ、行ってくるわ」
ジギスと同じ感想だったなんて。やっぱり少し腹立たしく感じられる。
一度溜息をついてから、アタシとエルマーはテーブルの上の片付けを手伝った。
その後はエルマーの部屋で一緒に眠る。
勿論、ただ一緒に眠るだけではないけれど。
そうしてまた、明日が来るのだ。
明日の朝までは、そう、思っていた。
※※※※
《sideジギスヴァルト》
コンコン、と部屋の扉がノックされて目が覚めた。いや、正確に言うなら、部屋の前に誰かが来たことが分かって目を開けたら、ノックされる音が聞こえてきたのだ。ノックされた、ということは館の住人ということ。さして警戒もせずに俺は扉を開ける。
「おぉ、お前か。どうした?」
そこに立っていたのは、テレーゼだった。テレーゼは「向こうの廊下で転んだ人がいる、助けてあげてほしい」と要件を口にした。
「転んだ? 誰が」
聞けば、転んだ人物というのはリーゼだという。確かに、アイツなら転んだら一人で起き上がることは難しいかもしれねぇな。テレーゼも非力だし、俺に助けを求めるのも分かる気がする。
しかし、こんな時間に何していたのだろうか。時計を見てみれば、時刻はまだ夜中の四時。外は当然真っ暗だし、起きていても何もないし退屈だろうに。
だが、昨夜アンネが躓いたワイヤートラップのようなものに、リーゼも引っかかったとすれば? 誰かのイタズラにしても悪質だし、まずはアイツを助けるのが先だな。
「分かった、すぐに行く」
ことを知らせに来たテレーゼは、「しかと伝えたから我は戻る」とそのまま行ってしまった。人が倒れたというわりには妙に落ち着いていたな、アイツ……。
とはいえ疑うことは後でも出来る。言われた場所に向かうと、リーゼが倒れていたので急いで起こして、車椅子に座らせてやる。
「ったく、気ぃ付けろよ」
「あはは……ごめんよ」
話を聞く限りは、何かに引っかかったわけでもないらしい。どうやら車椅子を上手くコントロール出来ずに、落ちてしまっただけのようだ。まぁ、それならいいんだが。
リーゼとはそこで別れて、俺は自室に戻る。
にしても、まだ午前の四時。まだ眠ぃ。
でも、テレーゼとリーゼは起きていたし、今から二度寝を決め込むと、今度は朝飯を食い損ねちまうかもしれねぇな……。それはそれで面倒だ。仕方ねぇ、起きるか。
仕方なしに眠気の残る身体を動かして、部屋の中で日課のストレッチを開始する。軽く身体を伸ばしただけなのに、頭ががんがんと鳴り響いた。こりゃ完全に二日酔いだな。
ある程度身体が温まった頃、水でも飲みに行こうと部屋を開けた瞬間のこと。丁度、部屋の前に■■の姿があった。その手元にあるコップには、水が入っていた。
「お、丁度いいところに。その水、ちょっと分けてくれねぇか? 二日酔いが酷くてよー」
そう言うと、■■はくすくすと笑いながら手渡してくれる。礼を言いながら受け取って、コップに入れられていた水を一気に流し込む。ひんやりと冷たい液体が喉を通っていく感覚は気持ちのいいものだ。ぷはぁ、と一息つけば、■■は「ちょっと部屋に入れてほしい」と半ば無理矢理で俺の部屋に入ってきた。
「ん、んん? どうした?」
■■は「言いたいことというか、したいことがある」と口にする。「恥ずかしいから詳しくは言わせないで」と続けるその頬は薄らと赤みを帯びている。
そしてそのまま、しゅるしゅると羽織っていた上着を脱ぎ始めてしまった。
……もしかしなくとも、そういう気ではないか?
■■は決して不美人ではない。むしろ、際立った美しさがあると思う。だが、生憎と朝からそういうことをする気力は、不思議と湧いてこなかった。■■には申し訳ないが、しっかりと断るべきだろう。
「悪いけど俺は
そこから、言葉が出なくなった。
その間にも■■は下着を残して、服を全て脱いでしまっていた。
さっきまでの恥じらうような表情は消え、ただ無を映した虚ろな瞳で俺を見下ろしている。
……見下ろしている?
――――がくがく、がくがくと、視界の端に捉えた指先が震えている。
身体中が痙攣して、動けない。どうして突然こんなことに。
「随分と苦しそうじゃないか」と、■■が嗤っている。
「■■、た、助け、のどが、いだっ、焼けて」
■■は、ただ嗤っている。
喉が焼ける。じりじりと熱を帯びて、締め付けられているかのようだった。
震えが止まらない。身体中が熱くて、しびれが止まらない。気持ち悪い、今にも吐きそうだった。
「助けて」と言葉を紡ぐこともままならない。察してくれ、と縋るように■■を見上げても、ただ嗤っているだけ。
「その程度では死なない。何度も服用すれば慣れてくるものでもある。少し痛い目見るだけ」■■は、そう言うだけ。
どうして助けてくれないんだ? どうして嗤っているんだ? どうして、こうなった?
■■が手に持っていた水を飲んだからでは???
今、俺が苦しんでいるのは、■■のせいでは???
気が付いた時にはもう遅かった。■■がゆっくりと、俺を見下ろしながら歩き始める。
「まだまだ、これから。この程度で狼狽えないで」と言いながら壁に、飾られていた剣手に取った。そして迷うことなく、振り下ろした。
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ジギスヴァルト・ホフマンスタール(Sigiswald Hofmannsthal)
一人称:俺 身長:182㎝ 年齢:30歳
アメルジスト軍国の元兵士。現在は雇われのボディーガードをしており、館を獣や盗賊から守っているのも彼である。彼の両親が軍に所属していたこともあり、何とか試験に合格して入隊するも、内乱に巻き込まれて二人の弟を亡くし、守れなかった罪悪感に苛まれ軍を辞めた。その後ペリドレットに移住し、家賃が安く済むと言われて館に入居した。
いわく、「常に酒のことしか考えていない、だらしのない男」。人間としての性質を見た場合は「誠実な男」と評価されるが、同時に各方面から「厄介者」扱いされている。